(明治元年八月七日)
朝綱一タヒ弛ミシヨリ、政権久シク武門ニ委ス。今ヤ、朕、祖宗ノ威霊ニ頼リ、新ニ皇統ヲ紹キ、大政古ニ復ス。是大義名分ノ存スル所ニシテ、天下人心ノ帰向スル所ナリ。嚮ニ徳川慶喜、政権ヲ還ス、亦自然ノ勢ヒ、況ヤ近時宇内ノ形勢、日ニ開ケ月ニ盛ナリ。此ノ際ニ方テ、政権一途、人心一定スルニ非サレハ、何ヲ以テ國體ヲ持シ、紀綱ヲ振ハンヤ。茲ニ於テ、大ニ政法ヲ一新シ、公卿列藩及ビ四方ノ士ト与ニ、広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スルハ、素ヨリ天下ノ事、一人ノ私スル所ニ非レハナリ。然ルニ奥羽一隅、未タ皇化ニ服セス。妄ニ陸梁シ、禍ヲ地方ニ延ク。朕、甚コレヲ患フ。夫四海ノ内、孰カ朕ノ赤子ニアラサル。率土ノ濱、亦朕ノ一家ナリ。朕、庶民ニ於テ、何ゾ四隅ノ別ヲナシ、敢テ外視スル事アランヤ。惟朕ノ政体ヲ妨ケ、朕ノ生民ヲ害ス。故ニ已ヲ得ス、五畿七道ノ兵ヲ降シ、以テ其不廷ヲ正ス。顧フニ奥羽一隅ノ衆、豈悉ク乖乱昏迷センヤ。其間必ス大義ヲ明ニシ、國體ヲ辨スル者アラン。或ハ其力及ハス、或ハ勢ヒ支フル能ハス、或ハ情実通セス、或ハ事体齟齬シ、以テ今日ニ至ル。此ノ如キモノ、宜ク此機ヲ失ハス、速ニ其方向ヲ定メ、以テ其ノ素心ヲ表セハ、朕、親シク撰フ所アラン。縦令其党類ト雖モ、其罪ヲ悔悟シ、改心服帰セハ、朕、豈コレヲ隔視センヤ。必ズ処スルニ至当ノ典ヲ以テセン。玉石相混シ、薫蕕共ニ同スルハ、忍ハサル所ナリ。汝衆庶、宜シク此意ヲ体認シ、一時ノ誤リニ因テ、千載ノ辱ヲ遺スコトナカレ。
○朝綱 「朝憲」「朝紀」と同じ。朝廷ののり即ち朝廷に於てお定めになつた種々の御法度を概括していふ語。
○武門 「武家」と同じ。武士の家すぢをいふ。
○祖宗ノ威霊 御先祖にまします天皇の御霊の御威光。「祖宗」は、「皇祖皇宗」と同じ。
○大義名分 最も大いなる人間の本分といふことで、君に対する臣民の道を称する語となつてゐる。「大義」は、義の大いなるもの。「左伝」の隠公四年に、「君子曰ク、石碏ハ純臣ナリ、州吁ヲ悪ミテ厚与ル。大義親ヲ滅ストハ、其レ是ヲ之謂フカ、ト。」「名分」は、その身分によつて定まれる人倫上の分限をいふ。臣は臣の道を守り、子は子の道を守るといふやうに、臣・子の身分によつて定まれる本分を、名分といふのである。「荘子」の天下篇に曰ふ。「易ハ以テ陰陽ヲ道ヒ、春秋ハ以テ名分ヲ道フ。」
○帰向 みな同じやうな方向に向ふこと。向ふ所が一に帰するといふ意味。
○宇内ノ形勢 世界のありさま。「宇内」は、「天下」と同じ。
○國體 古来、種々の意味に用ゐられてゐる。「国家の面目」といふ意味にも用ゐられ、「国家の威勢」といふ意味にも用ゐられ、「国家の特色」といふ意味に用ゐられ、また「国柄」といふ意味にも用ゐられた。今日では、国家の本質即ちその成立の精神や体制を総括した語となり、重大な意味を生じて来た。
○紀綱 「綱紀」と同じ。国家の大小の政治。白虎通に曰ふ。「大ハ綱ト為シ、小ハ紀ト為ス。」
○公卿 「くぎやう」とも「くげ」とも訓む。朝廷に奉仕する高官。もと「三公九卿」から出た語である。太政大臣・左大臣・右大臣を公といひ、これに対して、大納言・中納言・三位以上を卿といひ、参議は、四位の者も特にこの卿の中に入れた。
○四方ノ士 無位無官の人々。一般の士民。
