2017年11月26日日曜日

外務省雇米国人イペシャインスミツに下し給へる勅語

(明治四年十二月一日)


今般コンパン汝ナンヂ我ワガ外務省グワイムシヤウノ聘ヘイニ応オウシ、遥ハルカニ米国ベイコクヨリ来キテ仕ツカヘニ就ツク。我邦ワガクニ外国グワイコクト交マジハリヲ締ムスフ日ヒタル猶ナホ浅アサシ。其規ソノキ公法コウハフニ於オケルヤ、未イマタ詳悉シヤウシツセサル所トコロアリ。汝ナンヂカ学識ガクシキ浩博カウハクナル、以モツテ後来コウライノ規模キボヲ開ヒラキ、交際カウサイノ条理デウリヲ明アキラカニセンコトヲ、朕チン偏ヒトヘニ希望キバウス。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年11月25日土曜日

条約締結諸国に送達の国書

(明治四年十一月四日)


大日本ダイニツポン帝国テイコク天皇テンノウ睦仁ムツヒト、敬ツツシンテ威望ヰバウ隆盛リユウセイ友誼イウギ親密シンミツナル、英吉利イギリス伊太利イタリー荷蘭オランダ魯西亜ロシア瑞典スヱーデン独逸ドイツ墺太利オーストリー白耳義ベルギー葡萄牙ポルトガル西班牙イスパニヤ丁抹デンマルク布哇ハワイ皇帝クワウテイ陛下ヘイカ、米利堅アメリカ合衆国ガツシユウコク仏蘭西フランス瑞斯スイス聯邦レンパウ大統領ダイトウリヤウニ白マヲス。朕チン、天祐テンイウヲ保有ホイウシ、万世バンセイ一系イツケイナル皇祚クワウソヲ践フミシヨリ以来イライ、未イマタ和親ワシンノ各国カクコクニ聘問ヘイモンノ礼レイヲ修ヲサメサルヲ以モツテ、茲ココニ朕チンカ信任シンニン貴重キチヨウノ大臣ダイジン、右大臣ウダイジン正二位シヤウニヰ岩倉イハクラ具視トモミヲ特命トクメイ全権ゼンケン大使タイシトシ、参議サンギ従三位ジユサンミ木戸キド孝允タカヨシ大蔵卿オホクラキヤウ従三位ジユサンミ大久保オホクボ利通トシミチ工部コウブ大輔タイフ従四位ジユシヰ伊藤イトウ博文ヒロブミ外務グワイム少輔セウフ従四位ジユシヰ山口ヤマグチ尚芳ヒサヨシヲ特命トクメイ全権ゼンケン副使フクシトシ、共トモニ全権ゼンケンヲ委任ヰニンシ、貴国キコク及オヨビ各国カクコクニ派出ハシユツシ、聘問ヘイモンノ礼レイヲ修ヲサメ、益マスマス親好シンカウノ情誼ジヤウギヲ厚アツクセント欲ホツス。且カツ貴国キコクト結ムスヒタル条約デウヤクヲ改正カイセイスルノ期キ、近チカク来歳ライサイニアルヲ以モツテ、朕チンカ期望キバウ豫図ヨトスル所トコロハ、開明カイメイ各国カクコクニ比ヒシテ、人民ジンミンヲシテ其ソノ公権コウケント公利コウリトヲ保有ホイウセシメン為タメニ、従来ジユウライノ定約ヂヤウヤクヲ釐正リセイセント欲ホツスト雖イヘトモ、我国ワガクニノ開化カイクワ未イマタ浹アマネカラス、政律セイリツモ亦マタ従シタガツテ異コトナレハ、多少タセウノ時月ジゲツヲ費ツヒヤスニ非アラザレハ、其ソノ期望キバウヲ達タツスル能アタハス。故ユヱニ勉ツトメテ開明カイメイ各国カクコクニ行オコナハルヽ諸シヨ方法ハウハフヲ撰エラヒ、之コレヲ我国ワガクニニ施ホドコスニ適宜テキギ妥当ダタウナルヲ采トリ、漸次ゼンジニ政俗セイゾクヲ革アラタメ、同オナジク一致イツチナラシメンコトヲ欲ホツス。於是ココニオイテ、我国ワガクニノ事情ジジヤウヲ貴国キコク政府セイフニ詢ハカリ、其ソノ考案カウアンヲ得エテ、以モツテ現今ゲンコン将来シヤウライ施設シセツスヘキ方略ハウリヤクヲ商量シヤウリヤウセシメ、使臣シシン帰国キコクノ上ウヘ、条約デウヤク改正カイセイノ議ギニ及オヨヒ、朕チンカ期望キバウ豫図ヨトスル所トコロヲ達タツセント欲ホツス。此コノ使臣シシンハ、朕チンカ貴重キチヨウ信任シンニンスル所トコロナレハ、陛下ヘイカ・大統領ダイトウリヤウ能ヨク其ソノ言ゲンヲ信聴シンチヤウシ、之コレヲ寵待チヨウタイ栄遇エイグウセラレンコトヲ望ノゾミ、且カツ切セツニ陛下ヘイカ・大統領ダイトウリヤウノ康福カウフク貴国キコクノ安寧アンネイヲ祈イノル。

○大日本ダイニツポン帝国テイコク天皇テンノウ睦仁ムツヒト 明治天皇は、御諱を睦仁むつひと、祐宮さちのみやと申上げ奉つた。

○天祐テンイウヲ保有ホイウシ 「天ッ神の御加護をこの身に蒙り」といふに同じ。詔勅の中に、しばしば拝する語である。「天祐」は、「天助」と同じ。「天のたすけ」である。「易経」の大有に曰ふ。「上九ハ天ヨリ之ヲ祐タスク、吉ニシテ利ヨロシカラザル无シ。」また「天佑」の文字も用ゐられてゐる。

○万世バンセイ一系イツケイナル皇祚クワウソ 「永久にかはらず一すぢにつづく天皇の御位」といふこと。「万世」は、「万代」と同じ。「永遠」の意味。「一系」は、「一統」と同じ。同じ系統の連続をいふ。「皇祚」は、「宝祚」と同じ。皇位即ち天皇の御位、古語の「あまつひつぎ」である。

○聘問ヘイモンノ礼レイ 日常用語の「お見舞の挨拶」といふに同じ。「聘」は、「安否をとふ」また「おとづれる」といふ意味の文字である。支那では、諸侯が大夫をして他の諸侯を訪問せしめることを「聘問」といつた。「曲礼」に、「諸侯ノ大夫ヲシテ諸侯ニ問ハシメルヲ聘ト曰フ。」とあり、「儀礼」に、「大問ヲ聘ト曰ヒ、小聘ヲ問ト曰フ。」とある。

○特命トクメイ全権ゼンケン大使タイシ 官名。特に大命を受けて全権を負ひ、外国に赴く使者といふ意味の名称である。

○工部コウブ大輔タイフ 官名。「工部」は、工部省である。明治三年閏十月二十日設置。当時の各省には、卿一人、大輔一人、少輔一人その他の職員が置かれてあつた。前出。

○外務グワイム少輔セウフ 外務省の官名。

○期望キバウ豫図ヨト 「豫期」といふに同じ。かねてから心の中に考へ、それが実行せられるやうにと望んでゐること。

○定約ヂヤウヤクヲ釐正リセイ 「定まつてゐる条約を改める」といふ意味の語。「釐正」は、「改正」と同じ。缺点あるものを正しく改めること。「唐書」顔師古伝に曰ふ。「秘書省ニ詔シテ考定セシムルニ、釐正スル所多シ。」

○妥当ダタウ 「穏当」と同じ。極端に流れ図、おだやかにして正当と思はれることをいふ。


〔大意〕
謹約。「敬しんで、威望隆盛、友誼親密なる諸国の皇帝・大統領に申上げる。朕は、即位以来、未だ御挨拶の礼もつくしてゐないから、ここに特命全権大使・副使を貴国につかはし、ますます親好の交情を厚くしたいと思ふ。貴国と結んだ条約が、明年改正期になつてゐるについて、朕は、開明各国に劣らないやうに、人民の公権と公利を保たしめることに改正したいと思ふけれど、我が国の文化がまだ十分に進まず、政治や法律も異なつてゐるから、多少の時日を費さなければ、その望みを達することが出来なからう。そこで、開明各国に行はれてゐる方法を選んで、適当なものを採り、だんだんと改めて行かうと思ふ。我が国の事情を、貴国の政府に詢り、その御意見も承はり、使臣が帰国の上、協議して改正の望みを達するやうにしたい。この使臣は、朕が厚く信任してゐる者であるから、その言を信じて聴かれ、よき待遇を与へられるやうに望む。」


〔史実〕
前出「海外派遣の特命全権使臣に賜はりたる勅語」の謹解中に略説しておいたとほり、明治五年は、安政仮条約の規定により、双方の合意を以て、条約の改定をすることが出来る時機に当つてゐたので、その希望を各国の政府に通達するために、明治四年、岩倉具視以下の使節を派遣せられた。前出の勅語に、「依テ今国書ヲ付ス。其レ能ク朕カ意ヲ体シテ努力セヨ。」と仰せられてあるやうに、特命全権使臣を通じて、各国の皇帝並に大統領に国書を御送達あらせられた。ここに謹載したのが、その国書の全文である。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年11月24日金曜日

海外派遣の特命全権使臣に賜はりたる勅語

(明治四年十一月四日)

使臣 岩倉、大久保、木戸、伊藤、井上等

今般コンパン汝等ナンヂラヲ使ツカヒトシテ、海外カイグワイ各国カクコクニ赴オモムカシム。朕チン素モトヨリ汝等ナンヂラノ能ヨク其職ソノシヨクヲ尽ツクシ、使命シメイニ堪タフヘキヲ知シル。依ヨツテ今イマ国書コクシヨヲ付フス。其ソレ能ヨク朕チンカ意イヲ体タイシテ努力ドリヨクセヨ。朕チン今イマヨリシテ、汝等ナンヂラノ無恙ツツガナク帰朝キテウノ日ヒヲ祝シユクセンコトヲ待マツ。遠洋ヱンヤウ渡航トカウ、千万センバン自重ジチヨウセヨ。


特命全権大使随行理事官に下し給へる勅語


(明治四年十一月四日)

今般コンパン汝等ナンヂラヲ海外カイグワイ各国カクコクニ赴オモムカシメム。朕チン汝等ナンヂラカ能ヨク其ソノ職シヨクヲ奉ホウシ、其ソノ任ニンニ堪タフヘキヲ知シル。黽勉ビンベン事コトニ従シタガフヲ望ノゾム。遠洋ヱンヤウ渡航トカウ、千万センバン自重ジチヨウセヨ。


