2017年10月27日金曜日

皇道興隆等に関する御下問

(明治二年五月二十一日)


   皇道興隆の件

我皇国ワガクワウコク天神テンジン天祖テンソキヨクタテモトヰヒラタマヒシヨリ、列聖レツセイ相承アヒウケ天工テンコウカハリ、天職テンシヨクヲサメ、祭政サイセイ維一ユヰイツ上下シヤウカ同心ドウシン治教チケウカミアキラカニシテ、風俗フウゾクシモウルハシク、皇道クワウダウ昭昭セウセウ万国バンコク卓越タクヱツス。シカルニ中世チユウセイ以降イカウ人心ジンシン渝薄ユハク外教グワイケウコレニジヨウシ、皇道クワウダウ陵夷リヨウイツヒ近時キンジハナハダシキニイタル。天運テンウン循環ジユンクワン今日コンニチ維新ヰシントキオヨヘリ。シカレトモ紀綱キカウイマ恢張クワイチヤウセス、治教チケウイマ浹洽セフカフナラス。コレ皇道クワウダウ昭昭セウセウナラサルニトコロト、フカ御苦慮ゴクリヨ被為遊アソバサレ今度コンド祭政サイセイ一致イツチ天祖テンソ以来イライ固有コイウ皇道クワウダウ復興フクコウ被為在アラセラレ億兆オクテウ蒼生サウセイ報本ハウホン反始ハンシオモンシ、アヘ外誘グワイイウ蠱惑コワクセラレス、方嚮ハウカウ一定イツテイ治教チケウ浹洽セフカフ候様サフラフヤウ被為遊度アソバサレタク思食オボシメシサフラフ其施為ソノシヰハウオノオノ意見イケン無忌憚キタンナク可申出マヲシイヅベク候事サフラフコト

   知藩事被任の件

版籍ハンセキ返上ヘンジヤウ追追オヒオヒ衆議シユウギ被聞食キコシメサレ候処サフラフトコロマツタ政令セイレイ一途イツトイヅルノホカ無之コレナクヨツ府藩県フハンケン三治サンチセイモツテ、海内カイダイ統一トウイツ可被遊アソバサルベキ御旨趣ゴシシユツキアラタメ知藩事チハンジ被任ニンゼラレサフラフ思召オボシメシサフラフアヒダ所存シヨゾン無忌憚キタンナク可申出マヲシイヅベクサフラフコト

   蝦夷開拓の件

蝦夷地エゾチハ、皇国クワウコク北門ホクモンタダチ山丹サンタン満洲マンシウセツシ、経界ケイカイホボサダマルトイヘトモ、北部ホクブイタツテハ、中外チユウグワイ雑居ザツキヨイタシサフラフトコロ是迄コレマデ官吏クワンリ土人ドジン使役シエキスル、ハナハダ苛酷カコクキハメ、外国人グワイコクジンスコブ愛恤アイジユツホドコサフラフヨリ、土人ドジン往往ワウワウ我邦人ワガハウジン怨離ヱンリシ、カレ尊信ソンシンスルニイタル。一旦イツタン民苦ミンクスクフヲトシ、土人ドジン煽動センドウスルモノ有之コレアルトキハ、ソノワザハヒタチマ函館ハコダテ松前マツマヘ延及エンキフスルハ必然ヒツゼンニテ、ワザハヒ未然ミゼンフセクハ、方今ハウコン要務エウムサフラフアヒダ函館ハコダテ平定ヘイテイウヘハ、スミヤカ開拓カイタク教導ケウダウトウ方法ハウハフ施設シセツシ、人民ジンミン繁殖ハンシヨクヰキトナサシメラルヘキツキ利害リガイ得失トクシツオノオノ意見イケン無忌憚キタンナク可申出マヲシイヅベクサフラフコト

天神テンジン天祖テンソ 皇室の遠い御先祖にまします神々や天皇を仰せられたものと拝する。「天神」は、「あまつかみ」であり、「天祖」は、「あまつみおや」である。「天祖」は、「皇祖」と同じく、天照大神のことを申上げ奉る語となつてゐる。しかし、「天神天祖」とあるから、「天神」は、天照大神をはじめ奉る天にまします多くの神々、「天祖」は、神武天皇その他の天皇の御意かと拝せられる。

