(明治二年九月二日)
我大八洲ノ國體ヲ創立スル、邃古ハ措テ不論。神武以降二千年、寛恕ノ政、以テ下ヲ率ヰ、忠厚ノ俗、以テ上ヲ奉ス。大宝ニ及ンテ、唐令ニ折衷スト雖モ、其律ヲ施スニ至テハ、常ニ定律ヨリ寛ニス。其間、政ノ汙隆、時ノ治乱ナキニ非サルモ、大率、光被ノ徳、外蕃ニ及フ。保元以降、乾綱紐ヲ解キ、武臣権ヲ専ニシ、法律以テ政ヲ為シ、刀鋸以テ下ヲ率ユ。寛恕忠厚ノ風、遂ニ地ヲ掃フ。今ヤ太政更始、宜ク古ヲ稽ヘ、今ヲ明ニシ、寛恕ノ政ニ従ヒ、忠厚ノ俗ニ復シ、万民所ヲ得テ、国威始テ振フヘシ。頃者、刑部新律ヲ選定スルノ時、仍テ茲旨ヲ体シ、凡八虐故殺強盗放火等ノ外、異常法ヲ犯スニ非サルヨリハ、大抵寛恕、以テ流以下ノ罰ニ処セシメントス。抑刑ハ、無刑ニ帰スルニ在リ。衆其商議シテ、以テ上聞セヨ。
○我大八洲ノ國體 我が大日本帝国の國體。「大八洲」は、古くから我が国の別名となつてゐる。「國體」は、国家成立の精神やその体制を総括的にいふ語。
○邃古 「太古」と同じ。おほむかし。蔡邕の文に曰ふ。「邃古ヲ仰ギ、昆後ヲ輝ス。」
○寛恕ノ政 深い御仁愛の大御心をもつて、万民を治めたまふ御政治をいふ。「寛恕」は、「心が広く思ひやりのある」ことを意味する語。「後漢書」魏覇伝に曰ふ。「簡朴寛恕ヲ以テ、政ヲ為ス。」
○忠厚ノ俗 忠義の心の厚い習はし。「忠厚」の文字は、「忠信篤厚」即ち「まめやかにして厚き心」の意味に用ゐられることもある。
○大宝 文武天皇の御代の年号。この大宝年間に、有名な「大宝律令」が出来上つた。
○唐令ニ折衷ス 「唐の法令のよいところを採り入れて、我が法令の缺陥を補ふ」といふこと。
○律 昔は、国法を「律」と「令」とに分け、刑罰の制を記したもの、即ち今日の刑法に当るものを「律」といひ、その他の法令を「令」と称した。
○政ノ汙隆 政の衰へた時と盛な時。「汙隆」は、「盛衰」「隆替」と同じ。庾信の詩に曰ふ。「馳輸有盈缺、入道亦汙隆。」
○光被ノ徳 広く世をおほふところの徳。「光被」は「あまねく世に及ぶ」といふ意味の文字である。広大無辺の徳をいふ場合に用ゐられることが多い。「書経」の堯典に曰ふ。「四表ヲ光被シ、上下ニ格ル。」
○外蕃 「外国」といふに同じ。「蕃」は「えびす」である。未開の国を意味してゐる。「外蕃」は、外国を侮つていふ語として多く用ゐられる。
○保元以降 保元この方。保元は、後白河天皇の御代の年号である。この時代には、史上に有名な保元の乱が起つた。
○乾綱紐ヲ解キ 大権が天皇から離れて、世の中が乱れること。「乾綱」は、「天ののり」「帝王のおほづな」といふ字義から、「王綱」「帝綱」と同じく、君主の大権を意味する語となつてゐる。「晋書」華譚伝に、「聖人之天下ニ臨ム也、乾綱ニ祖リ以テ化ヲ流メ、谷風ニ順ヒ以テ仁ヲ興ス。」とある。「解紐」は、「結んだ紐が解ける」といふことから、政治の乱れることの喩となつてゐる。干宝の「晋紀総論」に、「名実反錯、天綱解紐。」とある。