〔史実〕
幕末に欧米諸国の船艦がしきりに我が沿海に来航して、開港を迫つた時、幕府は、その要求を拒む力がなく、遂に米・英・仏・露・蘭の五国と通商条約を締結した。当時の幕吏は、多年の鎖国政策に禍せられて、海外の事情に通ぜず、条約文の如きも、殆ど米国使節の作製した草案をそのままに用ゐたので、我が国に不利益な条項が少くなかつた。中にも、領事裁判権や海関税率の規定の如きは、その最も甚しいものであつた。後に、幕府は、葡萄牙ポルトガル・普露西亜プロシア・瑞西スイス・白耳義ベルギー・伊太利イタリア・丁抹デンマークの諸国とも通商条約を結び、明治維新後、更に瑞典スウェーデン・諾威ノルウェー・西班牙スペイン・墺太利オーストリア・匈牙利ハンガリー・布哇ハワイ等の諸国と、同じくそれぞれ通商条約を結んだが、何れも前の諸国の例によつたものであつた。明治新政府は、この我が国に不利益な条約を改正することの必要を痛感し、明治二年よりしばしばこれを各国の公使に交渉したが、省みる者もなかつた。当時の条約即ち所謂安政の仮条約には、その第十三条に、
今ヨリ凡ソ百七十一箇月ノ後、双方政府ノ存意ヲ以テ、両国ノ内ヨリ一箇年以前ニ通達シ、此ノ条約並ヒニ神奈川条約ノ内存シ置ク箇条及ヒ此ノ書ニ添ヘタル別冊トモニ、双方委任ノ役人実験ノ上、談判ヲ尽シ、補ヒ或ハ改ムルコトヲ得ヘシ。
とあり、百七十一箇月後には、改定し得る規定が存してゐた。百七十一箇月後は、明治五年五月二十九日(太陰暦)即ち西紀一八七二年七月四日(太陽暦)に当つてゐた。そこで、政府に於ては、条約の明文に従ひ、一箇年以前に、改正の希望を各国政府に通達し、その談判を東京に開くことに決した。しかるに、この条約改正といふことは、非常に重大な問題であるから、先づ使臣を諸外国に派遣して、彼我の意見を交換することになり、明治四年十月、外務卿岩倉具視が右大臣兼特命全権大使に任ぜられ、参議木戸孝允・大蔵卿大久保利通・工部大輔伊藤博文・外務少輔山口尚芳の四人が副使に任ぜられ、欧米諸国の状況視察を仰せ付けられた。これらの使臣の出発に際して、明治天皇には、ここに謹載した勅語のやうに、重大なる使命を負うて海外に赴く使臣を御激励あそばされ、且、「朕、今ヨリシテ、汝等ノ無恙帰朝ノ日ヲ祝センコトヲ俟ツ。遠洋渡航、千万自重セヨ。」といふ忝かたじけない御言葉を賜はつたのである。

一行四十八名は、明治四年十一月十二日、横濱を解纜、欧米諸国歴訪の途に上り、十二月六日に、米国サンフランシスコに到著した。この大使の派遣は、条約改正の下相談をまとめ、兼ねてその準備として採用すべき欧米の文物制度を視察するのが目的であつた。しかるに、米国大統領グラントは、条約改正の結了を勧告した。岩倉大使は、その親切に感じて、用意してゐなかつた全権委任状を得るために、急遽大久保・伊藤を帰朝せしめた。しかし、廟議は、両人の提出した改正案を容れず、他日日本に於て改正を行ふことに決した。岩倉も国別に談判を開くことの不利を悟り、談判を中止した。それから、一行は、英・仏・白・蘭・普・露・丁・瑞・独・伊・墺等の諸国を歴訪し、二十三箇月を経て、明治六年九月に帰朝した。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年11月23日木曜日

華族の海外留学を奨励し給へる勅諭

(明治四年十月二十二日)


朕チン惟オモフニ、宇内ウダイ列国レツコク、開化カイクワ富強フキヤウノ称シヨウアル者モノ、皆ミナ其ソノ国民コクミン勤勉キンベンノ力チカラニ由ヨラサルナシ。而シカシテ国民コクミンノ能ヨク智チヲ開ヒラキ才サイヲ研ミガキ、勤勉キンベンノ力チカラヲ致イタス者モノハ、固モトヨリ其ソノ国民コクミンタルノ本分ホンブンヲ尽ツクスモノナリ。今イマ我国ワガクニ旧制キウセイヲ更革カウカクシテ、列国レツコクト並馳ヘイチセント欲ホツス。国民コクミン一致イツチ、勤勉キンベンノ力チカラヲ尽ツクスニ非アラザレハ、何ナニヲ以モツテ之コレヲ致イタスコトヲ得エンヤ。特トクニ華族クワゾクハ、国民コクミン中チユウ貴重キチヨウノ地位チヰニ居ヲリ、衆庶シユウシヨノ属目シヨクモクスル所トコロナレハ、其ソノ履行リカウ固モトヨリ標準ヘウジユントナリ、一層イツソウ勤勉キンベンノ力チカラヲ致イタシ、率先ソツセンシテ之コレヲ鼓舞コブセサルヘケンヤ。其責ソノセキタルヤ亦マタ重オモシ。是コレ今日コンニチ朕チンカ汝等ナンヂラヲ召メシ、親シタシク朕チンカ期望キバウスル所トコロノ意イヲ告ツクル所以ユヱンナリ。夫ソレ勤勉キンベンノ力チカラヲ致イタスハ、智チヲ開ヒラキ才サイヲ研ミガクヨリ外ホカナルハナシ。智チヲ開ヒラキ才サイヲ研ミガクハ、眼マナコヲ宇内ウダイ開化カイクワノ形勢ケイセイニ著ツケ、有用イウヨウノ業ゲフヲ修ヲサメ、或アルヒハ外国グワイコクヘ留学リウガクシ、実地ジツチノ学ガクヲ講コウスルヨリ要エウナルハナシ。而シカシテ年壮トシサカリヲ過スキ、留学リウガクヲ為ナシ難ガタキ者モノモ、一ヒトタヒ海外カイグワイニ周遊シウユウシ、聞見ブンケンヲ広ヒロムル、亦マタ以モツテ智識チシキヲ増益ゾウエキスルニ足タラン。且カツ我邦ワガクニ女学ヂヨガクノ制セイ未イマタ立タタサルヲ以モツテ、婦女フヂヨ多オホクハ事理ジリヲ解カイセス。殊コトニ幼童エウドウノ成立セイリツハ母氏ボシノ教導ケウダウニ関クワンシ、実ジツニ切緊セツキンノ事コトナレハ、今イマ海外カイグワイニ赴オモムク者モノ、妻女サイヂヨ或アルヒハ姉妹シマイヲ挈ヒツサゲテ同行ドウカウスル、固モトヨリ可カナルコトニテ、外国グワイコク所在シヨザイ、女教ヂヨケウノ素ソアルヲ暁サトリ、育児イクジノ法ハフヲモ知シルニ足タルヘシ。誠マコトニ能ヨク人々ヒトビト此ココニ注意チユウイシ、勤勉キンベンノ力チカラヲ致イタサハ、開化カイクワノ域ヰキニ進ススミ、富強フキヤウノ基モトヰ随シタガツテ立タチ、列国レツコクニ並馳ヘイチスルモ難カタカラサルヘシ。汝等ナンヂラ能ヨク斯意コノイヲ体タイシ、各オノオノ其ソノ本分ホンブンヲ尽ツクシ、以モツテ朕チンカ期望キバウスル所トコロニ副ソヘヨ。

○宇内ウダイ列国レツコク 世界の国々。

○開化カイクワ 文化の進歩を意味する語。世の中がよく開けて、人の知識が進むこと。顧覬之の定命論に、「夫レ極ヲ建テ化ヲ開キ、声ヲ樹テ則ヲ貽ノコシ、典防之興、由来尚ヒサシ矣。」とある。明治の初年には、西洋風に倣ふことを文明開化と称したこともあつた。

○並馳ヘイチ ならびはしる。肩を並べて同じやうに進んで行くこと。

○衆庶シユウシヨノ属目シヨクモク 「多くの人々が目をつけてゐる」といふこと。「属目」は、「嘱目」の文字を用ゐることもある。「注目して視る」ことである。「晋書」秦献王東伝に曰ふ。「其ノ貴寵ハ天下ノ属目スル所ト為ル。」

○履行リカウ 「日常の行為」をいふ。「説苑」に、「始メ之ノ文ヲ誦シ、今履ミテ之ヲ行フ、是レ学ノ日ニ益マスマス明カナル也。」とあるやうに、「ふみ行ふ」即ち「実行」といふ意味の文字であるが、転じては、「品行」と同じ意味に用ゐられる。

○標準ヘウジユン 「目あてとすべきのり」即ち「手本」である。韓愈の伯夷頌に曰ふ。「聖人ハ乃チ万世之標準也。」

○鼓舞コブ 「大いにはげます」こと。「激励」と同じ。「鼓つづみを鳴らして舞まはしめる」といふ字義から、人を感動させて、発奮興起せしめる意味に転用せられてゐる語。「法言」に曰ふ。「万物ヲ鼓舞スルハ、其レ唯ノ風雷乎カ。万民ヲ鼓舞スルハ、其レ号令乎カ。」

○聞見ブンケン 「見聞」と同じ。耳で聞き目で見て、知識を収得すること。

○切緊セツキン 「緊切」と同じ。「甚だ大切」といふこと。

○挈ヒツサゲテ 「提」と同じ。「手に持つ」といふことから、「伴ふ」といふ意味に転用せられてゐる語である。


〔大意〕
謹約。「世界の諸国を観るに、開化富強といはれてゐる国は、みなその国民の勤勉の力によるものである。我が国も、旧制を改めて諸外国と並び立つには、国民が勤勉にその本分をつくさなければならない。殊に華族は国民の最高地位にあり、その行が多くの者の手本になるから、一そう勤勉といふことが肝要である。勤勉の力を発揮するには、智識を進め才能をみがかなければならない。それには、外国へ留学するのが最もよい。既に壮年を過ぎて留学し難い者も、一度海外をめぐつて見聞をひろめるやうにすることを必要とする。我が国には、まだ女学校の制度が立つてゐない。幼童の成育には、母の教導が最も大切である。故に、外国へ留学する者は、妻女か姉妹を同伴するがよい。外国の女子教育の進歩もわかり、育児の法にも通ずることが出来る。多くの華族がここに注意すれば、我が国は、ますます開化富強となり、列国と並び進むことが難くないであらう。」


〔史実〕
ここに謹載したのは、明治天皇が、明治四年十月二十二日に、在京の華族を召したまうて、海外留学を御奨励あらせられた勅諭である。翌年(明治五年)六月一日には、御西巡の途次、京都府の華族にも、同じ御趣意の勅諭を下し賜はつた。勅諭の中には、「我邦女学ノ制未タ立サルヲ以テ、婦女多クハ事理ヲ解セス」と仰せられ、更に「殊ニ幼童ノ成立ハ母氏ノ教導ニ関シ、実ニ切緊ノ事ナレハ」と仰せられて、女子教育の不備とその必要を御訓諭あらせられてある。江戸時代に於ては、女子教育を全く閑却してゐた。久しき因襲により、女子教育の必要を認める者が少く、中には公然と無用論を唱へる者さへもあつた。さうした時代の趨勢に反し、明治四年、既にかくも明らかに女子教育の必要を告げさせられて、華族の反省を促したまうたのは、聖慮深慮、寔まことに恐懼に堪へないことである。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年11月22日水曜日

工部省雇外国人に下し給へる勅語

英国人カーケルに下し給へる勅語

(明治四年十月五日)

汝ナンヂ鉄道テツダウ及オヨビ造幣ザウヘイノ事務ジムヲ辨理ベンリシ、既スデニ其績ソノセキヲ効イタスニ及オヨヘリ。朕チン深フカク之コレヲ嘉ヨミス。而シカシテ鉄道テツダウノ如ゴトキハ、我邦ワガクニノ開端カイタンニシテ、其ソノ築造チクザウノ精粗セイソハ、後来コウライノ声誉セイヨニ関渉クワンセフス。宜ヨロシク勉励ベンレイシテ、其功ソノコウヲ畢ヲハランコトヲ望ノゾム。


英国人ブラレトンに下し給へる勅語

(明治四年十月五日)

汝ナンヂ燈明台トウミヤウダイノ事務ジムヲ担当タンタウシ、海岸カイガン危礁キセウノ地チ、漸ヤウヤク其ソノ方向ハウカウヲ知シルニ及オヨヘリ。其ソノ功績コウセキ浅アサカラス。爾後ジゴ益〻マスマス勉励ベンレイセンコトヲ望ノゾム。


仏国人ウエルニー及びチボジーに下し給へる勅語

(明治四年十月五日)

汝等ナンヂラ横須賀ヨコスカ造船廠ザウセンシヤウニアリテ、造船ザウセン製鉄セイテツノ事コトヲ担当タンタウシ、其ソノ職務シヨクムニ尽力ジンリヨクセリ。朕チン深フカク是コレヲ嘉ヨミス。爾後ジゴ益〻マスマス勉励ベンレイシ、其事ソノコトヲ盛サカンニセンコトヲ望ノゾム。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年11月21日火曜日