キヨクタテ 皇位の基をお定めなされたこと。「極」は、「きはみ」即ち「はて」といふ意味から、種々の意味に転用せられてゐて、用例が非常に広い。「皇極」「埤極」の如く、最も大いなる正しき道即ち大中至正の公道を意味する語ともなり、「易経」繫辞伝にいふ「三極之道」(天・地・人の三才)の如く、最上の原理を意味する語ともなり、「北極星」「南極星」の如く、星の名ともなつてゐる。和漢ともに、はやくから皇位の意味に用ゐられ、崇神天皇の詔には、「皇祖みおやもろもろの天皇等すめらみことたち宸極あまつひつぎ光臨しろしめすことは、あに一身ひとはしらみためならむや。」とあり、唐の呉兢の「貞観政要」には、「登極ヨリ以来、大事三数件。」とある。「論語」の為政篇に、「タトヘバ北辰ノ其ノ所ニ居テ、衆星ノ之ニムカフガ如シ。」とあるやうに、北極星(北辰)が衆星の中心に在るといふところから、これが天子の象を意味する語となつたのであらう。「極を立て」は、「道徳の大本を立てる」といふ意味に用ゐられることもある。「書経」の洪範に曰ふ。「皇ハ其ノ有極ヲ建ツ。」しかし、ここに「極」とあるのは、前述の如く、皇位の御意に拝せられる。

モトヰヒラ 国の基をはじめてお開きなされること。「肇国」と同じ。

天工テンコウカハ 神々の御事業を神に代つて成し遂げたまふこと。「天工」は、「人工」に対する語である。「天造」または「神造」と同じ。造物者のつくり上げたもの。自然に成れるもの。陸倕の新漏刻銘に、「神道無跡、天工罕代。」とあり、趙孟頫の放煙火詩に、「人工巧藝奪天工。」とある。

天職テンシヨクヲサ 「天から賜はつたつとめをはたす」といふ意味の語。尊い天皇の御地位にあらせられて、国家を統治したまふ御事の意味に拝する。

祭政サイセイ維一ユヰイツ 「祭政一致」と同じ。神を祭ることと政治の道とが一致してゐること。

皇道クワウダウ昭昭セウセウ 「皇国の大道が最も明らかである」といふこと。「昭昭」は、最も明らかなる貌をいふ語である。「韓詩外伝」に、「昭昭乎若日月之光明。」とある。

万国バンコク卓越タクヱツ 「世界中のどの国よりもすぐれてゐる」といふこと。「卓越」は、一つのものが他のもの以上にすぐれてゐることを意味する語である。「晋書」に曰ふ。「州郡ニ貢薦之挙アリ、猶ホ未ダ出羣卓越之人ヲ獲ズ。」

中世チユウセイ以降イカウ 中世このかた。「中世」は、政権が武門に帰してから七八百年の間をいふ。

人心ジンシン渝薄ユハク 「人の心がかはつて軽薄になる」こと。

外教グワイケウコレニジヨウ 「外国の宗教が軽薄になつた人の心につけ込んで入り来る」こと。「外教」といふ場合の「教」は、多く宗教をいふ。古来、外教といへば、キリスト教を指すことが多い。

陵夷リヨウイ 「だんだん衰へる」こと。「陵」は「丘」である。丘が次第に平かになつてゐることに喩へ、盛であつたものが次第に衰へることを「陵夷」といふ。「漢書」成帝紀に曰ふ。「帝王之道、日ニ以テ陵夷ス。」

天運テンウン循環ジユンクワン 「自然に時節がめぐつて来る」こと。「循環」は、「めぐるたまき」である。「たまき」が端のないやうに、いく度も窮りなく反復するものを喩へて、この「循環」の語を用ゐてゐる。「史記」の高祖紀賛に曰ふ。「三王之道ハ、循環スルガゴトク、終リテ復タ始ム。」

