(明治元年二月二十八日)
朕、夙ニ天位ヲ紹キ、今日天下一新ノ運ニ膺リ、文武一途、公議ヲ親裁ス。国威之立不立、蒼生之安不安ハ、朕カ天職ヲ尽不尽ニ有レハ、日夜不安寝食、甚心思ヲ労ス。朕、不肖ト雖モ、列聖ノ餘業、先帝ノ遺意ヲ継述シ、内ハ列藩万姓ヲ撫安シ、外ハ国威ヲ海外ニ耀サン事ヲ欲ス。然ルニ徳川慶喜、不軌ヲ謀リ、天下解体、遂及騒擾、万民塗炭之苦ニ陥トス。故朕不得已、断然親征之議ヲ決セリ。且已ニ布告セシ通リ、外国交際モ有之上ハ、将来之処置、尤重大ニ付、天下万姓之為ニ於テハ、万里之波濤ヲ凌キ、身ヲ以テ艱苦ニ当リ、誓テ国威ヲ海外ニ振張シ、祖宗先帝之神霊ニ対ント欲ス。汝列藩、朕カ不逮ヲ佐ケ、同心協力、各其分ヲ尽シ、奮テ国家ノ為ニ努力セヨ。
○天位 「皇位」と同じ。天皇の御位。
○文武一途 「文も武も一すぢにして」といふこと。「文と武の区別なく」の意味。「文」は文事、「武」は武事である。「五箇条の御誓文」には、「官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ」とある。「文武」は、庶政を総括していふ語。「一途」は、「一塗」と同じ。一すぢの道といふこと。「後漢書」蔡邕伝に曰ふ。「夫レ求賢之道ハ未ダ必ズシモ一途ナラズ、或ハ得顕ヲ以テシ、或ハ言揚ヲ以テス。」とある。国語では、「一途」を「いちづ」と訓んで「専ら」の意味に用ゐてゐる。
○蒼生ノ安不安 「万民の生活が安らかであるか、安らかでないかは」といふこと。「蒼生」は、万民即ち多くの民である。庶民・百姓・億兆等、みな同義の語である。国語では、「あをひとぐさ」とも訓んでゐる。
○天職 最も尊い職。天照大神から承けつがせられた天皇の御地位を称せられた語と拝する。
○列聖ノ餘業 「御歴代の天皇の遺しおかれた御事業」といふこと。「列聖」は、御歴代の天皇を称する語。蔡邕の独断に曰ふ。「已故ノ前帝ヲ言ヒ、先朝ノ諸帝ヲ歴挙スルニハ、則チ列聖ト曰ヒ、祖宗ト曰フ。」
○列藩 「諸藩」と同じ。諸国の大名即ち多くの藩主を仰せられしものと拝する。
○万姓 「百姓」と同じ。万民即ち多くの民のこと。
○不軌ヲ謀リ 「道ならぬことをたくらむ」こと。朝廷の命に服従しないことの意味に拝する。「不軌」は、国法を守らず謀反を企てることを意味する語。「漢書」の卜式伝にも「不軌之臣」といふ文字がある。
○天下解体 「天下の人心がばらばらになる」といふこと。天下不統一の意味。
○塗炭之苦 「水火の苦」といふに同じ。最も大いなる苦しみを喩へた語である。
○万里ノ波濤ヲ凌キ 「万里も隔つた遠い海から押し寄せて来る大波小波をはらひのける」といふこと。外交上の難局を克服することの喩。
〔大意〕
謹約。「朕は
夙くから天皇の御位をついで、その責任のまことに重いことを思ひ、日夜寝食を忘れてゐる。不肖ではあるが、御歴代の天皇の御遺志をついで、天下をよく治め、国威を海外に耀かさうと思つてゐる。しかるに、徳川慶喜が道ならぬことを企てたので、天下が乱れ、万民が塗炭の苦に陥らうとしてゐる。そこで、朕は、やむを得ずに、
親らこれを征伐することに決した。既に布告したとほり、外国との交際もあるから、将来の処置は、最も重大である。万民のためには、いかなる外交上の難局も、これを克服して、国威を海外に振張し、祖宗や先帝の尊い御霊に報いやうと思ふ。汝諸藩主たち、朕の及ばないところを
輔け、一致団結して、それぞれの本分を全うし、国家のために力をつくせ。」
〔史実〕
徳川慶喜の大政奉還により、王政が復古すると同時に、朝廷に於かせられては、直に庶政の改革に著手したまうた。しかるに、当時、二条城にゐた慶喜は、少しも新政に与らなかつた。会津・桑名をはじめ、譜代諸藩の藩士や、旧幕臣の中には、徳川の恩誼を思つて、心ひそかに新政を喜ばず、かくの如き処置も、畢竟薩・長二藩の計らひに出づるものとして憤慨し、甚だ穏やかならぬ形勢が見えた。
力めてこれを抑へてゐた慶喜は、事変発生を
虞れ、二条城を出て、大阪城に退いたが、激昂した衆情を鎮静することが出来なかつた。明治元年
(戊辰の年)正月、会津藩主松平
容保、桑名藩主松平
定敬は、慶喜を擁して、討薩の名目の下に、入京しようとしたが、薩・長・土・藝四藩に拒まれて、鳥羽・伏見の決戦となつた。その結果、幕府の軍の大敗となり、慶喜は、大阪城を脱出して、海路江戸に逃れ帰つた。そこで、朝廷には、慶喜以下の官爵を削り、追討の大命を下したまうた。ここに謹載したのが、その時の詔である。新政への発足に際して、かうした内乱が勃発したので、国交上の問題等をも顧慮したまうた大御心が、文辞の中に拝せられる。
かくして、有栖川宮
熾仁親王が東征大総督に任ぜられ、西郷隆盛が参謀を拝して、東海・東山・北陸の三道から進んだ。慶喜は、上野の寛永寺に屛居して、謹慎の意を表した。さうして、西郷隆盛と勝安芳との会見によつて、江戸城の明渡しとなつたのである。
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)
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