文部省雇外国人に下し給へる勅語

米国人フルベッキに下し給へる勅語

(明治四年十月五日)

汝ナンヂ久ヒサシク我邦ワガクニニ在アリ、教導ケウダウヲ奉ホウシ生徒セイトヲ訓導クンダウス。朕チン深フカク之コレヲ嘉ヨミス。汝ナンヂノ才学サイガク浩博コウハクニシテ、能ヨク薫陶クンタウノ功コウヲ奏ソウシ、後進コウシンヲシテ其ソノ成業セイゲフヲ速スミヤカナラシム。尤モツトモ欣喜キンキスル所トコロナリ。爾後ジゴ益〻マスマス勉励ベンレイシ、学術ガクジユツヲ盛サカンニセンコトヲ望ノゾム。


〔史実〕
明治四年十月五日には、明治維新前後に於て、我が国の文化に貢献した多くの外国人に、優渥なる勅語を賜はつた。文部省雇米国人フルベッキ、同ドイツ人ミュルラ、同ホフマン、同ホルツ、工部省雇英国人カーケル、同ブラレトン、同仏国人ウエルニー、同チボジー等は、何れもみなその優詔を拝した人々であつた。これは、米国人フルベッキに下し賜はつた勅語である。

フルベッキは、西暦紀元一八三〇年(天保元年)に、オランダのノゼリストに生れ、アメリカに渡り、アアブルの神学校に学んだ。安政六年に来朝し、幕府の命により、八年間長崎に於て教育に従事し、明治二年、大学南校に聘せられて、語学・学藝の教師となり、明治六年まで在職し、後に政府の翻訳顧問となり、元老院に職を奉じた。ナポレオン法典を紹介し、医学に関する進言をなす等、明治初年の文化に貢献した功労は、頗る著しいものがあつた。就いて学んだ者の中には、新政府の首脳として活躍した者も少くなつた。


独逸国人ミュルラ及びホフマンに下し給へる勅語

(明治四年十月五日)

汝等ナンヂラ独逸ドイツ政府セイフノ命メイヲ奉ホウシ、我邦ワガクニニ来キタリ、東校トウカウ医学イガクノ教導ケウダウヲ負任フニンス。汝ナンヂノ学力ガクリヨク精詣セイケイナル、曾カツテ是コレヲ聞キク。爾来ジライ益〻マスマス教導ケウダウニ勉励ベンレイシテ、生徒セイトノ日ヒヲ追オツテ進歩シンポセンコトヲ望ノゾム。


独逸国人ホルツに下し給へる勅語

(明治四年十月五日)

汝ナンヂ独逸ドイツ政府セイフノ命メイヲ奉ホウシ、我国ワガクニニ来キタリ、南校ナンカウ生徒セイト教育ケウイクノ事コトヲ負任フニンス。汝ナンヂ教則ケウソクヲ立タテ教導ケウダウニ力チカラヲ尽ツクスト聞キク。爾来ジライ益〻マスマス生徒セイトヲ薫陶クンタウシ、我ワガ学校ガクカウノ日ヒニ隆盛リユウセイナランコトヲ望ノゾム。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年11月20日月曜日

神器及び皇霊遷座の詔

(明治四年九月十四日)


朕チン、恭ウヤウヤシク惟オモンミルニ、神器ジンギハ天祖テンソ威霊ヰレイノ憑ヨル所トコロ、歴世レキセイ聖皇セイワウノ奉ホウシテ以モツテ天職テンシヨクヲ治ヲサメ玉タマフ所トコロノ者モノナリ。今イマヤ、朕チン、不逮フタイヲ以モツテ復古フクコノ運ウンニ際サイシ、忝カタジケナク鴻緒コウシヨヲ承ウケ新アラタニ神殿シンデンヲ造ツクリ、神器ジンギト列聖レツセイ皇霊クワウレイトヲコヽニ奉安ホウアンシ、仰アフイテ以モツテ万機バンキノ政マツリゴトヲ視ミント欲ホツス。爾ナンヂ群卿グンキヤウ百僚ヒヤクレウ、其ソレ斯旨コノムネヲ体タイセヨ。


〔大意〕
朕がつつしんで考へて見るのに、神器は、天祖(天照大神)の尊い御霊のやどるところで、御歴代の天皇が御奉仕なされて、天ッ神から承けつがせられた御事業を行ひたまうたところのものである。今、朕は、及ばない身を以て、国の政治が昔にかへつた時に当り、忝くも天皇の御位をついだ。新に神殿を造り、神器と御歴代天皇の御霊とを、ここに奉安し、その威を仰いで、すべての政をしようと思ふ。汝等多くの官人も、この旨を心得ておくやうにせよ。


〔史実〕
ここに謹載したのは、明治四年九月十四日、宮中の神殿に、神器と御歴代皇霊の遷座奉安を仰せ出された詔である。

御歴代の皇霊が、天神地祇並に八神と共に、神祇官内に鎮祭せられてゐたことは、既に明治三年正月三日の「神霊を鎮祭し給へる詔」の謹解中に述べておいた。しかるに、明治四年八月八日、官制改正の結果、神祇官が廃せられて、神祇省の設置となつた。そこで、皇霊の御遷座となつたのである。翌年(明治五年)三月には、また神祇省が廃せられて、教部省の新設となつた。かくして、神祇官に奉斎せられてゐた御歴代皇霊と、天神地祇及び八神の神霊とは、相次いで宮中の神殿に遷座せられるに至つたのである。
〔追記〕宮地直一氏の「神社綱要」に曰ふ。「上記行政機構の改正(明治四年・五年の改正)は、頗る遠大な目的に出で、今後久しきに亘る方針の樹立を期せんとする意図の許に行はれたもののやうに思はるゝ。それは何故かと云ふに、当時神祇官の管掌した事務は、祭祀と宣教との二者に大別せらるゝ中で、先づ祭祀に就いては、永久に不変の根本的典礼として最高の取扱に出るべきであるとし、仍つて神祇省の廃止とともに、之を式部寮に移して、歳時祀典の執行に当らしめらるゝこととなつたので、之に先立つ左院の建議にも、
 一、斎祀ハ皇上親シク百官トトモニ之ヲ管シ、式部寮ヲ以テ祭享ノ礼式ヲ掌判セシムヘキ事、
とある。以て当局の意向を推知するに足るであらう。因みにいふ、式部寮は当時太政官にあつたが、十年九月より宮内省に隷し、後式部職となつた。祀典のことは職内の掌典部に於て之を掌り今日に至る。」


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年11月19日日曜日

侍従の服制を更正し給へる勅諭

(明治四年九月四日)


朕チン惟オモフニ、風俗フウゾクナル者モノ、移換イクワン以モツテ時トキノ宜ヨロシキニ随シタガヒ、國體コクタイナル者モノ、不抜フバツ以モツテ其ソノ勢イキホヒヲ制セイス。今イマ衣冠イクワンノ制セイ、中古チユウコ唐制タウセイニ模倣モハウセシヨリ、流ナガレテ軟弱ナンジヤクノ風フウヲナス。朕チン、太ハナハタ慨之コレヲガイス。夫ソレ神州シンシウノ武ブヲ以モツテ治ヲサムルヤ、固モトヨリ久ヒサシ。天子テンシ親ミヅカラ之コレカ元帥ゲンスヰト為ナリ、衆庶シユウシヨ以モツテ其ソノ風フウヲ仰アフク。神武ジンム創業サウゲフ、神功ジングウ征韓セイカンノ如ゴトキ、決ケツシテ今日コンニチノ風姿フウシニアラス。豈アニ一日イチジツモ軟弱ナンジヤク以モツテ天下テンカニ示シメス可ベケンヤ。朕チン、今イマ断然ダンゼン其ソノ制セイヲ更アラタメ、其ソノ風俗フウゾクヲ一新イツシンシ、祖宗ソソウ以来イライ、尚武シヤウブノ國體コクタイヲ立タテント欲ホツス。汝ナンヂ近臣キンシン、其ソレ朕チンカ意イヲ体タイセヨ。

○風俗フウゾク 「増韻」に「上ノ化スル所ヲ風ト曰ヒ、下ノ習フ所ヲ俗ト曰フ。」とある。この「風俗」の文字は、種々の意味に用ゐられてゐる。通常、「風習」と同じく、「世の習はし」即ち「世間に古くから行はれて来た事」といふ意味に用ゐられる場合が多いが、外に、「身ぶり」即ち「動作」といふ意味の用例もあり、「衣服のよそほひ」即ち「身なり」といふ意味の用例もあり、また「風俗歌」の略称ともなつてゐる。本勅諭は、服制の更正を仰せ出されたものであるから、「身なり」といふことを主としてこの語を解してよからうかと思ふ。

○移換イクワン 「うつりかはり」または「うつしかへる」といふ意味の語である。

○不抜フバツ以モツテ其ソノ勢イキホヒヲ制セイス 「その勢を制するに不抜を以てする」といふに同じ。如何なる時の勢も、常に変らぬ態度で、これを抑へることをいふ。「不抜」は、その文字のとほり、「抜くことが出来ない」といふこと。堅くして動かないことの意味。「老子」に曰ふ。「善ク建テタルハ抜ケズ、善ク抱ケルハ脱セズ。」

○衣冠イクワン 衣服と冠。「服装」といふに同じ。

○中古チユウコ唐制タウセイニ模倣モハウセシヨリ 「中古に至り、唐の制度にならつてから」といふこと。「中古」は、明治十五年に「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」の中に出づる「中世」と同じく、大化の改新の頃から、武家興隆の世までを、大凡に仰せられしものと拝する。「唐制」は、唐の制度、「模倣」は、「学びならふ」こと、また「まねる」こと。

○流ナガレテ軟弱ナンジヤクノ風フウヲナス 「軟弱の風に流れ」といふに同じ。おのづから弱々しい風となつて行くこと。「軟弱」は、「剛強」の反対。「弱々しい」こと。劉琨の詩に曰ふ。「咨余軟弱、弗克負荷。」

○元帥ゲンスヰ 軍人の最高統率者。「左伝」宣公十二年に、「子元帥ト為リ、師命ヲ用ヰザルハ、誰之罪ゾヤ。」とあり、「職原抄」に「大将ハ之ヲ元帥ト謂フ。」とあり、和漢ともに古くから軍の総大将を意味する語となつてゐる。今日では、専ら陸海軍大将に賜はる称号となり、また天皇を大元帥陛下と申上げ奉る。

○神武ジンム創業サウゲフ 神武天皇の御創業。御東征の大業を達成したまうて、御即位あらせられたこと。

○神功ジングウ征韓セイカン 神功皇后の三韓御征伐。


〔大意〕
朕がよく考へて見るのに、風俗といふものは、その時々に都合のよいやうに移しかへて行き、國體といふものは、如何なる時勢にならうとも決して動揺すべきでない。衣冠の制度は、中古に唐の制度にならつたので、だんだんと弱々しい風に流れて来た。朕は、これを大いに慨いてゐる。我が国が武力を政治に用ゐてゐるのは、まことに久しいことである。天皇が御自身に軍の統率者とならせられ、多くの民は、その風を仰いだ。神武天皇の御創業や、神功皇后の三韓御征伐のことを考へても、決して今日のやうな身なりではなかつた。かうした弱々しい風は、一日も天下に示しておけない。朕は、今きつぱりと服制を改めて、その風俗を一新し、祖宗から今日まで伝はつた武を尚ぶ國體を立てようと思ふ。汝等近臣よ、朕がこころを体せよ。

〔史実〕
我が国では、古来、服装といふことが重んぜられて、雄略天皇の御遺詔の中にも、「但ただ、朝野みやこひなの衣冠みそつもの未いまだ鮮麗あざやかなることを得ず」と仰せられてあり、その後、しばしば服装に関する詔を拝してゐる。本書の中に謹載した詔も少くない。