浹洽セフカフナラス 「十分に行きわたらない」といふこと、「浹」は「うるほす」であり、「洽」は「あまねし」である。水がものをうるほすやうに、あまねく行きわたることを、「浹洽」といふ。「漢書」礼楽志に、「是ニ於テ教化浹洽シ、民モツテ和睦ス。」とある。

億兆オクテウ蒼生サウセイ 「多くの民」といふに同じ。「蒼生」は、古語の「あをひとぐさ」である。「百姓」と同じく、万民をいふ。多くの民を蒼々として衆き草木に喩へた語である。「書経」の益稷に、「海隅ニ至ルマデ蒼キモノ生ズ。」とあり、「晋書」には、「安石デズンバ、天下蒼生ヲ如何セン。」とある。「億兆」は極めて多い数の名称である。無限の数を意味する語として用ゐられ、またこれだけでも、万民を意味する語となつてゐる。

報本ハウホン反始ハンシ 本に報いはじめかへる。先人の創業を偲んで、その恩に報いることの意味。「礼記」に曰ふ。「社ニハ粢盛シセイヲ供ス、本ニ報イ始メニ反ル所以ナリ。」

蠱惑コワク 「まどふ」こと、または「たぶらかされる」こと。「蠱」は、虫の名であるが、虫害を受ける器といふ意味に転用せられ、更に害毒を意味する語となり、その外にも種々の用例を生じてゐる。

版籍ハンセキ返上ヘンジヤウ 私有してゐた土地とその土地に住する人民を、朝廷にお返しすること。「版籍」の「版」は版図、「籍」は戸籍である。土地と人民とを併称する語として用ゐられてゐる。「唐書」揚炎伝に曰ふ。「賦ハ斂ヲ加ヘズシテ入ヲ増シ、版籍造ラズ、而シテ其ノ虚実ヲ得、吏誠ナラズシテ姦取ル所無シ。」

山丹サンタン満洲マンシウ 共に地名。

中外チユウグワイ雑居ザツキヨ 「内地人と外国人とがまじつて住んでゐる」こと。「中外」は、「内外」と同じ。国内と外国とを綜括していふ語。ここは、次に「雑居」とあるから、内地人と外国人の意味に拝せられる。

苛酷カコク 「きびしくむごい」といふ語義。厳酷・残酷と同じ。「後漢書」王常伝に曰ふ。「政令苛酷、百姓之心ヲ失フ。」

怨離ヱンリ うらみはなれる。「うらみを抱いて人心が離れて行く」こと。

煽動センドウ 人をおだてて事を起さしめること。

必然ヒツゼン 必ずさうあるべきことをいふ。

ワザハヒ未然ミゼンフセ 禍が未だ起らない中に防ぐ。

開拓カイタク 未墾の土地を開いて耕地とすること。転じて、新らしき文化を創造する意味にも用ゐられる。


〔大意〕
この御下問は、皇道興隆の件・知藩事被任の件・蝦夷開拓の件の三件に分れてゐる。大要を次に謹約する。

〔皇道興隆の件〕我が皇国は、皇祖が皇位を定め国の基をひらきたまうてから、御歴代の天皇が、その大御心を承けつがせられて、この国を治めたまひ、祭政一致、上下同心、皇道昭々、世界中の各国に卓越してゐる。然るに、中世このかた、人心が軽薄になつたところへつけ込んで、外来の宗教が入り来り、皇道がだんだんおとろへ、近時、最も甚しくなつたが、時節がめぐつて来て、今日の維新となつた。しかし、まだ国の政治が充分に行はれてゐないのを、深く御心配あそばされ、今度、皇祖以来伝はつてゐる皇道を復興あそばされて、万民が報本反始の義を重んじて、外教にまどはされぬやうにする方針を定めたまふおぼしめしであらせられるから、その方法について、忌憚なき意見を申し出ること。

〔知藩事被任の件〕版籍(土地・人民)返上の儀を御聞き入れになり、政令が一途に出るやうに、府・藩・県三治の制によつて海内を統一あそばされる御旨趣で、改めて知藩事を御任命のおぼしめしであるから、忌憚なき所存を申し出ること。