○刀鋸以テ下ヲ率ユ 刑罰を厳しくして民を服従させること。「刀鋸」は、その文字の如く、刀と鋸である。昔、支那では、「割」即ち勢を割く刑に刀を用ゐ、刖即ち足を斬る刑に鋸を用ゐたので、「刀鋸」の文字が刑罰の意味に転用せられるやうになつたのである。司馬遷の報任安書に曰ふ。「奈何ニシテ刀鋸之餘ヲシテ天下豪傑ニ薦メシメン哉。」韓愈の送李愿帰盤谷序に曰ふ。「刀鋸加ヘズ、理乱知ラズ。」
○地ヲ掃フ 「地を掃き清める」といふことから、「残るところなく尽きはててしまふ」ことの意味に転用せられてゐる語。「漢書」魏豹伝の賛に曰ふ。「秦六国ヲ滅シ、而シテ上古之遺烈、地ヲ掃ヒテ尽ク矣。」
○刑部 刑部省のこと。明治二年七月の官制改定によつて置かれた六省の一。獄を断じ、刑名を定め、疑獄を決することを、所管事務とした。
○八虐・故殺・強盗・放火 何れもみな古来伝はれる罪名である。「八虐」は、罪の極めて重きもの。「大宝律」に於ては、謀反・謀大逆・謀叛・悪逆・不道・大不敬・不孝・不義を八虐とした。「故殺」は、故意に人を死に至らしめた罪。
○異常法 正常の法律と異なる特殊の法。
○寛恕 心をひろくして思ひやりを深くするといふ意味の文字。
○流 流罪のこと。
○無刑ニ帰スル 刑罰を無しにすること。刑罰を加へる必要がないやうに、民を善導するといふ意味。
○商議 はかり定めること即ち相談をすること。
〔大意〕
謹約。「神武天皇以後二千年の間は、寛大な思ひやりの深い御政治をなされて、万民をお治めになり、万民も厚い忠義の心を捧げて、天皇にお仕へ申しあげた。大宝
(文武天皇の御代)になつてから、唐の法律や制度を折衷せられたが、刑の施行は、定められた法文よりもなほ寛大であつた。保元
(後白河天皇の御代)以後は、世が乱れて、武家が政権を握り、刑罰を厳しくしたので、昔の美風が全く消え失せた。今、大政を一新するに当り、再び古の美風にかへし、万民が安心して生活し得るやうにしなければならない。刑部省が新らしい刑法を定めるに当つては、よくこのことを心得、非常な重罪にあらざる限り、流以下の寛大な罰に処するやうにさせたいと思ふ。」
〔史実〕
ここに謹載したのは、明治二年九月二日、新刑律の選定について、集議院に御下問あらせられた詔である。
明治元年十月、新政府に於ては、仮に幕府の旧法を改めて、死・流・徒・笞の四刑を定めた。さうして、刑罰をやや寛大にし、梟首を以て火刑に代へ、徒刑を以て追放に代へ、大逆に非ざれば磔刑に処せず、死刑は、すべて勅許を得て行ふこととした。当時、未だ俄かに新刑法を定めるに至らなかつたが、刑部大輔参議江藤新平は、大いにこれが制定の急務を論じた。そこで、明治二年七月、官制改正、刑部省の設置とともに、新律の制定を命ぜられるに当り、先づ集議院に、この御下問を発したまうたのである。「刑ハ無刑ニ帰スルニ在リ」といふ簡単な御言葉の中に、優渥な大御心が拝せられる。
この優渥なる聖旨を奉じて、商議の結果、制定せられたのが、「新律綱領」六巻であつた。
〔備考〕明治三年十二月二十日、「新律綱領頒布の上諭」謹解参照。
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)
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