(明治元年七月十七日)
朕、今万機ヲ親裁シ、億兆ヲ綏撫ス。江戸ハ東国第一ノ大鎮、四方輻凑ノ地、宜シク親臨以テ其政ヲ視ルヘシ。因テ自今江戸ヲ称シテ東京トセン。是朕ノ海内一家、東西同視スル所以ナリ。衆庶此意ヲ体セヨ。
○万機ヲ親裁シ すべての政を、天皇が御親ら行はせられること。
○億兆ヲ綏撫ス 多くの民をいたはり治めたまふこと。「億兆」は、「万民」と同じ。「綏撫」は、いたはり愛すること。「呉志」孫瑜伝に曰ふ。「虚心ニ綏撫シ、其ノ歓心ヲ得。」
○大鎮 大都会の意味。支那では、人口五万以上の市を「鎮」と称した。それから大都市にこの文字が用ゐられるやうになつた。
○四方輻凑 「四方から人の集まつて来るところ」といふ意味。「輻凑」は、「輻輳」とも書く。車の
幅が
轂にあつまるといふ意味から、物が一所に集まることの意味に転用せられる語である。「四方輻輳」の語は、「漢書」の叔孫通伝に出てゐる。
○海内一家 「八紘一宇」と同じく、国内を一家と同じやうに視るといふ宏遠なる聖旨のあらはれた御言葉と拝する。
〔大意〕
朕は、今すべての政を親ら行つて、万民をいたはり治める。江戸は、東国第一の大都会で、四方から人の集まる土地であるから、そこへ親ら臨んで政をするであらう。よつて、これから、江戸を東京といふことにしよう。これは、朕が国内を一つの家のやうに思ひ、東も西も同じやうに見るからである。多くの民もこれをよく心得ておくがよい。
〔史実〕
明治元年
(慶応四年)七月十七日、江戸を東京と改称したまひ、且、遷都を仰せ出された詔である。王政維新と同時に、早くも遷都の必要が議に上つた。慶応三年十一月、薩摩の伊地知正治は、難波遷都論を唱へたが、時期尚早のために問題とならなかつた。慶応四年、新政府の成立早々、大久保利通は、正月二十三日の朝議に、難波遷都の必要を主張したが、反対者が多く、決議に至らなかつた。大久保は、初志を
枉げず、木戸孝允を説いて、その賛成を得た。しかるに、前島
密は、大久保に書を呈して、江戸遷都論を力説した。維新の戦乱に際し、江戸の事情を偵察してゐた佐賀藩士江藤新平も、帝都の地として江戸の適当なることを認め、同藩の大木民平(喬任)に語り、更に藩主鍋島直正の同意を得、佐賀藩論として、岩倉具視に建白した。木戸孝允は、京都・大阪・東京の三京並置論を立てたが、江戸遷都を建議する者が次第に多くなり、遂にこの詔を拝するに至つたのである。
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)
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