2017年10月17日火曜日

松平容保等を寛典に処し給へる詔

(明治元年十二月七日)


賞罰シヤウバツハ天下テンカノ大典タイテン、朕チン一人イチニン之ノ私ワタクシスヘキニ非アラス。宜ヨロシク天下テンカ之ノ衆議シユウギヲ集アツメ、至正シセイ公平コウヘイ、毫釐ガウリンモ誤アヤマリ無ナキニ決ケツスヘシ。今イマ松平マツダヒラ容保カタモリヲ始ハジメ伊達ダテ慶邦ヨシクニ等ラノ如ゴトキ、百官ヒヤククワン将士シヤウシヲシテ議ギセシムルニ、各オノオノ小異同セウイドウアリト雖イヘドモ、其ソノ罪ツミ均ヒトシク逆科ギヤククワニアリ、宜ヨロシク厳刑ゲンケイニ処シヨスヘシ、就中ナカンヅク、容保カタモリノ罪ツミ、天人共テンジントモニ怒イカル所トコロ、死尚シナホ餘罪ヨザイアリト奏ソウス。朕チン、熟ツラツラ之コレヲ按アンスルニ、政教セイケウ世ヨニ洽アマネク、名義メイギ人心ジンシンニ明アキラカナレハ、固モトヨリ乱臣ランシン賊子ゾクシ無ナカルヘシ。今イマヤ朕チン不徳フトクニシテ、教化ケウクワノ道ミチ未イマタ立タタス。加之シカノミナラズ、七百年来シチヒヤクネンライ、紀綱キカウ不振フシン、名義メイギ乖乱クワイラン、弊風ヘイフウ之ノ由ヨツテ来キタル所トコロ久ヒサシ。抑ソモソモ容保カタモリノ如ゴトキハ、門閥モンバツニ長チヤウシ、人爵ジンシヤクヲ仮有カイウスル者モノ、今日コンニチ逆謀ギヤクボウ、彼一人カレイチニンノ為ナス所トコロニ非アラス、必カナラズ首謀シユボウノ臣シンアリ。朕チン、因ヨツテ断ダンシテ曰イハク、其実ソノジツヲ推スヰシテ、其名ソノナヲ恕ジヨシ、其情ソノジヤウヲ憐アハレンテ、其ソノノ法ハフヲ仮ユルシ、容保カタモリノ死一等シイツトウヲ宥ユルシテ、首謀シユボウノ者モノヲ誅チユウシ、以モツテ非常ヒジヤウノ寛典クワンテンニ処シヨセン。朕チン、亦マタ将マサニ自今ジコン親ミヅカラ励精レイセイ図治チヲハカリ、教化ケウクワヲ国内コクナイニ布シキ、徳威トクヰヲ海外カイグワイニ輝カガヤカサン事コトヲ欲ホツス。汝ナンヂ百官ヒヤククワン将士シヤウシ、其ソレ之コレヲ体タイセヨ。

○天下テンカ之ノ衆議シユウギ 国中の多くの者の一致した意見。「輿論」といふ意味。

○毫釐ガウリン 「ほんの少しばかり」といふこと。「釐」は尺度の単位、一分ぶの十分の一。また目方の単位、一分ぷんの十分の一。また銭の単位、一銭せんの十分の一。「りん」ともいひ、略して「厘」とも書く。「毫」は一釐の十分の一。「毫釐」の文字は、極めて少量のもの、また極めて微細のものの意味に転用せられる。「史記」太史公自序に曰ふ。「之ヲ毫釐ニ失スレバ、差タガフニ千里ヲ以テス。」

