(明治二年二月二十五日)
朕、将ニ東臨、公卿群牧ヲ会合シ、博ク衆議ヲ諮詢シ、国家治安ノ大基ヲ建ントス。抑制度律令ハ、政治ノ本、億兆ノ頼トコロ、以テ軽シク定ムヘカラス。今ヤ公議所法則、略既ニ定ルト奏ス。宜シク速ニ開局シ、局中礼法ヲ貴ヒ、協和ヲ旨トシ、心ヲ公平ニ存シ、議ヲ精確ニ期シ、専ラ皇祖ノ遺典ニ基キ、人情時勢ノ宜ニ適シ、先後緩急ノ分ヲ審ニシ、順次ニ細議シ、以テ聞セヨ。朕、親シク之ヲ裁決セン。
○東臨 「東幸」と同じ。東京行幸の御事。
○公卿・群牧 「公卿」は、朝廷に仕へ奉る高位高官の人々。「くげ」とも訓む。「群牧」は、諸侯即ち諸藩主のこと。廃藩前までは、江戸時代から続いた諸藩が存在してゐた。
○衆議ヲ諮詢シ 「多くの者に相談をして、その意見をきく」といふこと。「諮詢」は、「上から下にはかり問ふ」ことを意味する語である。「諮問」と同じ。
○国家治安ノ大基 国を安らかに治めるもと。「大基」は「大本」と同じ。
○協和ヲ旨トシ 「和合を第一とする」といふに同じ。「協和」は、相互に和して協力すること。「書経」の堯典に、「万邦ヲ協和ス。」とある。
○議ヲ精確ニシ 「精確に議し」と同じ。細かいところにまでも注意して間違ひのないやうに相談をすることである。
○皇祖ノ遺典 皇祖の遺しおかれたおきて。
○人情時勢ノ宜ニ適シ 人情と時勢によくかなつたやうにすること。「人情」は、その文字のとほり、「人のなさけ」「人の愛情」を意味する語であるが、転じて、多くの人間に共通の気分や、世の中の情実といふ意味に用ゐられてゐる。「時勢」は、「時のなりゆき」即ちその時その時によつて変る社会の大勢である。「戦国策」に曰ふ。「権藉ハ、万物之率ナリ、而シテ時勢ハ、百事之長ナリ。」
○先後緩急ノ分ヲ審ニシ 先後と緩急をくはしく区別するといふこと。事の性質をよく考へて、先になすべきものは先に、後になすべきものは後になし、また急ぎのものは急ぎ、さうでないものはゆつくりとするといふやうに、実行上の方法を定めるといふ意味。「緩急」は、その文字のとほりに、「緩かなることと急がしいこと」といふ意味の語であるが、「緩」が添字となり、「危急」と同じ意味に用ゐられることもある。明治二十三年「教育に関する勅語」の中に、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」と仰せられてあるのは、その意味の「緩急」である。
○裁決 「とりさばいてきめる」といふ字義。判断して決定するといふ意味。「決裁」「裁断」等と同じ。
〔大意〕
朕は、近く東京に行幸して、朝臣や諸侯をあつめ、多くの者に相談してその意見を問ひ、国を治めることの大本を定めようと思ふ。制度や律令は、政治の本であり、万民がそれによつて安心するところのものであるから、軽々しくきめてはならない。今、公議所の規則が大体もはや定まつたといふ。それでは、早くその公議所を開いて、礼法を重んじ、和合を第一とし、公平な心をもつて、細かい点までも間違ひないやうに相談し、何事によらず、皇祖の遺しおかれた掟に従つて、人情や時勢によくかなふやうに、事の先後と緩急とを明らかにして、順々に細しく協議した上で、奏上せよ。朕は、親らそれを判断して決定するであらう。
〔史実〕
ここに謹載したのは、明治二年二月二十五日、公議所の開設に際して、議事の御親裁を仰せ出された詔である。
「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」と仰せ出された「五箇条の御誓文」の聖旨を奉じて、明治の新政府は、公議所を開設し、天下の人材を集めて、その経綸を吐露せしめる道を講じた。明治二年二月八日、新政府は、公議所の開議期日を、毎月二・七の日と定め、各庁の四等官以上一人が参会し、且、東京諸学校から各一人、仙台・米沢以下の十八藩から各一人づつの公議人を出さしめることを決した。凡そ時務を論ずる者は、公議所に於て建言せしめるといふ制であつた。
明治元年十月、東幸あらせられた明治天皇には、十二月、京都に還御、翌年(明治二年)三月、再び東幸、東京を以て永く帝都の地としたまうた。公議所の開設に際して、この詔を賜はつたのは、再度東幸の直前であらせられたから、「朕将ニ東臨」と仰せられてある。
同日、政府は、議事取調局に次の如く命じた。
今般御東幸之上、東京城ニ於テ、議事所ヲ設ケ、公卿諸侯在官二等以上、毎次会議ヲ興シ候様、被仰出候ニ付、右議事所規則等、早早取調可致旨、御沙汰候事。
また同日行政官よりの達に曰ふ。
今般御東幸被為在候上、天下ノ衆議公論ヲ以テ、国是大基礎御確定可被為在思食ニ付、東京在勤ノ諸官五等以上ノ者見込ノ儀、不憚忌諱、書取ヲ以テ三月十五日迄ニ建言可有之旨、御沙汰候事。
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)
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