〔蝦夷地開拓の件〕蝦夷地は、我が国の北門に当り、外国と地続きになつてゐる。堺もほぼ定まつてゐるが、北部には、内地人と外国人が雑居し、これまで我が官吏が甚だ苛酷に土人を使役してゐたのに反し、外国人は、頗る愛恤につとめた。それがために、土人は、邦人を怨んで離れ、外国人を尊信するやうになつた。若し土人を煽動する者があつたら、その禍が忽ち函館や松前まで及んで来ることが明らかである。禍の起らない前にこれを防ぐは、今日最も大切なことであるから、函館平定の上は、速に開拓教導等の方法を施し、人民の繁栄をはかりたまふおぼしめしである。それらの利害得失についても、忌憚なき意見を申し出ること。


〔史実〕
明治天皇には、明治二年五月二十一日、上局会議を開かせたまひ、行政官・六官・学校・待詔局・府県の五等官以上及び親王・公卿・麝香じやかうの間祇候ましこう諸侯に、皇道興隆・知藩事新置・蝦夷地開拓の三条を御下問あらせられた。ここに謹載したのが、その御下問書である。これは、本文を拝誦すれば、おのづから明らかであるが、政府が勅旨を伝達した形式になつてゐる。当時は、かうした形式の御下問書が、外にもまだ少くなかつた。

版籍の返上といふことは、明治維新の大業の完遂に最も重要な問題であつた。徳川幕府が政権を奉還しても、天下の諸侯が、従前のとほりに、土地・人民を私有してゐては、統一的な新政治が行はれないからである。しかし、事甚だ重大であり、容易に実現すべき性質の問題ではなかつた。

明治元年(慶応四年)四月、徳川慶喜が恭順した後、幕府の領土を収めて、悉く朝廷の直轄地となし、新に慶喜の継嗣となつた家達を駿府(静岡)に封ぜられたが、同年閏四月、官制を改革し、旧来の朝廷の直轄地と新に収めた幕府の旧領土とを分ちて府・県とし、府に知府事・県に知事を置いて、これを治めしめた。かくして、従来、幕府の支配を受けてゐた諸侯は、朝廷に直属してその命を奉ずるに至つたが、なほ依然として土地・人民を私有してゐた。従つて、全国統一の政治を施行することが出来ず、諸藩の政治は、従前の如く、これを藩主に一任した。当時、全国には、二百七十三の藩が存在してゐた。前述の府・県とこの二百七十三藩の行政を、地方三治と称した。

速に全国統一の政治を施行しなければ、一度成れる維新の大業も、忽ち蹉跌のおそれあることを看破した総裁局顧問木戸孝允は、明治元年二月、先づ岩倉具視・三条実美に建言し、次いで自ら山口に帰り、長州藩老侯毛利敬親に説いて、版籍返上の決意を促した。また大久保利通も同じく薩州藩主を説いた。かくして、薩・長二藩主の意が決し、更に土・肥二藩主がこれに応じ、明治二年正月二十三日、薩州侯島津忠義・長州侯毛利敬親・肥州侯鍋島直正・土州侯山内豊範の連名を以て、版籍奉還の請願を上奏した。王政復古の元勲たる四藩が建議した以上、他の諸藩も躊躇することは出来ず、忽ちこれに傚つて、版籍の奉還を奏請する者が、二百有餘藩の多きに及んだ。

明治天皇には、二月二十四日、優詔して諸藩の忠誠をみせられ、五月二十一日開会の上局会議に、前に謹載したやうに、勅問したまうたのである。かくして、版籍返上の廟議がほぼ決定し、六月十七日、各藩の奏請を御聴許あり、未だ奏請せざる者には、特に諭して奉還せしめられ、前田慶寧よしやす・島津忠義以下二百六十人を知藩事に任命したまうた。知藩事は、藩内の社祠戸口名籍を知とり、士民を字養し教化を布き、風俗を敦くし、租税を収め、賦役を督し、賞刑を判ち、僧尼の名籍を知とり、兼て藩兵を管する事を掌るといふのが、当時の官制の大要であつた。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

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