○陸梁 「跳梁」と同じ。「ほしいままに跳る」といふ意味の語。大いに勢力を張つて猛威を振ふことの意味に多く用ゐられる。班固の西京賦に、「怪獣陸梁」といふ文字がある。
○四海ノ内 四方の海の内といふことで、国内を意味する語となつてゐる。「論語」に、「四海之内、皆兄弟也。」とある。
○赤子 天皇が万民を仰せられる御言葉。
○率土ノ濱 「陸地のつづく限り」といふこと。「天下」または「国家」の意味。「詩経」小雅の「溥天ノ下、王土ニ非ザルハ莫ク、率土ノ濱、王臣ニ非ザルハ莫シ」から出た語。
○五畿七道 山城・大和・河内・和泉・摂津の畿内五箇国と、東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の七道をいふ。
○不廷 朝廷の命に従はざる者をいふ。「不庭」に通ずる。「不庭」は、王庭に来朝せざる者といふ意味の語である。「左伝」の隠公十一年に、「王命ヲ以テ不庭ヲ討ツ。」とある。
○乖乱昏迷 そむいて乱を起したり、正しい道理がわからずに迷つたりすること。
○事体齟齬 事がらがくひちがふこと。「齟齬」は、上下の歯が悪くて嚙み合せることが出来ないことの意味から、物事のくひちがひといふ意味に転用せられてゐる語である。「太玄経」に、「其志齟齬」とある。
○素心 「本心」と同じ。本来の心をいふ。李白の詩に曰ふ。「素心美酒ヲ愛シ。」また心の潔白を意味する語としての用例もある。顔延之の文に曰ふ。「弱クシテ弄ヲ好マズ、長ジテ実ニ素心ナリ。」
○玉石相混シ 「玉と石とがまじつてゐる」といふことで、善悪の区別なきことや、賢愚の区別なきことに喩へられる語。「抱朴子」に曰ふ。「真偽顚倒、玉石混淆。」
○薫蕕共ニ同スル 善人も悪人も同じやうに取扱ふこと。「薫」は香草、「蕕」は臭草である。善人と悪人、君子と小人等を対照する時に、この「薫蕕」の文字が用ゐられる。
○千載 「千年」と同じ。しかし、ただ千年といふ数字的の歳月を意味せず、非常に永き期間をいふ語となつてゐる。「三国名臣序賛」に「千載一遇、賢智之嘉会。」とある。
〔大意〕
朝廷の政綱が一度び衰へてから、政権が久しい間武家に委せられてあつた。今、朕が御先祖の御霊の御威光によつて、新に皇位をついで、大政が再び昔にかへつた。これは、大義名分の存するところであり、天下の人々の心が同じ方向に向つて来たからである。さきに徳川慶喜が政権をかへしたのもまた自然の勢であつた。殊に近ごろは、世界の形勢が、日に月に開けて進んで行く。かういふ時に当つて、政権が一途に出で、人の心が一定しなければ、どうしてこの國體を保ち、紀綱を振はせることが出来ようか。そこで、大いに政治の方法を一新し、公卿や諸藩や天下の一般士民とともに、広く会議を起し、すべての政を正しい意見によつてきめるのは、もとより天下のために必要なことで、一人の者が自分勝手にするところではない。しかるに、奥羽の隅の方には、まだ皇化にしたがはず、妄りに暴威を振ふ者があり、禍をその地方に及ぼしてゐる。朕はこれをまことに心配してゐる。凡そこの国の中に、だれ一人として朕の赤子でない者があらう。国土のつづく限り、みな朕の一家である。朕は、どうして多くの民の中の、遠い四方の隅々にゐる者だけを区別し、これを他国のやうな扱ひをすることが出来ようか。朕の政治を妨げ、朕の良民を害するから、それで、やむを得ず、五畿七道の兵をさしつかはして、反逆者の過を正すのである。思ふに、奥羽の隅にゐる者とても、悉く道理のわからない反逆者ばかりではあるまい。その間には、必ず君臣の大義を知り、國體といふことをよく
