(明治二年八月二十五日)
朕、登祚以降、海内多難、億兆未タ綏寧セス。加之、今歳淫雨農ヲ害シ、民将ニ生ヲ遂ル所ナカラントス。朕、深怵惕ス。依而、躬ラ節倹スル所有テ、以テ救恤ニ充ントス。主者施行セヨ。
○登祚 「登極」と同じ。御即位のこと。「南史」謝霊運伝に曰ふ。「大祖登祚。」
○綏寧 「綏安」と同じ。「やすらか」「やすんずる」といふ意味の語。司馬光の詩に曰ふ。「疲俗待綏寧。」
○淫雨 「霖雨」と同じ。なが雨。「礼記」の月令に曰ふ。「天、沈陰多ク、淫雨早ク降ル。」
○怵惕 「おそれて心の安らかならぬ」こと。「孟子」の公孫丑章に曰ふ。「皆ナ怵惕惻隠之心有リ。」
○救恤 「すくひあはれむ」といふ意味の文字である。「あはれな者を救ひ助ける」ことをいふ。「救済」「救助」と同じ。
〔史実〕
明治元年・二年は、各地に水害が多く、農民が大いなる苦痛を蒙り、農村の疲弊が甚しかつた。これを
聞しめされた明治天皇には、明治二年八月二十五日、ここに謹載した詔を賜はり、恐れ多くも、御みづから諸般の節約を行はせられて、窮民の救恤を仰せ出されたのであつた。
恐懼感激した政府は、同日左のとほりに布告した。
詔書被仰出候通、兵馬之後、庶民未タ安堵ニ至ラサル折柄、当年諸道不作、物価日増ニ騰貴、無告之窮民ハ勿論、一同之難渋差迫リ、殊更東京ハ近来衰微之砌、人口ハ従前之通莫大ニテ、遊民最多ク、漸次産業ニ基クヘキ御施法モ、未タ行届カセラレサル中、今日ノ姿ニ相成、且又京都ニ於テハ、即今御留守ト相成、自然職業ヲ失ヒ、困窮ニ立至リ候者モ不少、全ク時勢之変遷、無拠次第トハ申ナカラ、必至難渋、彼是以テ深被為悩宸襟、格別之御節倹被遊、既ニ餔饌供給ヲモ御減少被為在、窮民御扶助被遊候、就而ハ於諸官モ、官禄之内ヲ以テ、救恤ニ被充候様願出候段、神妙之儀ニ被聞食候、右ハ御不本意ニ被為在候得共、願之趣、至誠貫通セサルモ御残念ニ被思食、当年之所、夫々減少返上之儀、御許容相成、両京救荒ニ可宛行旨御沙汰候事。
但救荒ハ、一時之変ニ処スル事ニテ、総而遊手徒食之者無之様仕法立、最可為急務事。
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)
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