明治天皇には、明治四年九月四日、ここに謹載した勅諭を侍従に賜はり、服制の更正を仰せ出された。当時の服制が軟弱に流れてゐたことについて、「朕太タ之ヲ慨ス」と仰せられ、「今断然其服制ヲ更メ、其風俗ヲ一新シ、祖宗以来、尚武ノ國體ヲ立ント欲ス」と仰せられてある。服制御更正の聖旨をこの御言葉によつて拝察することが出来る。
〔追記〕「岩倉公実記」によれば、「上、侍従ニ勅シ、平常洋式ノ服ヲ用フルコトヲ暁諭シ給フ。」とある。また「翌壬申歳五月、車駕西巡シ給フノ時ニ於テ、始メテ新式ノ御軍服ヲ着御シ、其ノ九月七日ニ及ンテ、陸軍元帥ノ服制ヲ定メ、聖上大元帥トナリ給フトキノ御服制モ亦之ヲ設ケラル。後ニ十一月十二日ニ至リ、文官並ニ有位者及ヒ一般ノ礼服ヲ更メ、従前ノ衣冠ヲ以テ祭服ト定メラル。」とある。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年11月18日土曜日

兵部大少輔及び御親兵少佐以上に賜はりたる勅語

(明治四年九月三日)


汝等ナンヂラ、積年セキネン苦労クラウシ、以モツテ今日コンニチニ至イタル。所謂イハユル実力ジツリヨクナル者モノ、全マツタク汝等ナンヂラ服役フクエキスルニ在アリ。朕チン、甚ハナハタ之コレヲ嘉カトス。殊コトニ、方今ハウコン、外交グワイカウ内務ナイム、日新ニツシンノ時トキニ当アタリ、邦家ハウカノ盛衰セイスヰハ実ジツニ兵ヘイノ強弱キヤウジヤクニ存ソンス。汝等ナンヂラ、深フカク朕チンカ意イヲ体タイシ、弥イヨイヨ以モツテ紀律キリツ厳明ゲンメイ、衆心シユウシン一致イツチシ、励精レイセイ尽力ジンリヨクセヨ。


〔史実〕
明治四年九月三日、兵部大輔・兵部少輔及び少佐以上の御親兵に、この勅語を賜はり、積年(多年)の苦労を嘉みせられ、外交も内務も日々に進んで行く時勢に、その任務の重大を自覚して、ますます励精尽力するやうにと御諭告あらせられた。兵部大輔及び同少輔は、何れもみな当時の職名である。明治二年七月の官制によれば、兵部省は、海陸軍・郷兵・招募・守衛・軍備・兵学校等に関する事務を所管とし、卿一人、大輔たいふ一人、少輔一人、外に大丞・権大丞・少丞・権少丞・大録・権大録・少録・権少録・史生・省掌・使部等の職員を置いた。「御親兵」といふのは、兵部省に直隷し、宮城の護衛に当つた軍隊の名称である。明治四年二月、この御親兵の制度が設けられ、鹿児島・山口・高知の三藩から、総数約一万人の御親兵を徴せられた。御親兵は、後に改称して、近衛兵といつた。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年11月17日金曜日

海陸軍律頒布の上諭

(明治四年八月二十八日)


朕チン惟オモフニ、兵民ヘイミン途ミチヲ分ワカチ寛猛クワンマウ治チヲ異コトニス。其ソノ律リツヲ定サダメ法ハフヲ設マウクルニ於オイテ、豈アニ斟酌シンシヤク商量シヤウリヤウ、以モツテ其ソノ宜ヨロシキヲ制セイセサル可ベケンヤ。頃コノゴロ、海陸カイリク軍律グンリツ撰輯センシフ竣ヲハリヲ告ツグ。朕チン、之コレヲ閲ケミスルニ、損益ソンエキ要エウヲ得エ、軽重ケイチヨウ度ドニ合ガツセリ。依ヨツテ頒布ハンプシ、有司イウシヲシテ遵守ジユンシユシ、軍人グンジンヲシテ懲誡チヨウカイスル所トコロアラシム。

○兵民ヘイミン途ミチヲ分ワカチ 軍人と一般国民とは、職分が異なつてゐるといふこと。

○寛猛クワンマウ治チヲ異コトニス 寛大に治めるのと厳格に治めるのとのちがひがあるといふこと。「寛猛」は、「寛厳」と同じ。

○律リツヲ定サダメ法ハフヲ設マウク 「律」は、刑罰を定めた規則即ち刑法、「法」は、その他の法令である。

○斟酌シンシヤク商量シヤウリヤウ 事情を考へてはかり定めること。「斟酌」は、「参酌」と同じ。いろいろな情実をくみとつて事をきめることをいふ。「周語」に曰ふ。「耆艾キガイ之ヲ修メ、而ル後ニ王斟酌ス焉。」

○撰輯センシフ 文または詩歌等を撰びあつめることをいふ。「撰集」と同じ。

○閲ケミスル 「閲けみ」は、「検けむ」の音の転じたもの。「検あらためて見る」ことをいふ。

○損益ソンエキ要エウヲ得エ 「繁簡要を得」といふに同じ。詳しく説く必要のあるところは、これを詳しく説き、簡単でよいところは、簡単にしてあつて、よくその趣意が徹底してゐること。

○軽重ケイチヨウ度ドニ合ガツセリ 大切なところとさほど大切でないところを見分けて、適度に取扱つてあること。

○頒布ハンプ 多くの者に分けてひろめる。

○有司イウシ それぞれの係の者。

○懲誡チヨウカイ こらしめいましめる。不正な行為に対して制裁を加へること。「懲戒」の文字が用ゐられることもある。


〔史実〕
ここに掲げ奉つたのは、新に撰輯した海陸軍律の草案を御親閲あそばされて、明治四年八月二十八日、これを頒布せしめたまうた時の上諭である。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年11月16日木曜日

廃藩置県の詔

(明治四年七月十四日)


朕チン惟オモフニ、更始カウシノ時トキニ際サイシ、内ウチ以モツテ億兆オクテウヲ保安ホアンシ、外ソト以モツテ万国バンコクト対峙タイヂセント欲ホツセハ、宜ヨロシク名実メイジツ相副アヒソヒ、政令セイレイ一イツニ帰キセシムヘシ。朕チン、曩サキニ諸藩シヨハン版籍ハンセキ奉還ホウクワンノ議ギヲ聴納チヤウナフシ、新アラタニ知藩事チハンジヲ命メイシ、各オノオノ其職ソノシヨクヲ奉ホウセシム。然シカルニ数百年スウヒヤクネン因襲インシフノ久ヒサシキ、或アルヒハ其名ソノナアリテ、其実ソノジツ挙アガラサル者モノアリ。何ナニヲ以モツテ億兆オクテウヲ保安ホアンシ、万国バンコクト対峙タイヂスルヲ得エンヤ。朕チン、深フカク之コレヲ慨ガイス。仍ヨツテ今更イマサラニ藩ハンヲ廃ハイシ県ケント為ナス。是コレ務ツトメテ冗ジヨウヲ去サリ簡カンニ就ツキ、有名イウメイ無実ムジツノ弊ヘイヲ除ノゾキ、政令セイレイ多岐タキノ憂ウレヒ無ナカラシメントス。汝ナンヂ群臣グンシン、其ソレ朕チンカ意イヲ体タイセヨ。

○更始カウシノ時トキニ際サイシ 「すべてのことを改めて新にはじめる時に当つて」といふこと。「維新の際」といふに同じ。

○万国バンコクト対峙タイヂス 諸外国と対等の地位を保つこと。「対峙」は、「対立」と同じ。「むかひ合つて高く立つ」こと。楊炯の賦に曰ふ。「擘波心、而対峙。」

○名実メイジツ相副アヒソヒ 名と実際とが一致すること。世の評判がよくなり、その世評のとほりに内容が充実することの意味。「名実」といふ語は、また「名誉と実功」の意味にも用ゐられ、「孟子」の告子章に、「夫子三卿の中に在リ、名実未ダ上下ニ加ハラズ。」とある。

○政令セイレイ一イツニ帰キセシム 「政府の命令がすべてみな同じところから出るやうにする」といふこと。一つの中央政府からすべての命令が発せられるやうにすることの意味。「政令」は、「政府の命令」であるが、また「政治上のおきて」といふ意味に用ゐて、憲法をはじめとし、すべての法律命令を総称することもある。

○版籍ハンセキ奉還ホウクワン 諸侯が私有してゐた土地と人民を朝廷に還し奉ること。

○聴納チヤウナフ その文字のとほり、「きき入れる」といふ意味の語である。「唐書」劉洎伝に曰ふ。「虚心聴納。」

○知藩事チハンジ 諸侯が版籍を奉還した後、諸藩に置かれた官名。主として諸侯に旧領地を統治せしめられたもの。

○因襲インシフノ久ヒサシキ 「久しき因襲」といふに同じ。「ながくつづいてゐる習慣」といふこと。「因襲」は、従来のしきたりに従ふこと。「習慣」と同じ意味の語。劉歆の移譲太常博士書に曰ふ。「仲尼之道又絶エ、法度因襲スル所無シ。」

○其名ソノナアリテ其実ソノジツ挙アガラサル 後に出づる「有名無実」と同じ。一般にいはれてゐることが、実際には行はれてゐないこと。「名実相副ひ」の反対。名と実とが副はぬこと。版籍を奉還したとはいへ、旧藩主が知藩事となつて、その藩を統治してゐれば、実際は、もとのやうに版籍を私有してゐるのと同じことである。「その名ありてその実挙らざるもの」とは、これを仰せられたのであらう。

○冗ジヨウヲ去サリ簡カンニ就ツキ 無駄なことを省いて簡単にする。

○政令セイレイ多岐タキノ憂ウレヒ 政府の命令が多方面から出る心配。各藩を知藩事が支配してゐるために、中央政府の命令が徹底せず、知藩事の命令と対立することもあることの意味。


〔大意〕
朕がよく考へて見るのに、すべての事を改めて新らしくはじめるに当り、内に於て万民を安らかにをさめ、外に於て諸外国と対等の地位を保つて行かうと思へば、先づ名と実際とが一致し、政府の命令がすべて同じところから出るやうにしなければならない。朕は、さきに諸藩が私有の土地や人民を奉還すると申して来たことをきき入れ、新らしく知藩事を任命し、それぞれその職につとめさせた。しかるに、数百年の久しい間つづいた習慣のために、ただ版籍を奉還したといふ名ばかりで、実際は、そのとほりに行はれず、もとの政治と変りのないものもある。それで、どうして、万民を安らかにし、諸外国と対等の地位を保つことが出来ようか。朕は、ふかくこれを慨いてゐる。よつて、今また藩を廃して県とすることにした。これは、出来るだけ、政治上の無駄を省いて簡単にし、名のみあつて実のないやうな悪い習慣を去り、政府の命令が多方面から出る心配のないやうにするためである。汝等多くの臣下の者も、朕がおもふところをよく心得ておくやうにせよ。