辨へてゐる者もあらう。その力が及ばなかつたり、自然の勢にかつことが出来なかつたり、ほんたうの事情がわからなかつたり、為す事がらがくひちがつたりして、今日のやうになつた者もあらう。さういふ者が、このをりを失はず、早く自分の進むべき方向を定め、さうして本心に立ちかへるならば、朕は、それについて考へるところがあらう。たとへ反逆者の仲間の者でも、その罪を悔い、心を改めて帰順すれば、朕は、これを別け隔てして見るやうなことをしない。必ず相当の恩典を与へるであらう。善人も悪人も一しよにしてしまふのは、忍びないことである。汝多くの民よ。どうかこの意をよく心得て、一時のまちがつた考へのために、ながく辱をのこすやうなことがないやうにせよ。
〔史実〕
鳥羽・伏見に於て、官軍に抵抗し、敗れた会津藩主松平
容保は、大阪から江戸に逃れて国に帰つた。そこで、明治元年
(慶応四年)三月二日、九条道孝が鳥羽鎮撫総督を拝命して、薩・長の兵若干を率ゐて、大阪から海路仙台に向つた。当時、関東の地が未だ平定せず、大兵を送り難き状態にあつたから、朝廷に恭順せる諸藩の兵を以て、朝命を奉ぜざる諸藩を討伐する方針を立て、道孝は、仙台藩の出兵を促した。しかるに、松平容保は、先非を悔いて謹慎し、仙台・米沢の二藩主に、降服謝罪の歎願を依頼した。仙台侯伊達
慶邦、米沢侯上杉
斉憲は、その願意を諒とし、総督道孝に討伐の中止を請うた。官軍の参謀の中に、頑として肯かず、あくまでも二藩に会津討伐を促す者があつたので、奥羽の人心が激昂し、「薩・長二藩は、王師に名を藉りて、私心を逞しうする者なり」とし、遂に諸藩が連盟して、総督に反抗するに至り、更に南部・秋田・津軽・二本松・棚橋等二十餘藩が悉くこれに応じて起ち、官軍は、施すべき策もなくなつた。その中に関東地方が平定したので、五月十九日、有栖川宮
熾仁親王が会津征伐大総督に任ぜられ、官軍は、越後口と奥州口から、進発することになつた。その八月七日に、奥羽の士民を諭告したまうたのが、ここに謹載した詔である。
新政のはじめに、かうした内乱の生じたことを、深く遺憾におぼしめされた大御心から、この優渥なる詔を下し賜はつたものと拝察せらる。「夫四海ノ内、孰カ朕ノ赤子ニアラサル。率土ノ濱、亦朕ノ一家ナリ。」と仰せられ、「顧フニ奥羽一隅ノ衆、豈悉ク乖乱昏迷センヤ。其間必ス大義ヲ明ニシ、國體ヲ辨スル者アラン。或ハ其力及ハス、或ハ勢ヒ支フル能ハス、或ハ情実通セス、或ハ事体齟齬シ、以テ今日ニ至ル。」と仰せられ、更に、「玉石相混シ、薫蕕共ニ同スルハ、忍ハサル所ナリ」と仰せられてある。八紘一宇の御精神を以て君臨したまふ厚き御仁心が溢れてゐる。反逆の民にもなほこの寛大と温情とを以て悔悟を促したまうたのである。聖恩の優渥なること、まことに筆紙につくし難い。
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)
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