神武天皇祭
我が大日本帝國の皇太宗 と仰ぎ奉る人皇第一代、 神武天皇の崩御あらせ給ひし日は、三月十一日なれど、此れ太陰曆に屬せるを以て、我が 先帝明治天皇 今の太陽曆に改め給ふ時、四月三日とは定め給ひしなり、謹みて按ずるに、
天皇は御諱 を、神日本 磐余彥尊 と申し奉り、 天照皇大神 五世の孫にして、 天津 日高 日子 波限 建鵜葺草 葺不合尊 の第四子なり、御母 は海神豐玉毘賣命 第二の御女 、玉依比賣命 と申し奉り、御年十五にして皇太子に立ち給ひ、五十一歲にして大和國畝傍 橿原 宮に於て、始めて 天皇の御位に即かせ給ひ、位に坐 ますこと七十六年、御寶齡 百二十七歲にして崩御し給ひしにより、大和國武市郡 山本村畝傍 山東北 の陵 に葬 奉りしに、人皇五十代、 桓武天皇の御代に、淡路御船 と云ふ人、勅 を奉じ、諡 を撰 て、 神武天皇と稱し奉る、是より先、天津日高日子番 邇々藝尊 の、 日向國なる高千穗峰に天降り給ふや、 天祖天照皇大神、御手 づから三種の神器を授け、祝 して曰く、葦原千五百秋 瑞穗國は、是 吾子孫の王 たる可 きの地なり、爾 皇孫就 て知召 せ、寶祚 の隆 ならんこと、當 に天壤と窮 無かる可しと、嗚呼巍々 たる明敎、昭々 たる神訓、是則ち我が 皇國國體の、萬古に易 らざる基礎を確定し給ひし仰ぎ尊む可き、一大豫言なる、神勅にあらずや、
國語に 天位を、天津日嗣 と云ふ、盖 し天日を繼承し給ふの義ならむ、故に我國の皇位たる、彼 の外蕃諸邦の、簒奪弑逆を縱 にし、自立して王と僭 する者とは、素より天壤の差違ある者にして、畏 くも 天祖の天胤 たる萬世一系の 帝統に非ざれば、之を繼承し給ふことは斷然能 はざる所なり、追思せよ、往昔 孝謙の朝 に、忠臣和氣淸麿が、妖僧道鏡の非望を排斥し、以て上下 の肝膽を寒からしめ、 皇位を汚す事能 はざらしめしを、宜 なり、我が帝國憲法を發布せらるゝに際し、大日本帝國は萬世一系の天皇之を統治すと、其第一條に明記せられし事、而して代 を替 ふる百二十二、年を閱 すること實に二千五百八十有餘の久しきに至れる者、宇內廣しと雖ども、萬邦多しと雖ども、果して孰 れに其類例かある、仰ぎ尊とばざる可からざる、世界の一大君子國ならずや、
今軍人の中 に於て、拔群の勳功ある將士に賜はる、最貴最高なる金鵄 勳章の起源たる、當時 神武天皇には、已に中國を平らげ、大和國に入らむとし給ひし時、長髓彥 なる者ありて、 皇師に抗し能 く拒 ぎ戰ひしかば、天皇は非常に御苦戰遊ばされ、大に御心を惱まし給ひし時、一天俄 に搔 き曇り、雹を降らし、金色燦然たる一羽の靈鵄 が天つ御空より舞ひ來りて、 天皇の弓弭 に留まりしに、其鵄 の光り瞱煜 きて、其狀流電 の如し、之が爲、迷眩 みて賊は又戰ふ事能はず、終に敗北せしかば、 天皇は御心のまゝに天下を平定して、御位に即き給ひし祥瑞ある事を、 先帝陛下には、思召されて、明治二十三年二月十一日の吉辰 を以て、左の詔を下し、金鵄勳章を創設遊ばされ給ひしは、寔 に國運の發展に相應せし目出度 御事なり、
朕惟 みるに、
神武天皇皇業を恢弘 し、繼承して朕に及べり、今や夐 かに、登極紀元を算すれば、二千五百五十年に達せり、朕此期に際し、 天皇戡定 の故事に徵 し、金鵄勳章を創立し、將來武功拔群の者に授與し、永く 天皇の威烈を光 にし、以て其忠烈を獎勵せんとす、汝衆庶 此旨を體 せよ、と