〔史実〕
明治二年六月、明治天皇は、諸藩の版籍奉還を聴許あらせられて、その旧藩主を各藩の知藩事に任じ、管内の政務を執らしめたまうたので、ここに全国の地方行政の統一が成り、府・藩・県の三治制度が布かれるに至つた。しかし、旧藩主が知藩事となり、旧藩の重臣がそれぞれの要職に就いてゐるこの制度では、ただ版籍を奉還したといふのみに過ぎず、知藩事と一般士民の間に、依然として主従の関係が残り、因襲的の情実を離れることが出来なかつた。従つて、封建制の名は滅びても、封建の実はなほ存在し、三治の一致を称すれども、全国統一の実は挙らなかつた。全国を統一して、中央政府の勢力を強化し、王政復古の精神を徹底せしめて、新政の基礎を固めるには、断然、藩を廃して県を置く必要があつた。廃藩置県を断行しなければ、画竜点睛の憾みあることは、夙つとに識者の認めるところであつたが、急にこれを実現すれば、諸藩の不平を誘発して、大乱を醸成する虞おそれもなしとせず、時機の到るを待つより外はなかつた。この大改革には、明治維新の大業の功労者として最も勢力を有する薩・長の二藩主が先づ同意しなければ、到底実現の可能性がないものと思はれた。しかるに、たまたま木戸孝允と大久保利通の意見が一致し、その頃藩政改革の意見を藩主に提出してゐた土佐の板垣退助もこれに賛同し、鳥尾小弥太こやた・野村靖・山県狂介(有朋)は、西郷隆盛を説いて、共に尽力を誓ふといふやうに、朝廷の重臣に支持者が多くなり、時機が漸く熟したのであつた。その結果、明治天皇には、明治四年七月十四日、在京の知藩事を召したまひ、廃藩置県を仰せ出された。ここに謹載したのがその詔である。かくして、一時に全国二百六十三藩の知藩事の職を解かれ、東京に移住せしめられた。この廃藩置県により、全国府県の数は、旧来の府県を合はせて、三府(東京・京都・大阪)・三百一県となつたが、同年(明治四年)十一月、府県の廃合が行はれて、三府・七十二県となつた。さうして、新に人材を抜擢して、府には府知事、県には県令を任命し、政務を掌らしめられたので、封建の餘習も全くここに消滅して、中央政府の威令が徹底し、郡県の制度が確立して、王政維新の実が挙るに至つた。
〔追記〕「岩倉公実記」に曰ふ。「是日コノヒ(明治四年七月十四日)具視トモミ外務卿ト為ルヲ以テ之ヲ外国公使ニ通報ス。英国公使(サー・ヘンリー・パークス)永歎シテ曰ク、藩ヲ廃シ県ヲ置クハ非常ノ英断ニ出ツ。誠ニ貴国ノ為ニ賀スヘシ。吾カ欧羅巴洲ニ於テ、此カクノ如キ大事業ヲ成サント欲セハ、幾年カ兵馬ノ力ヲ用ウルニ非ラサレハ、其成功ヲ期スルコト能アタハサルナリ、今マ貴皇帝ハ一紙ノ詔書ヲ以テ、二百餘藩ノ実権ヲ収復ス、宇宙間未曾有ノ盛事ナリ、貴皇帝ハ真神ノ能力ヲ有ス、決シテ人為ノ企テ及フ所ニ非ラサルナリ。」


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年11月15日水曜日

副島種臣を魯国に遣はし給へる勅

(明治四年五月二十二日)


我国ワガクニ、魯国ロコクト壌土ジヤウド最モツトモ近チカシ。交誼カウギ最モツトモ厚アツフスヘシ。殊コトニ樺太カラフト地方チハウノ如ゴトキハ、彼我ヒガ人民ジンミン雑居ザツキヨ往来ワウライ、各オノオノ其利ソノリヲ営イトナム。之コレヲ保全ホゼンスルノ道ミチニ於オイテ、豈アニ心ココロヲ尽ツクサヽルヘケンヤ。曩サキニ嘉永カエイ五年ゴネン、魯帝ロテイ、全権ゼンケン使臣シシンヲ派ハシ、経界ケイカイヲ定サダメンコトヲ議ギス。而シカレトモ互タガヒニ事故ジコアリテ其ソノ議ギ成ナラス。爾後ジゴ慶応ケイオウ三年サンネンニ至イタリ、彼得堡ペテルブルグニ於オイテ仮カリニ雑居ザツキヨノ約ヤクヲ結ムスヘリ。朕チン、窃ヒソカニ方今ハウコン樺太カラフトノ形状ケイジヤウヲ察サツスルニ、言語ゲンゴ意脈イミヤクノ通ツウセサルヨリ、民心ミンシン疑惑ギワク、或アルヒハ争隙サウゲキヲ生シヤウシ、怨讐ヱンシウヲ醸カモシ、遂ツヒニ両国リヤウコク交誼カウギノ際サイ、懇親コンシンノ意イヲ失ウシナフニ至イタランカ。是コレ経界ケイカイヲ定サダムルノ最モツトモ急務キフムニシテ、独ヒトリ朕チンノ深フカク憂ウレフルノミナラス、魯帝ロテイモ又マタ嘗カツテ大オホイニ心ココロヲ労ラウセシ所以ユヱンナリ。因ヨツテ爾ナンヂ種臣タネオミニ命メイシ、委ヰスルニ全権ゼンケンヲ以モツテシ、往ユキテ経界ケイカイヲ定サダムルヲ議ギセシム。爾ナンヂ種臣タネオミ、其ソレ機宜キギニ従シタガヒ、其事ソノコトヲ正タダシ、両国リヤウコク人民ジンミンヲシテ其ソノ慶福ケイフクヲ保タモタシメ、且カツ以モツテ交誼カウギノ益マスマス厚アツク、永久エイキウ渝カハラサランコトヲ。是コレ朕チンカ深フカク望ノゾム所トコロナリ。爾ナンヂ種臣タネオミ、篤アツク此旨コノムネヲ体タイセヨ。

○魯国ロコク ロシヤ帝国の略称。

○壌土ジヤウド 「国土」といふに同じ。

○彼我ヒガ人民ジンミン雑居ザツキヨ往来ワウライ ロシヤ人と日本人とが入りまじつて住み互に往つたり来たりしてゐること。

○経界ケイカイ 「境堺」と同じ。「さかひ」である。「孟子」の滕文公章に曰ふ。「夫レ仁政ハ必ズ経界ヨリ始マル。」

○彼得堡ペテルブルグ 帝政時代のロシヤの首都。セントピータースブルグとも訓んだ。

○言語ゲンゴ意脈イミヤク 言葉やその意味のすぢ。

○民心ミンシン疑惑ギワク 民の心に疑うたがひがおこること。

○怨讐ヱンシウヲ醸カモシ 「怨うらみを抱いて敵視するやうになる」といふこと。「怨讐」は、その文字のとほり、「うらみとあだ」をいふのであるが、また「うらみのあるかたき」といふ意味にも用ゐられる。「宋史」孫永伝に、「人トノ交ハリ、終身怨讐無シ。」とあり、「左伝」にも、「我三怨有リ、怨讐已スデニ多シ、将マサニ何ヲ以テ戦フベキカ。」とある。「醸カモシ」は、蒸した米を、麴や水に和して醱酵せしめ、酒につくり上げることから、何事かを「おこす」ことや「成しとげる」ことの意味に転用せられる語である。

○機宜キギニ従シタガヒ 「その場合に適したよい方法に従ふ」といふこと。「機宜」は、「機に応じて宜しきを得る」といふ意味の語である。嵆康の絶交書に曰ふ。「人情ヲ識ラズ、機宜に闇クラシ。」


〔大意〕
謹約。「我が国は、ロシヤ帝国と、国土が最も接近してゐるから、交誼を最も厚うしなければならない。殊に樺太地方の如きは、両国の人民が雑居往来して、それぞれ利を営んでゐるから、これを保全する道に、心をつくさなくてはならない。嘉永五年に、ロシヤ皇帝から、全権使臣を遣はして、国境を定めようとの相談があつたが、事故のために成り立たず、慶応五年にペテルブルグで雑居の仮条約を結んだ。今、樺太の様子を見るに、言語が通じないために、民心に疑ひが起り、争ひを生じ、怨みを抱くやうになり、両国の親善が失はれる。国境を定めることは、急務であつて、朕が深く憂ひてゐるのみならず、ロシヤ皇帝も大いに心を労せられてある。よつて汝種臣に全権を委任して、国境を定めることを協議せしめる。」


〔史実〕
樺太及び千島の日露両国境界問題は、幕末から明治初年へかけての重大な懸案となつてゐた。著々と東方侵略の歩を進めたロシヤ帝国は、幕末に至つて、我が北辺に魔手を延ばして来た。安政元年にロシヤ使節プーチャーチンが来朝した時、幕府は、国境問題について談判し、「日露両国の境界を択捉エトロフ・得撫ウルツプ二島の間とし、樺太は旧に依りて界を分たざること」とした。しかるに、その後、ロシヤの東部シベリヤ総督ムラヴィヨフは、黒竜江一帯の地を領有し、進んで樺太をも全然露領とする意志を以て、安政六年七月、自ら軍艦を率ゐ、品川に来り、宗谷海峡を両国の境界とすべきことを、幕府に迫つた。幕府は、これを拒絶した。その後、文久二年七月に至り、幕府は、外国奉行竹内保徳(下野守)・外国奉行兼神奈川奉行松平康直(石見守)・京極能登守を露都ペテルブルグに派遣して、樺太境界を議せしめた。その結果、北緯五十度を以て、日露両国の境界とし、翌年双方より吏員を派遣し、臨地劃定することに決した。しかるに、次第に国内が多事となつたために、幕府は、北辺を顧みる遑いとまがなくなり、翌年委員を樺太に派遣しなかつた。そこで、慶応二年十二月、幕府は、また函館奉行小出秀実(大和守)及び目附石川駿河守をペテルブルグに遣はし、国境問題を議せしめた。ロシヤの委員、亜細亜局長スツレモウホフは、得撫近傍の三島を代償として我に譲り、樺太全部を露領とすることを主張したが、我が委員は、これを承諾しなかつたので、旧に依りて、樺太を日露両国の属領とし、同三年二月二十八日に、仮条約の調印を了をはつた。その文中には、次のやうにある。

第一条 樺太島ニ於イテ、両国人民ハ睦シク誠意ニ交ハル可シ。万一、争論アルカ、マタハ不和ノ事アラハ、裁断ハ其ノ所ノ双方ノ司人共ニ任スヘシ。若シ其ノ司人ニテ決シ難キ事件ハ、双方近傍ノ奉行ニテ裁断スヘシ。

第二条 両国ノ所領タル上ハ、露西亜人・日本人トモ、全島往来勝手タルヘシ。且、未タ建物及ヒ庭園ナキ所、又ハ総テ産業ノ為メニ用ヒサル場所ヘハ、移住・建物等、勝手タルヘシ。

第三条 島中ノ土民ハ、其ノ身ニ属セル物、並ヒニ附属所持ノ品々トモ、全ク其ノ者ノ自由タルヘシ。又土民ハ、其ノ者ノ承諾ノ上、露西亜人・日本人トモニ、之レヲ雇フコトヲ得ヘシ。若シ日本人又ハ露西亜人ヨリ、土民、金銀或ハ品物ニテ、是レマテ既ニ借リ受ケシカ、又ハ現ニ借財ヲ為スコトアラハ、其ノ者ノ望ミノ上、前以テ定メタル期限ノ間、職業或ハ使行ヲ以テ、之レヲ償フコトヲ許スヘシ。(第四条以下略)

この条約は、大体に於て、安政の条約と同じく、ただ細則を定めたのみに過ぎなかつた。かくの如く、幕府の意図は、北緯五十度以南を以て我が領土とするにあつたが、それを成し遂げない中に滅びて、明治の新政となつたのである。

樺太島が日露両国の所属となつたので、露人は、しきりに南進して来て、従来、我が所属となつてゐたところにまで家屋を建て、我が官吏の制することも聴かなかつた。それがために、両国の人民の間に紛争が絶えなかつた。

それで、明治四年五月二十二日、ここに謹載した勅を、外務卿副島種臣に賜はり、国境決定のために、露都へ御差遣を仰せ出されたのである。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年11月14日火曜日

清国皇帝への国書

(明治四年五月)


