(明治元年十月十七日)
神祇を崇ひ、祭祀を重んずるは、皇国の大典、政教の基本なり。然るに、中世以降、政道漸く衰へ、祀典挙らず、遂に綱紀の不振を馴致す。朕、深く之を慨す。方今、更始の秋、新に東京を置き、親しく臨みて政を視る。将に先づ祀典を興し、綱紀を張り、以て祭政一致の道を復せむとす。乃ち武蔵国大宮駅氷川神社を以て、当国の鎮守と為し、親しく幸して之を祭る。今より以後、歳ごとに奉幣使を遣はし、以て永例と為せ。
○神祇 天地の神々。「天神地祇」の略。古語では、「神祇」の文字を「あまつかみくにつかみ」と訓み、また「あまつやしろくにつやしろ」と訓んでゐる。
○祭祀 「祭」も「祀」も「まつり」と訓む。期日を定めず、供物を捧げてまつる場合には、「祭」の文字を用ゐ、期日の定まれるまつりには、「祀」の文字を用ゐる。しかし、今日では、さうした区別なく並用せられてゐる。「孝経」の疏に、「祭ハ際ナリ、人神相接シ、故ニ際ト曰フナリ。」とある。「書経」の洪範には、「八政、三ニ祀ト曰フ。」とある。「事物紀原」に曰ふ。「包犠鬼物ヲ使ヒ以テ羣祠ニ致シ、犠牲ヲ以テ百神ニ登薦スルハ、則チ祭祀之始ナリ。」
○皇国の大典 我が国に於て最も重んぜられてゐる儀式。
○政教の基本 政治や教育のもと。
○中世以降 中世このかた。「中世」は、明治十五年「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」の、「
中世に至りて文武の制度皆唐国風に傚はせ給ひ」の「中世」と同じく、大化の新政頃から平安朝の末期までを、大凡に仰せられたものと拝する。故に、「中世以降」は、それ以後のこと、即ち、政権が武門に移つてからのこと。同じく軍人勅諭にも、「再中世以降の如き失体なからんことを望むなり。」と仰せられてある。
○祀典 「祭典」と同じ。まつりの儀式である。「礼記」に曰ふ。「此ノ族ニ非ザレバ、祀典ニ在ラズ。」
○綱紀の不振 治国の基礎となるおきてが十分に行はれないこと。
○馴致す 「おのづから招いた」といふこと。「馴致」は、「次第にうつりかはる」といふ意味の文字である。「易経」の坤卦に曰ふ。「履霜堅冰、陰始メテ凝ルナリ。其ノ道ヲ馴致スレバ、堅冰ニ至ルナリ。」
○更始 旧きものを改めて新しく始めること。
○祭政一致 政事と神事の一致。我が国に於ては、古来、祭祀を通じて政治が行はれ、政治のことを「まつりごと」ともいつてゐる。我が國體の本義に基づく特殊の政道である。
○鎮守 その土地を鎮め守ります神またはその社。「源平盛衰記」の一院女院厳島行幸事の中に曰ふ。「是れ当国第一の鎮守に御座す。」
○永例 いつまでも守るべき定め。「永式」と同じ。
〔大意〕
天地の神々をうやまひ、そのまつりを重んずるは、我が国の大切な儀式で、政治教育のもとである。しかるに、中世このかた政治の道が衰へて、祭の儀式がおろそかになり、国のおきてもだんだんと行はれないやうになつた。朕は、これを深く慨いてゐる。今、すべてのことを改めようといふ時、新しく東京に都を定めて、親しく政をすることになつた。これから、先づ祭の儀式をおこし、国のおきてを引きしめ、祭と政とが一致してゐた昔の道にかへさうと思ふ。そこで、武蔵国大宮駅の氷川神社を、その国の鎮守とし、親ら行幸してこれを祭ることにする。今後は、毎年、奉幣使を遣はすやうにして、それを永くかはらぬ例とせよ。
〔史実〕
明治元年十月十七日、武蔵国氷川神社の御親祭を仰せ出されたのが、ここに謹載した詔である。氷川神社の創設は、その年代が甚だ古く、孝昭天皇の勅願によつて建立せられたものともいひ、日本武尊が御東征に際して勧請せられたものともいふ。由緒ある古社の一である。東京に遷幸後、直ちに御親祭を仰せ出されたのは、厚き敬神の大御心のあらはれと拝し奉る。詔の中には、「祭政一致の道を復せむとす。」と、固有の政道を明らかに宣示あらせられてある。
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)
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