○逆科ギヤククワ 叛逆の罪。

○厳刑ゲンケイ きびしい刑罰。「極刑」と同じ。「死刑」の意味。

○天人共テンジントモニ怒イカル 「天も怒り人も怒る」といふこと。何者もこれを許さない悪の意味。

○死尚シナホ餘罪ヨザイアリ 「死刑に処してもなほ罪が消えてしまはない」といふこと。死刑以上の罪といふ意味。

○名義メイギ 「大義名分」と同じ。最も重大なる人間の道。君臣の道父子の道の如し。

○乱臣ランシン賊子ゾクシ 国を乱す臣や家を傷つける子。君臣父子の道に外れた人非人。君を弑する臣や父を害する子を罵りていふ語になつてゐる。「孟子」滕文公篇に曰ふ。「孔子春秋ヲ成ツクリテ、乱臣賊子懼オソル。」

○七百年来シチヒヤクネンライ 政権が武門に移つてから、明治維新の当時までのことを仰せられたものと拝する。

○名義メイギ乖乱クワイラン 君臣父子の道が乱れて本義にもとつてゐること。

○門閥モンバツニ長チヤウシ 「名門の家柄に成長する」といふこと。松平氏は、徳川氏祖の姓であり、徳川時代に最も社会的地位の高い家柄であつた。

○人爵ジンシヤクヲ仮有カイウスル 「最も高い官位を有する」といふこと。「人爵」は「天爵」に対する語である。人の定めた官位といふ意味。「孟子」の告子篇に、「公卿コウケイ大夫タイフ、此レ人爵ナリ。」とある。


〔大意〕
謹約。「賞罰は、最も公平にして、少しの間違ひもないやうにきめなければならない。松平容保・伊達慶邦等の罪を議せしめたところ、百官将士は、厳刑に処すべきものであるといふ。朕がよく考へて見るのに、多くの民が大義名分を辨へてゐれば、不忠者や不孝者はないわけである。朕が不徳で教化の道がまだ立たず、その上、七百年以来、政道が衰へて、君臣父子の道が乱れてゐて、かうした弊風の生ずるやうになつたのも、その起りは古いことである。容保の如きは、よい家柄に生れて、高位高官の地位に在る者、今回の叛逆も、一人でなしたものでなく、必ず首謀の臣があらう。その事情をよく調べて、死一等を減じ、寛大な取計らひをするがよい。朕もこれから政をはげんで、国内の民を教化に浴せしめ、国威を諸外国に輝かさうと思ふ。」


〔史実〕
会津藩主松平容保を中心として、奥羽の二十餘藩が連盟し、薩・長を憎んで、官軍に反旗を翻へしたことは、「奥羽に下し給へる詔」の謹解中に述べておいた。有栖川宮熾仁親王を大総督に戴く官軍は、越後口と奥州口の両方面から進んだ。奥州口に向つた官軍は、白河・棚倉・二本松・三春の諸城を陥れて、明治元年(慶応四年)八月二十三日、遂に若松城に迫つた。越後に於ては、長岡藩が頑強に抵抗したが、増援隊の柏崎上陸により、官軍の勢力が大いに加はり、賊軍も長岡城を支へることが出来なくなつた。かくして、官軍の一隊は、庄内に進撃し、他の一隊は、会津・米沢に向つて、若松城に肉薄した。米沢藩は九月四日に、仙台藩は同十五日に、官軍の軍門に降つた。会津城は、包囲の裡に在ること三旬、老幼婦女に至るまで、剣戟を取つて奮戦したが、城内の糧食も弾薬も尽き、明治元年九月二十二日、遂に降を乞ふに至つた。次いで庄内藩も降り、奥羽・越後の地は、悉く平定した。

ここに謹載したのは、その年(明治元年)十二月七日、叛逆の臣松平容保等を寛典に処すべき旨を仰せ出された優詔である。過去に如何なる功労があつたにもせよ、大義名分を誤つた叛臣に対して、かくの如き深厚なる御仁心を注がせたまうた聖恩は、これを拝誦する者に深い感激を生ぜしめる。「朕不徳ニシテ教化ノ道未タ立ス」と仰せられてあるのは、洵に恐懼の至りである。

かくして、松平容保は、死一等を減ぜられて、永禁錮に処せられ、仙台侯伊達慶邦・米沢侯上杉斉憲等は、みな退老謹慎を命ぜられた。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

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