大日本国ダイニツポンコク天皇テンノウ、敬ツツシンテ大清国ダイシンコク皇帝クワウテイニ白マヲス。方今ハウコン、寰宇クワンウノ間アヒダ、交際カウサイ日日ヒビ盛サカンナリ。我邦ワガクニ、既スデニ泰西タイセイ諸国シヨコクト信シンヲ通ツウシテ往来ワウライセリ。況イハンヤ隣近リンキン貴国キコクノ如ゴトキ、固モトヨリ宜ヨロシク親善シンゼンノ礼レイヲ修ヲサムヘキナリ。而シカシテ未イマタ使幣シヘイヲ通ツウシ、和好ワカウヲ結ムスフコトアラサルヲ、深フカク以モツテ憾ウラミト為ナス。乃スナハチ特トクニ欽差キンサ大臣ダイジン従二位ジユニヰ行カウ大蔵卿オホクラキヤウ藤原フヂハラ朝臣アソミ宗城ムネナリヲ派ハシ、以モツテ貴国キコクニ遣ツカハシテ誠信セイシンヲ達タツセシム。因ヨツテ委ヰスルニ全権ゼンケンヲ以モツテシ、便宜ベンギ事コトヲ行オコナハシム。冀ネガハクハ、貴国キコク交誼カウギヲ思オモヒ、隣交リンカウヲ篤アツクシ、即スナハチ全権ゼンケン大臣ダイジンヲ派ハシ、会同クワイドウ酌議シヤクギシ、条約デウヤクヲ訂立テイリツシテ、両国リヤウコク慶ケイヲ蒙カウムリ、永久エイキウ渝カハラサランコトヲ。乃スナハチ名璽メイジヲ具ソナヘ、敬ツツシンテ白マヲス。伏フシテ祈イノル、皇帝クワウテイノ康寧カウネイ万福バンプクナランコトヲ。


〔史実〕
ここに謹載したのは、明治四年五月、大蔵卿伊達宗城を欽差大臣として清国に遣はされ、修好条約を締結せしめたまうた時、清国皇帝に賜はつた国書である。修好条約の締結については、前勅「伊達宗城を清国に遣はし給へる勅」の中に、その顚末を略述しておいた。本勅は、文辞平易、聖旨も明らかに拝し得られる。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年11月13日月曜日

伊達宗城を清国に遣はし給へる勅

(明治四年五月十五日)


我国ワガクニ、清国シンコクト壌土ジヤウド隣トナリヲ為ナス。宜ヨロシク親交シンカウ往来ワウライスヘシ。爰ココニ、爾ナンヂ宗城ムネナリヲ以モツテ、欽差キンサ大臣ダイジント為ナシ、清国シンコクニ往ユキ隣好リンカウヲ修ヲサメ、条約デウヤクヲ訂サダメ、委ヰスルニ全権ゼンケンヲ以モツテシ、便宜ベンギ事コトヲ行オコナハシム。爾ナンヂ宗城ムネナリ、其ソレ能ヨク両国リヤウコクノ好ヨシミヲ為ナシ、以モツテ朕チンカ望ノゾミニ副ソヘヨ。

○壌土ジヤウド隣トナリヲ為ナス 「国が隣りあつてゐる」といふこと。「壌土」は、「国土」といふに同じ。この文字は、別に、「農作物に適する土」といふ意味にも用ゐられる。しかし、「壌」は、「つち」(土)の外に、「ところ」(場所)「くに」(国土)を意味する文字であるから、「壌土」を国土の意味に用ゐる場合が多い。

○欽差キンサ大臣ダイジン 外交官の名称。当時、勅命を奉じて、対外交渉の任に当つた最高地位の外交官。「欽差」は、「天子の御使」を意味する文字である。「正字通」に曰ふ。「御音ヲ欽勅ト曰ヒ、御使ヲ欽命ト曰ヒ、俗ニ欽差ト曰フ、皆敬意ヲ取レリ。」


〔史実〕
我が国と支那との関係は、古くから国史に伝へられてゐる。隋・唐の頃、既に使節の往復が行はれたことは、本書に謹載した国書によつても明らかである。豊臣秀吉の外征以来、相互の国交は杜絶し、江戸時代に入りても、彼の国の商船が長崎に来て貿易をしたのみに過ぎなかつた。

明治維新後、開国の国是によつて、諸外国と交通をするに及び、おのづから支那との国交も考慮せられるに至つた。明治三年六月、外務権大丞柳原前光さきみつは、命を受けて、支那の上海に赴いて、通商を求めた。当時、支那は、国号を清と称してゐた。外務卿沢宣嘉のぶよしから、清国の総理外国事務大臣に送れる書には、
大日本従三位外務卿清原宣嘉・従四位外務大輔藤原宗則ら、謹みて書を大清国総理外国事務大憲台下に呈す。方今、文明の化大おほいに開け、交際の道日ひに盛に、宇宙の間遠邇ゑんじあることなし。我が邦近歳泰西諸国と互に盟約を訂かはし、共に有無を通ず。況んや、隣近貴国の如き、宜しく最先に情好を通じ、和親を結ぶべし。而かるに、たゞ商船の往来あるのみにして、未だ嘗て交際の礼を修めず、また一大闕典けつてんならずや。曩さきに我が邦政治一新の始め、即ち欽差公使を遣はして盟約を修めんと欲す。内地多事に因りて、遅延して今に至る。深く此れを憾うらみと為す。茲ここに奏准を経て、特に従四位外務権大丞柳原前光・正七位外務権少丞藤原義質・従七位文書権正鄭永寧ていえいねい等を貴国に遣はす。豫前に通信事宜を商議し、以て他日我が公使と貴国と和親条約を定むるの地と為す。伏して冀ねがはくは、貴憲台下、右官員等を歓接し、其の陳述する所を取載せよ。謹白。明治三年庚午七月。
これによつて明らかなるが如く、柳原前光等は、修好通商条約締結の豫備協議に派遣せられたものであつた。前光等は、上海より天津に至り、十月、清国政府の回答を得た。清国政府は、我が要求を容れ、他日、我が国より特派した使節と商議して、条約を締結し、両国の親善を進めるといふのであつた。そこで、前光等は、使命を果して帰朝した。

かくの如く、既に交渉が成立したので、明治四年四月、朝廷に於かせられては、大蔵卿伊達宗城を欽差全権大臣に任じたまうて、清国へ遣はされた。外務大丞柳原前光・権大丞津田真道は、副として随従した。宗城等は、五月、東京を発して、清国に至り、彼の国の欽差全権大臣李鴻章と会見して、修好条約を議し、七月二十九日に調印を了をはつた。条約本文は、十八条より成り、別に通商章程を定めた。

ここに謹載したのは、明治四年五月二十五日、欽差大臣を拝命して清国に赴く伊達宗城に賜はつた勅である。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年11月10日金曜日

新律綱領頒布の上諭

(明治三年十二月二十日)


朕チン、刑部ギヤウブニ勅ミコトノリシテ律書リツシヨヲ改撰カイセンセシム。乃スナハチ綱領カウリヤウ六巻ロククワンヲ奏進ソウシンス。朕チン、在廷ザイテイ諸臣シヨシント議ギシ、以モツテ頒布ハンプヲ允ユルス。内外ナイグワイ有司イウシ、其ソレ之コレヲ遵守ジユンシユセヨ。


〔備考〕明治二年九月二日「新刑律選定に就き集議院に下し給へる御下問」謹解参照。


〔史実〕
既に述べたとほり、明治維新の直後には、江戸時代の刑法を改めて、暫定的にこれを適用した。しかし、新刑法の制定を急務とする者も少くなかつたので、明治二年、刑部省に勅してこれが選定を命ぜられたことは、「新刑律選定に就き集議院に下し給へる御下問」の謹解中に略説しておいた。刑部省に於ては、勅命を奉じて、新刑法の選定に着手し、明治三年十二月、「新律綱領」の草案を奏進した。そこで、十二月二十日に、この上諭を賜はり、これを頒布せしめたまうたのである。

「新律綱領」は、大宝の古律に、明及び清の刑律を参酌し、寛恕軽減の聖旨を体して、時代に適応するやうに立案したものである。六巻より成り、律名を掲げて、(一)名例律(上下)、(二)職制律、(三)戸婚律、(四)賊盗律、(五)人命律(上下)、(六)闘殴律、(七)罵詈律、(八)訴訟律、(九)受贓律、(一〇)詐偽律、(一一)犯姦律、(一二)雑犯律、(一三)捕亡律、(一四)断獄律の十四律とし、八図・一百九十二条とした。正刑を死・流・徒・杖・笞の五種に分ち、別に閏刑じゆんけいとして、謹慎・閉門・禁錮・辺戍・自裁を挙げ、士族に科するものとし、官吏及び華族には、贖金の制を設けたが、更に笞・杖以下に懲役法を設け、一定の場所に於て、苦役に服せしめることとした。この「新律綱領」六巻は、未だ欧米の法制の影響を受けない純然たる東洋風の刑法典であつた。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年11月9日木曜日

惟神の大道を宣揚し給へる詔

(明治三年一月三日)


朕ちん、恭うやうやしく惟おもんみるに、天神てんじん・天祖てんそ・極きよくを立たて統とうを垂たれ、列皇れつくらう相承あひうけ、之これを継つぎ之これを述のぶ。祭政さいせい一致いつち、億兆おくてう同心どうしん、治教ちけう上かみに明あきらかにして、風俗ふうぞく下しもに美うるはし。而しかるに、中世ちゆうせい以降いかう、時ときに汙隆をりゆう有あり、道みちに顕晦けんくわい有あり。治教ちけうの洽あまねからざるや久ひさし。今いまや天運てんうん循環じゆんくわんし、百度ひやくど維これ新あらたなり。宜よろしく治教ちけうを明あきらかにして、以もつて惟神かむながらの大道たいだうを宣揚せんやうすべきなり。因よつて新あらたに宣教使せんけうしを命めいじ、天下てんかに布教ふけうせしむ。汝なんぢ群臣ぐんしん衆庶しゆうしよ、其それ斯この旨むねを体たいせよ。

○天神てんじん天祖てんそ 皇室の遠い御先祖にまします神々や天皇を仰せられたものと拝する。明治二年五月二十一日の「皇道興隆等に関する御下問」謹解参照。

○極きよくを立たて統とうを垂たれ 皇位を確立してそれを後世にお伝へなされること。

○時ときに汙隆をりゆう有あり 時代によつて衰へたり盛になつたりすることがある。「汙隆」は、「盛衰」と同じ。

○道みちに顕晦けんくわい有あり 道が明らかになつたり暗くなつたりすることがある。固有の道がよく行はれる時と行はれない時とがあるといふ意味。「顕晦」は、「明暗」と同じ。転じては、「世にあらはれると隠れる」ことの意味にも用ゐられる。「晋書」隠逸伝にある「君子之行オコナヒハ塗ミチヲ殊コトニス、顕晦之謂イヒ也。」は、この用例である。

○惟神かむながらの大道たいだう 神代から伝はれる大いなる正しい道。天照大神の遺したまうた皇道の意味。前出。

○宣教使せんけうし 神道布教のために任命せられた者。


〔大意〕
朕がつつしんで考へて見るに、我が遠い御先祖にまします神々や天皇は、皇位を定めて後の世にお伝へになり、御歴代の天皇は、これをうけつがせられた。祭祀と政治とは一致し、万民はみな心をあはせ、上の御政治や御教化が正しく行きわたり、下の風俗がまことに美はしかつた。しかるに、中世このかた、世の中が衰へたり盛になつたりして、道の明らかによく行はれることと暗くなつて行はれないこととがあつた。今では、自然に時節がめぐつて来て、すべてのことがみな新らしくなつた。この際政治教化のことを明らかにして、さうして神代から伝はつて来た大道を大いに広く知らせなければならない。そこで、新に宣教使を任命して、天下に布教せしめるのである。汝等多くの臣も一般国民も、よくこの旨を心得よ。


〔史実〕
神霊鎮祭の詔を賜はつたその日、即ち、明治三年正月三日、明治天皇には、この祭祀尊重の御精神を広く一般国民の間に宣布したまふために、宣教使を任命して布教せしむべき旨仰せ出された。ここに謹載したのが、その詔である。これは、大教宣布の詔とも申上げてゐる。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年11月8日水曜日

神霊を鎮祭し給へる詔

(明治三年一月三日)


