(明治元年十二月七日)
賞罰ハ天下ノ大典、朕一人之私スヘキニ非ス。宜ク天下之衆議ヲ集メ、至正公平、毫釐モ誤リ無キニ決スヘシ。今松平容保ヲ始メ伊達慶邦等ノ如キ、百官将士ヲシテ議セシムルニ、各小異同アリト雖、其ノ罪均シク逆科ニアリ、宜シク厳刑ニ処スヘシ、就中、容保ノ罪、天人共ニ怒ル所、死尚餘罪アリト奏ス。朕、熟ラ之ヲ按スルニ、政教世ニ洽ク、名義人心ニ明ナレハ、固ヨリ乱臣賊子無ルヘシ。今ヤ朕不徳ニシテ、教化ノ道未タ立ス。加之、七百年来、紀綱不振、名義乖乱、弊風之由テ来ル所久シ。抑容保ノ如キハ、門閥ニ長シ、人爵ヲ仮有スル者、今日逆謀、彼一人ノ為ス所ニ非ス、必ズ首謀ノ臣アリ。朕、因テ断シテ曰、其実ヲ推シテ、其名ヲ恕シ、其情ヲ憐ンテ、其ノ法ヲ仮シ、容保ノ死一等ヲ宥シテ、首謀ノ者ヲ誅シ、以テ非常ノ寛典ニ処セン。朕、亦将ニ自今親ラ励精図治、教化ヲ国内ニ布キ、徳威ヲ海外ニ輝サン事ヲ欲ス。汝百官将士、其レ之ヲ体セヨ。
○天下之衆議 国中の多くの者の一致した意見。「輿論」といふ意味。
○毫釐 「ほんの少しばかり」といふこと。「釐」は尺度の単位、一
分の十分の一。また目方の単位、一
分の十分の一。また銭の単位、一
銭の十分の一。「りん」ともいひ、略して「厘」とも書く。「毫」は一釐の十分の一。「毫釐」の文字は、極めて少量のもの、また極めて微細のものの意味に転用せられる。「史記」太史公自序に曰ふ。「之ヲ毫釐ニ失スレバ、
差フニ千里ヲ以テス。」
○逆科 叛逆の罪。
○厳刑 きびしい刑罰。「極刑」と同じ。「死刑」の意味。
○天人共ニ怒ル 「天も怒り人も怒る」といふこと。何者もこれを許さない悪の意味。
○死尚餘罪アリ 「死刑に処してもなほ罪が消えてしまはない」といふこと。死刑以上の罪といふ意味。
○名義 「大義名分」と同じ。最も重大なる人間の道。君臣の道父子の道の如し。
○乱臣賊子 国を乱す臣や家を傷つける子。君臣父子の道に外れた人非人。君を弑する臣や父を害する子を罵りていふ語になつてゐる。「孟子」滕文公篇に曰ふ。「孔子春秋ヲ成リテ、乱臣賊子懼ル。」
○七百年来 政権が武門に移つてから、明治維新の当時までのことを仰せられたものと拝する。
○名義乖乱 君臣父子の道が乱れて本義にもとつてゐること。
○門閥ニ長シ 「名門の家柄に成長する」といふこと。松平氏は、徳川氏祖の姓であり、徳川時代に最も社会的地位の高い家柄であつた。
○人爵ヲ仮有スル 「最も高い官位を有する」といふこと。「人爵」は「天爵」に対する語である。人の定めた官位といふ意味。「孟子」の告子篇に、「公卿大夫、此レ人爵ナリ。」とある。
〔大意〕
謹約。「賞罰は、最も公平にして、少しの間違ひもないやうにきめなければならない。松平容保・伊達慶邦等の罪を議せしめたところ、百官将士は、厳刑に処すべきものであるといふ。朕がよく考へて見るのに、多くの民が大義名分を辨へてゐれば、不忠者や不孝者はないわけである。朕が不徳で教化の道がまだ立たず、その上、七百年以来、政道が衰へて、君臣父子の道が乱れてゐて、かうした弊風の生ずるやうになつたのも、その起りは古いことである。容保の如きは、よい家柄に生れて、高位高官の地位に在る者、今回の叛逆も、一人でなしたものでなく、必ず首謀の臣があらう。その事情をよく調べて、死一等を減じ、寛大な取計らひをするがよい。朕もこれから政をはげんで、国内の民を教化に浴せしめ、国威を諸外国に輝かさうと思ふ。」
〔史実〕
会津藩主松平容保を中心として、奥羽の二十餘藩が連盟し、薩・長を憎んで、官軍に反旗を翻へしたことは、「奥羽に下し給へる詔」の謹解中に述べておいた。有栖川宮熾仁親王を大総督に戴く官軍は、越後口と奥州口の両方面から進んだ。奥州口に向つた官軍は、白河・棚倉・二本松・三春の諸城を陥れて、明治元年(慶応四年)八月二十三日、遂に若松城に迫つた。越後に於ては、長岡藩が頑強に抵抗したが、増援隊の柏崎上陸により、官軍の勢力が大いに加はり、賊軍も長岡城を支へることが出来なくなつた。かくして、官軍の一隊は、庄内に進撃し、他の一隊は、会津・米沢に向つて、若松城に肉薄した。米沢藩は九月四日に、仙台藩は同十五日に、官軍の軍門に降つた。会津城は、包囲の裡に在ること三旬、老幼婦女に至るまで、剣戟を取つて奮戦したが、城内の糧食も弾薬も尽き、明治元年九月二十二日、遂に降を乞ふに至つた。次いで庄内藩も降り、奥羽・越後の地は、悉く平定した。
ここに謹載したのは、その年(明治元年)十二月七日、叛逆の臣松平容保等を寛典に処すべき旨を仰せ出された優詔である。過去に如何なる功労があつたにもせよ、大義名分を誤つた叛臣に対して、かくの如き深厚なる御仁心を注がせたまうた聖恩は、これを拝誦する者に深い感激を生ぜしめる。「朕不徳ニシテ教化ノ道未タ立ス」と仰せられてあるのは、洵に恐懼の至りである。
かくして、松平容保は、死一等を減ぜられて、永禁錮に処せられ、仙台侯伊達慶邦・米沢侯上杉斉憲等は、みな退老謹慎を命ぜられた。
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)
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