(明治二年六月四日)
蝦夷開拓ハ、皇威隆替ノ関スル所、一日モ忽ニス可ラス。汝直正、深ク国家ノ重ヲ荷ヒ、身ヲ以テ之ニ任センコトヲ請フ。其憂国済民ノ至情、朕、嘉納ニ堪ヘス。独恐ル、汝高年、遽ニ殊方ニ赴クコトヲ。然レトモ朕之ヲ汝ニ委ス。始テ北顧ノ憂ナカラン。仍テ督務ヲ命ス。他日皇威ヲ北疆ニ宣ル、汝方寸ノ間ニアルノミ。汝直正、懋哉。
○皇威隆替 「天皇の御威光が盛になると衰へると」といふこと。「隆替」は、「盛衰」と同じ。
○憂国済民 「国事を憂ひ、民の苦しみを助けすくふ」こと。「済民」は、その文字のとほり「民をすくふ」ことである。「書経」に曰ふ。「
尚ハクハ
克ク
予ヲ
相ケテ、以テ兆民ヲ
済フヲ。」
○嘉納ニ堪ヘス この上もなく喜んで承諾する。「嘉納」は、その文字のとほり、「よみしてうけいれる」ことである。言をうけいれる場合にも、物をうけいれる場合にも、この語が用ゐられる。「後漢書」朱暉伝に曰ふ。「便宜ヲ上リ、密事ヲ陳ベ、嘉納ヲ深見ス。」
○殊方 「異境」と同じ。異なる土地。人情や風俗や気候の異なる遠方の国をいふ。班固の賦に曰ふ。「殊方異類、至于三万里。」
○北顧ノ憂 北の方をかへりみる心配。ここにある「北顧」は、北海道に関する御考慮である。
○督務 「その事業を監督する任務」といふ意味の文字であるが、ここに仰せられてあるのは、蝦夷開拓の職名。
○北疆 「北辺」「北境」と同じ。北方のさかひ。
○方寸ノ間 「胸のうち」といふに同じ。「方寸」は、一寸四方の面積といふ意味から、転じて「心」を意味する語となつてゐる。「列子」の仲尼篇に曰ふ。「吾子之心ヲ見ル矣、方寸之地ハ虛矣、幾ド聖人也。」
○懋哉 「勉めよや」と同じ。
〔史実〕
今の北海道は、もと
蝦夷島と称し、松前氏の領地に属してゐた。徳川幕府は、久しい間、殆ど蝦夷を顧みなかつたが、幕末に至り、北辺の警報がしきりに至るに及び、漸くこれに注意し、幕府の直轄地として、その施設にやや力を注いだが、間もなく王政復古となつたので、未だ事業の見るべきものもなかつた。
明治の新政府は、
夙に蝦夷地の開拓に著眼し、明治元年
(慶応四年)四月、箱館裁判所を置き、閏四月、更に改めて箱館府を置いた。しかるに、同年十月、幕府の艦隊を率ゐて脱走した幕臣榎本武揚が、蝦夷地に来りて五稜廓に拠り、全島を占領したので、朝議これを討伐することに決し、翌年
(明治二年)三月、黒田清隆等が薩・長諸藩の兵を率ゐて出発し、五月十八日にこれを降服せしめた。
かくて、蝦夷島の平定を見るに至り、再び開拓の議が起つた。五月二十一日、明治天皇から上局会議に御下問あらせられた三件の中に、「蝦夷開拓の件」があり、その中に、「函館平定ノ上ハ、速ニ開拓教導ノ方法ヲ施設シ」と仰せられてあることは、既に謹載したところである。
たまたまこの時に、前肥州侯鍋島直正は、自ら進んで蝦夷地開拓の任に当らんことを奏請した。明治天皇には、深くその志を
嘉みせられて、六月四日、その請を許し、督務を命じたまうたのが、ここに謹載した詔である。「独恐ル汝高年遽ニ殊方ニ赴クコトヲ」と、老年に及んで、大任に就かうとする重臣に、宸慮あらせられてあるのは、まことに聖恩の
忝さを偲び奉らしめる。
同年七月七日、官制大改革の結果、蝦夷開拓督務鍋島直正は、七月十三日に開拓長官となつた。更に八月十五日、蝦夷地を北海道と改称、渡島・後志・石狩・天塩・北見・胆振・日高・十勝・釧路・根室・千島の十一箇国に分割、その翌日、開拓長官鍋島直正は、大納言に敍せられた。
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)
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