朕ちん、恭うやうやしく惟おもんみるに、大祖たいその業げふを創はじむるや、神明しんめいを崇敬すうけいし、蒼生さうせいを愛撫あいぶす。祭政さいせい一致いつち、由来ゆらいする所ところ遠とほし。朕ちん、寡弱くわじやくを以もつて、夙つとに聖緒せいしよを承うけ、日夜にちや怵惕じゆつてきして、天職てんしよくの或あるひは虧かけむことを懼おそる。乃すなはち祇つつしみて天神てんじん・地祇ちぎ・八神はつしん曁および列皇れつくわうの神霊しんれいを、神祇官しんぎくわんに鎮祭ちんさいし、以もつて孝敬かうけいを申のぶ。庶幾こひねがはくは、億兆おくてうをして矜式きようしよくする所ところ有あらしめむことを。

○大祖たいそ 「皇祖」と同じ。大祖といふのは、初代の帝王の称である。しかし、本詔に「大祖」と仰せられてあるのは、遠い祖先にまします天皇の御意かと拝察する。

○神明しんめいを崇敬すうけいし 神々を敬ひたふとぶ。「神明」は、「神かみ」といふに同じ。「左伝」の中にも、「之ヲ敬フコト神明ノ如ク、之ヲ畏ルルコト雷霆ライテイノ如シ。」とある。

○蒼生さうせいを愛撫あいぶす 万民を深く愛すること。「蒼生」は、「多くの民」である。古語では、「おほみたから」とも「あをひとぐさ」とも訓んだ。「愛撫」は、「撫でるやうに愛する」こと即ち深く愛することをいふ。

○由来ゆらいする所ところ よつて来れるもと。「原因」といふに同じ。

○寡弱くわじやく 徳のすくない力の弱い者といふ御謙遜の御言葉である。この「寡弱」の文字は身よりのない年の若い者といふ意味にも用ゐられる。

○聖緒せいしよ 「皇緒」と同じ。天皇の御系統即ち皇統のこと。また天皇の御事業といふ意味にも用ゐられる。

○怵惕じゆつてき 「おそれうれふる」こと。心に大いなる不安を感ずることを称する語。

○天神てんじん・地祇ちぎ・八神はつしん 前に謹載した「天神地祇鎮座の宣命」の謹解中に述べてある。「天神」は天ッ神、「地祇」は国ッ神、「八神」は、「祈年祭祝詞」に出づる八柱の神である。

○曁および 「及び」と同じ。「及」の古字。

○列皇れつくわうの神霊しんれい 御歴代の天皇の尊い御霊。

○神祇官しんぎくわんに鎮祭ちんさいし 神祇官に鎮座してお祭りすること。「神祇官」は、明治初年に於ける中央政府の一官庁である。明治元年閏四月二十一日の官制では、太政官を七官に分ち、神祇官をその一官としたが、明治二年七月の官制改革により、二官六省を置き、太政官と神祇官とを二官とし、祭典・諸陵・宣教・祝部・神戸等の監督を、神祇官の所管とした。

○孝敬かうけい 孝心をもつて神を敬ふこと。「敬神崇祖」といふに同じ。

○矜式きようしよく 「つつしんで則る」こと。まごころをつくしてそのとほりに行ふことの意味。「孟子」の公孫丑章に曰ふ。「諸大夫国人ヲシテ皆矜式スル所有アラシム。」


〔大意〕
朕が恭しく考へて見るのに、遠い祖先の方々が、この国を治める大業をおはじめなさつた時には、神々を敬ひたふとび、万民を深く愛したまうたのである。祭政一致のおこりといふものは、甚だ遠い。朕は、徳もすくなく力も弱い身をもつて、皇統をうけついだので、日夜心配して、この尊い天職にかけるやうなことはないかとおそれてゐる。そこで、つつしんで天神・地祇・八神及び御歴代の天皇の御霊を、神祇官の中に鎮めまつり、さうして神を敬ひ祖先を崇ぶ心をあらはさうと思ふ。天下の万民にも、みなこれにならふやうにさせようと思つてゐる。


〔史実〕
明治天皇には、敬神崇祖を非常に重んじたまひ、祭政一致の御政道を御回復あらせられて、明治新政の基礎を定めたまうたのであつた。この敬神崇祖の御精神から、明治元年十月、東京に行幸あらせられるや、十七日に勅書を下し賜はり、武蔵国大宮駅氷川神社を当国の鎮守として御親祭の旨仰せ出されて、二十七日に行幸御参拝あらせられた。その勅書は、前に謹載してある。

官制の変遷を顧みるに、明治元年正月十七日の官制では、三職・七科を置き、神祇科をその一科とし、同年二月三日、七科を改めて七局とし、神祇科を神祇事務局とし、同年閏四月二十一日、更に太政官官制を公布し、太政官を分ちて七官とし、神祇官をその一官とした。その後、二回の小改正が行はれたが、神祇官は、常に太政官の管下に属する一官となつてゐた。しかるに、明治二年七月八日、また官制の大改革が行はれて、二官六省の制度となつた。この制度は、大宝の古制に則り、従来の七官中の行政官を太政官と改めて、神祇官を太政官以外に独立せしめ、この太政官・神祇官を二官とし、他の五官を廃して民部・大蔵・兵部・刑部・宮内・外務の六省を設置したものであつた。かくして、明治の政府は、神事尊重の聖旨を奉じて、新政の緒に就いたのである。

この年(明治二年)十二月、明治天皇には、新に神殿を神祇官内に御建立あらせられて、天神地祇並に八神と共に、御歴代の皇霊を鎮祭したまうた。翌年(明治三年)正月三日に渙発あらせられたのが、ここに謹載した鎮祭の詔である。神祇官人は、この詔を奉じて、天神地祇並に八神及び御歴代天皇の神霊に奉仕することになり、祭祀の根基がここに確定したのであつた。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年11月2日木曜日

天神地祇鎮座の宣命

(明治二年十二月)


天皇命すめらみことの大御命おほみことに坐ませ。天神あまつかみ・地祇くにつかみ八百万やほよろづの大前おほまへに正四位しやうしゐ行かう宮内くない権大丞ごんのたいじよう平朝臣たひらのあそみ信成のぶなりを使つかひと為なして、恐かしこみ恐かしこみも白まをし給たまはくと白まをさく。今年ことし東京とうきやうに新宮にひみやを造給つくりたまひ、八柱やはしらの神等かみがみを祭まつり給たまふに因よりて、大神等おほかみたちをも同おなじ殿とのに招まねき奉まつり、坐ませ奉まつりて、年としの緒を長ながく絶たゆる事ことなく、闕かくる事ことなく、祭まつり給たまはむ事ことを弥高いやたかに聞食きこしめして、大朝廷辺おほみかどべを堅磐かきはに常磐ときはに守まもり給たまひ、百官もものつかさ人等びとたちをも過あやまち犯をかす事ことなく、仕つかへ奉まつらしめ給たまひ、新代あらたよの大おほき御政みまつりごとは国くにの八十国やそくに至いたらぬ隈くまなく、足御代たらしみよの伊加志いかし御代みよに成なし幸さきはへ給たまへと、宇豆うづの御幣みてぐらを称辞たたへごと竟をへ奉まつらくと宣のる天皇命すめらみことの大御命おほみことを甘うまらに聞食きこしめせと白まをす。

○天神あまつかみ・地祇くにつかみ 前にしばしば述べてある。天にまします神または天から降りませる神を天ッ神(天神)といひ、国土に生あれませる神を国ッ神(地祇)といふ。

○八百万やほよろづ 非常に大いなる数の名である。神々の数の甚だ多いことから、「八百万の神」といふ語が、古くから伝へられてゐる。「古事記」上巻に、「是を以て八百万の神、天ノ安之河原に神集かみつどひ集ひて、高御産巣日神たかみむすびのかみの子みこ思金おもひかねノ神に思はしめて」とあり、「万葉集」巻二の長歌には、「天の河原に八百万千万神の神つどひ」とある。

○新宮にひみや 新らしいお宮即ち新らしい神殿のこと。

○八柱やはしらの神かみ 高皇産霊たかみむすびノ神・神皇産霊かみむすびノ神・玉積産霊たまつめむすびノ神・生産霊いくむすびノ神・足産霊たるむすびノ神・大宮売おほみやひめノ神・御食津おほみけつノ神・事代主ことしろぬしノ神の八神。「祈年祭祝詞」の中に出づ。

○年としの緒を 「年」といふに同じ。年としが長くつづくことを、緒に擬していふ語である。「万葉集」巻四に、「わが形見見つつしのばせあらたまの年の緒長く我も思はむ」とあり、その他にも、和歌の中には、用例が頗る多い。

○堅磐かきはに常磐ときはに 「堅磐かきは」は「堅きいは」であり、「常磐ときは」は「常とこいは」即ち「常にかはらぬいは」である。「堅磐常磐」は、物事の永久にかはらぬことをいへる語。宣命にも、祝詞にも、多く用ゐられてゐる。

○八十国やそくに 「多くの国々」といふこと。「八十」は、「多くの数」を意味する語である。「鎮火祭祝詞」に曰ふ。「国くにの八十国やそくに、嶋しまの八十嶋やそしまを生み給ひて」

○足御代たらしみよの伊加志いかし御代みよ 何事も充ち足れる盛大な御代をいふ。

○宇豆うづの御幣みてぐら 「宇豆」は「珍うづ」である。「珍うづ」は「厳いづ」と通ずる。厳しく、高く、貴く、めでたいこと。「玉篇」に、「珍、貴也、美也、重也。」とある。「御幣」は、「御手座みてぐら」の義ともいひ、「充座」の義ともいひ、「御栲座みたへぐら」の約語ともいふ。もと神に奉る物の総名であつたが、後に絹帛などを串に挟みて神に捧げるものをいふ名となり、更にまた絹帛を紙に代へるやうになつた。「うづの御幣」といふ語は、宣命にも祝詞にも、常に用ゐられてゐる。


〔大意〕
天皇の大御命であると、八百万の天神地祇の御前に、正四位行宮内権大丞平朝臣信成を使として、つつしみつつしんで申上げよと仰せられることを申上げる。今年東京に新らしいお宮をお造りなされて、八柱の神々を祭りたまふによつて、大神をも同じお宮にお招き申して、御鎮座をお願ひして、長い年月の間絶えることなく、闕くこともなく、お祭をなされたいといふことをお聞き入れ下され、朝廷を磐石のやうにお守りなされて、多くの役人どもが過ををかすことなくお仕へするやうになされて、この新らしい御政治が、国内にも至らぬところのないやうにして、すべてのものが十分に足る盛な御代になる幸福を与へたまふやうにと、うづの御幣を捧げて、お願ひごとを申上げよと仰せられる天皇の大御命を、どうぞお聞き入れ下さるやうにと申上げる。


〔史実〕
明治二年十二月神祇官中に神殿を建てたまひ、天神地祇・八神及び御歴代の皇霊を鎮祭したまふに当り、宮内権大丞平信成を勅使として遣はされ、天神地祇に告げさせたまうた宣命である。後に掲げ奉る神霊鎮祭の詔の謹解中にこれを述べる。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年11月1日水曜日

徳川慶喜・松平容保等を寛宥し給へる詔

(明治二年九月二十八日)


朕チン聞キク、明君メイクン徳トクヲ以モツテ下シモヲ率ヒキヒ、庸主ヨウシユ法ハフヲ以モツテ人ヒトヲ待マツ。顧オモフニ乱賊ランゾク常ツネニ有アラス、君徳クントク奈何イカンニアルノミ。今イマヤ北疆ホクキヤウ始ハジメテ平タヒラキ、天下テンカ粗ホボ定サダマル。慶喜ヨシノブ容保カタモリ以下イカノ如ゴトキ、各オノオノ宜ヨロシク寛宥クワンイウスル所トコロアツテ、自ミヅカラ新アラタニセシメ、以モツテ天下テンカト更張カウチヤウセン。


