2017年10月10日火曜日

救荒の勅語

(明治元年六月二十二日)


曩者サキニ徳川トクガハ慶喜ヨシノブヘイケテケツヲカサントスルヤ、伏見フシミヨドトウ民家ミンカ焚焼フンセウシ、チン赤子セキシ蹂躪ジウリンス。ユヱチンオホイ軍旅グンリヨハツシ、コレ追伐ツイバツス。シカシ軍務グンム繁劇ハンゲキ費用ヒヨウ夥多クワタ今日コンニチイタマデイマサイフノタミ賑恤シンジユツスルコトアタハス。チン宵旰セウカンコレオモフテ、殷痛インツウマコトセツナリ。嗚呼アアチン祖宗ソソウレイリ、億兆オクテウ君臨クンリンシ、畿甸キデンタミスラナホカクゴトシ。シカルヲイハンヤ、東方トウハウ諸州シヨシウアラタ荼毒トドクカカモノナニモツ救助キウジヨセン。コレチンジツ万機バンキルニ不堪タヘズフカミヅカチ、ミヅカカナシトコロナリ。庶幾コヒネガハクハ、主者シユシヤチン慈意ジイタイシ、詳議シヤウギ審論シンロンモツ賑恤シンジユツ救助キウジヨスルトコロモノアランコトヲハカレ。

曩者サキニ 「さきの日に」である。「曩」は、「さき」(前)「むかし」(昔)「久し」等の意味を有する文字。「者」は助辞。「左伝」の襄公二十四年に、「曩者サキニハ入ルニ志ス而已ノミ。」とある。

ケツヲカサントスル 「宮城に攻め入らうとする」といふこと。「闕」は、「かける」(缺)といふ意味の文字である。支那では、宮城門外の左右に台を築き、その上に楼観を設け、中央の闕けたところを出入の道とした。それから「闕」の文字が「宮城」の意味に転用せられるやうになつた。「五代史」周太祖徳妃董氏伝に曰ふ。「年十三、劉進超ニ嫁ス、契丹闕ヲ犯シ、進超虜中ニ歿ス、妃洛陽ニ嫠居ス。」

焚焼フンセウ 火を放つて焼くこと。「荀子」に曰ふ。「餘ハ丘山ノ若ク、時ニ焚焼セザレバ、之ヲ蔵スル所無シ。」

赤子セキシ蹂躪ジウリン 「赤子」は、古来、天皇が万民をさして仰せられた御言葉。「書経」の中にも、「赤子ヲ保ツガ如シ。」といふ文字がある。「蹂躪」は、「ふみにじる」といふ意味の語である。多くの民を殺したり傷けたりして苦しめたことを仰せられたものと拝する。「漢書」に、「百姓奔走シテ、相蹂躪ス。」といふ文字がある。

軍旅グンリヨ 「軍隊」と同じ。昔、支那では、軍兵五百を「旅」と称した。それから転じて、「軍旅」は、「軍隊」を意味する語となつた。「論語」の衛霊公篇に、「軍旅之事ハ、未ダ之ヲ学バザル也。」とある。

賑恤シンジユツ 「にぎはしめぐむ」といふ字義の文字。窮民に食物その他の物資を施与して救助することの意味に用ゐられてゐる。御歴代の詔勅に最も多く拝する文字である。

宵旰セウカンコレオモフテ 「朝から夜までこれを思うて」といふこと。「宵旰」は、「宵衣旰食」の略語として用ゐられることが多い。「宵衣旰食」は、未明に起きて衣を、日ぐれて食膳につくことから、天皇が御政務に精励したまふことに転用せられる語。ここでは、ただ「朝から夜まで」の御意に拝せられる。

殷痛インツウ 「大いにかなしむ」といふこと。「殷」は、「大いに」「盛に」等の意味を有する文字である。

畿甸キデン 「畿内」と同じ。支那の周代には、王城の周囲五百里以内の地を、「畿」といひ、「甸」ともいつた。それから「畿甸」の文字は、「畿内」と同じ意味に用ゐられてゐる。我が国では、古くから、山城・大和・河内・和泉・摂津を畿内五箇国と称した。

荼毒トドク 「害毒」と同じ。「荼」は「苦菜ニガナ」である。「苦菜の毒」を喩として、「害毒」の意味に転用したものであらう。「書経」の湯誥に曰ふ。「其ノ凶害ニ罹リ、荼毒ニ忍ビズ。」


〔史実〕
王政復古の新政を喜ばない徳川譜代の諸大名や旧幕臣に擁せられて、一旦大政を奉還した徳川慶喜は、明治元年正月、討薩を標榜して入京を企て、鳥羽・伏見の戦を惹起し、大敗して江戸に逃れ帰り、謹慎の意を表し、三月十四日、幕臣勝安芳と官軍の参謀西郷隆盛との会見により、江戸城の明渡しとなつた。しかし、この叛乱のために、畿内の民が少からぬ戦禍を蒙つたのみならず、慶喜が謹慎した後にも、なほ幕府の残党が各地に於て官軍に反抗してゐたので、諸国の民がその害毒に苦しんだ。新政府の樹立、叛乱の鎮定等、政務極めて御多忙にあらせられた明治天皇には、その間にも、万民の苦しみを深くあはれみたまうて、明治元年(慶応四年)六月二十二日、ここに謹慎した詔を賜はり、救荒賑恤を仰せ出されたのであつた。政府に於ては、聖旨を奉体して、同日、左のとほり、諸道府県に布告した。

方今、王化天下ニアマネカラント欲ス、此年ニ当リ、無辜ノ生民、兵燹ヘイセンノ災ニ罹リ、加之シカノミナラズ、洪水暴漲、惨毒之イタリ、近畿最甚シ、且東北諸路、賊徒平定ニ至ラス、生民ノ塗炭、一端ニアラス。皇上深ク難被為忍シノバセラレガタク、救恤阜財之道、被為尽度ツクサセラレタキ勅旨、痛切ニ被仰出オホセイデラレ候付テハ、至仁之聖意ヲ体認シ、其民ヲシテ安堵セシムルハ、今日府県ノ責ナリ。即今創建ノ初、救荒ノ典未タ立スト雖トモ、一日斯民ニノゾム者、即一日此道ヲ講セスンハアラス。況ヤ今日眼前ノ窮厄ヲヤ。故ニ賑救ノ急務、左ニ記ス。
一 兵燹之厄、洪水之害、窮民流離、路頭ニ立者、一村ニ幾人、且其破産・蕩家等、一一細詳ニ査点シ、救助其宜ヲ得ヘシ。若兵厄水害ヲ被ムル地ト雖トモ、捜択其宜ヲ得ス、徒ニ金穀ヲ給スレハ、却テ蠧弊トヘイヲ生シ、下民ノ怨望ヲ起シ、宜シカラサル事。
一 没田之民ハ、全ク其租賦ヲ免シ、其他漲溢ノ田畑ハ、荒敗ノ軽重ヲ量リ、蠲免ケンメン其宜ヲ得ヘキ事。
一 堤防・橋梁之破壊、急急修理可致イタスベキ事。
但、普請等、私利ヲ営マサル廉吏ヲ択ヒ、水理ニクハシキ者ニ任シ、人夫等ハ、其地ノ窮民ニ賃シテ、相用ヘキ事。
一 厄害ノ等ヲ辨シ、救恤ノ道ヲ立ツ、今日ノ事ハ、奏可ヲ待タス、府県ヘ専任ス。宜ク可得其道ソノミチヲウベキ事。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

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