〔大意〕
朕が聞いてゐるところによれば、明君は、徳を修めて下の者を率ゐ、庸主は、法を厳しくして人を扱ふといふことである。思ふに、国を乱す悪人といふものがいつもあるわけではない。君に徳があるかどうかといふことにあるのみである。今は北の境の地方の乱も静まり、国中が大かたをさまつた。慶喜や容保やその外の者も、それぞれどうか寛大にしてやり、自分から心を改めさせて、さうして、天下の者がみな一しよに国の勢を盛にするやうにしよう。


〔史実〕
明治維新の直後、大義名分を誤つて叛臣となつた徳川慶喜・松平容保等は、既に寛刑の恩命に浴してゐる。徳川慶喜は、水戸に謹慎を命ぜられ、松平容保は、死一等を減ぜられて、永禁錮の処刑を受けた。然るに、蝦夷地に拠つて、最後まで抵抗をした榎本武揚等が降服して、天下の平定を見るに至り、重ねてこれらの叛臣を寛宥すべき旨仰せ出された。ここに謹載したのがその詔である。詔の中には、「乱賊常ニ有ラス、君徳奈何ニアルノミ」と仰せられてある。争乱の原因を君徳に帰したまうたのは、誠に恐懼に堪へぬことである。
   宥典録(明治二年「太政官日誌」百三より)
法律ハ国家之重事ニ候処、昨年犯逆之罪ニ於テハ、名義紊乱ノ後ヲ承ケ、政教未洽ミカフノ際ニ付ツキ、聖上深ク御反躬被為在アラセラレ、専ラ非常寛典ニ被処シヨセラレ候次第、就テハ、今度深キ思食オボシメシヲ以テ、詔書之通トホリ、更ニ被仰出オホセイダサレ候間、名義ヲ明ニシ、順逆ヲ審ツマビラカニシ、反省自新、盛意ニ対膺タイオウ可致イタスベキ候事。
徳川慶喜
先般謹慎被仰付オホセツケラレ置候処、深キ叡慮ヲ以テ、被免メンゼラレ候事。
静岡藩知事 徳川家達
徳川慶喜儀、別紙之通被仰付オホセツケラレ候条、此段可相達アヒタツスベキ事。
飯野藩知事 保科正益
松平容保儀、先般城地被召上メシアゲラレ、父子永預ナガアヅケ被仰付オホセツケラレ置候処、深キ叡慮ヲ以テ、今度家名被立下タテクダサレ候間、血脈之者相撰アヒエラビ、可願出ネガヒイヅベキ事。
各通 鳥取藩知事 池田慶徳
   久留米藩知事 有馬頼威
松平容保儀、先般城地被召上メシアゲラレ、父子永預ナガアヅケ被仰付オホセツケラレ置候処、深キ叡慮ヲ以テ、今度家名被立下タテクダサレ候間、血脈之者相撰アヒエラビ、可願出ネガヒイヅベキ旨被仰出オホセイダサレ候間、此段為心得ココロエノタメ相達アヒタツシ候事。

三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年10月31日火曜日

新刑律選定に関して集議院に下し給へる御下問

(明治二年九月二日)


我ワガ大八洲オホヤシマノ國體コクタイヲ創立サウリツスル、邃古スヰコハ措オイテ不論ロンゼズ。神武ジンム以降イカウ二千年ニセンネン、寛恕クワンジヨノ政マツリゴト、以モツテ下シモヲ率ヒキヰ、忠厚チユウコウノ俗ゾク、以モツテ上カミヲ奉ホウス。大宝タイハウニ及オヨンテ、唐令タウレイニ折衷セツチユウスト雖イヘドモ、其律ソノリツヲ施ホドコスニ至イタツテハ、常ツネニ定律テイリツヨリ寛クワンニス。其間ソノアヒダ、政マツリゴトノ汙隆ヲリユウ、時トキノ治乱チランナキニ非アラサルモ、大率オホムネ、光被クワウヒノ徳トク、外蕃グワイバンニ及オヨフ。保元ハウゲン以降イカウ、乾綱ケンカウ紐チユウヲ解トキ、武臣ブシン権ケンヲ専モツパラニシ、法律ハフリツ以モツテ政マツリゴトヲ為ナシ、刀鋸タウキヨ以モツテ下シモヲ率ヒキユ。寛恕クワンジヨ忠厚チユウコウノ風フウ、遂ツヒニ地チヲ掃ハラフ。今イマヤ太政タイセイ更始カウシ、宜ヨロシク古イニシヘヲ稽カンガヘ、今イマヲ明アキラカニシ、寛恕クワンジヨノ政マツリゴトニ従シタガヒ、忠厚チユウコウノ俗ゾクニ復フクシ、万民バンミン所トコロヲ得エテ、国威コクヰ始ハジメテ振フルフヘシ。頃者コノコロ、刑部ギヤウブ新律シンリツヲ選定センテイスルノ時トキ、仍ヨツテ茲旨コノムネヲ体タイシ、凡オヨソ八虐ハチギヤク故殺コサツ強盗ガウタウ放火ハウクワ等トウノ外ホカ、異常イジヤウ法ハフヲ犯ヲカスニ非アラサルヨリハ、大抵タイテイ寛恕クワンジヨ、以モツテ流ル以下イカノ罰バツニ処シヨセシメントス。抑ソモソモ刑ケイハ、無刑ムケイニ帰キスルニ在アリ。衆シユウ其ソレ商議シヤウギシテ、以モツテ上聞ジヤウブンセヨ。

○我ワガ大八洲オホヤシマノ國體コクタイ 我が大日本帝国の國體。「大八洲」は、古くから我が国の別名となつてゐる。「國體」は、国家成立の精神やその体制を総括的にいふ語。

○邃古スヰコ 「太古」と同じ。おほむかし。蔡邕の文に曰ふ。「邃古ヲ仰ギ、昆後ヲ輝ス。」

○寛恕クワンジヨノ政マツリゴト 深い御仁愛の大御心をもつて、万民を治めたまふ御政治をいふ。「寛恕」は、「心が広く思ひやりのある」ことを意味する語。「後漢書」魏覇伝に曰ふ。「簡朴寛恕ヲ以テ、政ヲ為ス。」

○忠厚チユウコウノ俗ゾク 忠義の心の厚い習はし。「忠厚」の文字は、「忠信篤厚」即ち「まめやかにして厚き心」の意味に用ゐられることもある。

○大宝タイハウ 文武天皇の御代の年号。この大宝年間に、有名な「大宝律令」が出来上つた。

○唐令タウレイニ折衷セツチユウス 「唐の法令のよいところを採り入れて、我が法令の缺陥を補ふ」といふこと。

○律リツ 昔は、国法を「律」と「令」とに分け、刑罰の制を記したもの、即ち今日の刑法に当るものを「律」といひ、その他の法令を「令」と称した。

○政マツリゴトノ汙隆ヲリユウ 政の衰へた時と盛な時。「汙隆」は、「盛衰」「隆替」と同じ。庾信の詩に曰ふ。「馳輸有盈缺、入道亦汙隆。」

○光被クワウヒノ徳トク 広く世をおほふところの徳。「光被」は「あまねく世に及ぶ」といふ意味の文字である。広大無辺の徳をいふ場合に用ゐられることが多い。「書経」の堯典に曰ふ。「四表ヲ光被シ、上下ニ格イタル。」

○外蕃グワイバン 「外国」といふに同じ。「蕃」は「えびす」である。未開の国を意味してゐる。「外蕃」は、外国を侮つていふ語として多く用ゐられる。

○保元ハウゲン以降イカウ 保元この方。保元は、後白河天皇の御代の年号である。この時代には、史上に有名な保元の乱が起つた。

○乾綱ケンカウ紐チユウヲ解トキ 大権が天皇から離れて、世の中が乱れること。「乾綱」は、「天ののり」「帝王のおほづな」といふ字義から、「王綱」「帝綱」と同じく、君主の大権を意味する語となつてゐる。「晋書」華譚伝に、「聖人之天下ニ臨ム也ヤ、乾綱ニ祖ノツトリ以テ化ヲ流ヒロメ、谷風ニ順ヒ以テ仁ヲ興ス。」とある。「解紐」は、「結んだ紐が解ける」といふことから、政治の乱れることの喩となつてゐる。干宝の「晋紀総論」に、「名実反錯、天綱解紐。」とある。

○刀鋸タウキヨ以モツテ下シモヲ率ヒキユ 刑罰を厳しくして民を服従させること。「刀鋸」は、その文字の如く、刀かたなと鋸のこぎりである。昔、支那では、「割」即ち勢を割く刑に刀を用ゐ、刖げつ即ち足を斬る刑に鋸を用ゐたので、「刀鋸」の文字が刑罰の意味に転用せられるやうになつたのである。司馬遷の報任安書に曰ふ。「奈何イカニシテ刀鋸之餘ヲシテ天下豪傑ニ薦メシメン哉ヤ。」韓愈の送李愿帰盤谷序に曰ふ。「刀鋸加ヘズ、理乱知ラズ。」

○地チヲ掃ハラフ 「地を掃き清める」といふことから、「残るところなく尽きはててしまふ」ことの意味に転用せられてゐる語。「漢書」魏豹伝の賛に曰ふ。「秦六国ヲ滅シ、而シテ上古之遺烈、地ヲ掃ヒテ尽ク矣。」

○刑部ギヤウブ 刑部省のこと。明治二年七月の官制改定によつて置かれた六省の一。獄を断じ、刑名を定め、疑獄を決することを、所管事務とした。

○八虐ハチギヤク・故殺コサツ・強盗ガウタウ・放火ハウクワ 何れもみな古来伝はれる罪名である。「八虐」は、罪の極めて重きもの。「大宝律」に於ては、謀反ぼうはん・謀大逆ぼうたいぎやく・謀叛むほん・悪逆・不道・大不敬・不孝・不義を八虐とした。「故殺」は、故意に人を死に至らしめた罪。

○異常イジヤウ法ハフ 正常の法律と異なる特殊の法。

○寛恕クワンジヨ 心をひろくして思ひやりを深くするといふ意味の文字。

○流ル 流罪のこと。

○無刑ムケイニ帰キスル 刑罰を無しにすること。刑罰を加へる必要がないやうに、民を善導するといふ意味。

○商議シヤウギ はかり定めること即ち相談をすること。


〔大意〕
謹約。「神武天皇以後二千年の間は、寛大な思ひやりの深い御政治をなされて、万民をお治めになり、万民も厚い忠義の心を捧げて、天皇にお仕へ申しあげた。大宝(文武天皇の御代)になつてから、唐の法律や制度を折衷せられたが、刑の施行は、定められた法文よりもなほ寛大であつた。保元(後白河天皇の御代)以後は、世が乱れて、武家が政権を握り、刑罰を厳しくしたので、昔の美風が全く消え失せた。今、大政を一新するに当り、再び古の美風にかへし、万民が安心して生活し得るやうにしなければならない。刑部省が新らしい刑法を定めるに当つては、よくこのことを心得、非常な重罪にあらざる限り、流以下の寛大な罰に処するやうにさせたいと思ふ。」


〔史実〕
ここに謹載したのは、明治二年九月二日、新刑律の選定について、集議院に御下問あらせられた詔である。

明治元年十月、新政府に於ては、仮に幕府の旧法を改めて、死・流・徒・笞の四刑を定めた。さうして、刑罰をやや寛大にし、梟首を以て火刑に代へ、徒刑を以て追放に代へ、大逆に非ざれば磔刑に処せず、死刑は、すべて勅許を得て行ふこととした。当時、未だ俄かに新刑法を定めるに至らなかつたが、刑部大輔参議江藤新平は、大いにこれが制定の急務を論じた。そこで、明治二年七月、官制改正、刑部省の設置とともに、新律の制定を命ぜられるに当り、先づ集議院に、この御下問を発したまうたのである。「刑ハ無刑ニ帰スルニ在リ」といふ簡単な御言葉の中に、優渥な大御心が拝せられる。

この優渥なる聖旨を奉じて、商議の結果、制定せられたのが、「新律綱領」六巻であつた。

 〔備考〕明治三年十二月二十日、「新律綱領頒布の上諭」謹解参照。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)