(明治二年四月二十日)
朕、嚮ニ汝百官群臣ト五事ヲ掲ケ、天地神明ニ質シ、綱紀ヲ皇張シ、億兆ヲ綏安スルヲ誓フ。然ルニ兵馬倉卒未タ其績ヲ底サス。朕、夙夜、上ハ以テ神明ニ畏レ、下ハ以テ億兆ニ慙ツ。今ヤ乃チ親臨、汝百官群臣ヲ朝会シ、大ニ施設スルノ方法ヲ諮詢ス。是神州安危ノ決、今日ニ在リ。誠ニ宜ク腹心ヲ披キ、肺肝ヲ表シ、可否ヲ献替スヘシ。朕、将ニ励精竭力、大ニ経始スル所アラントス。汝百官群臣、ソレ勗哉。
○五事 五箇条の御誓文の御事。
○綱紀ヲ皇張シ 諸般の政治を最も盛にする。「綱紀」は、「紀綱」と同じ。「皇張」の「皇」は、「大」「盛」の意味。
○億兆ヲ綏安スル 万民を安心させる。「億兆」は、前にしばしば説明したとほり、多くの民をいふ。「綏安」は、「安らかにする」こと即ち「安心させる」「生活を安定させる」等を意味する語である。
○兵馬倉卒 「戦争のために忙しい」といふこと。「兵馬」は、軍人と軍馬の併称であるが、戦争の意味にも用ゐられる。「倉卒」は、「にはかに」(俄)「あわてる」といふ意味から、「多忙」の意味にも転用せられる語である。李陵の「答蘇武書」に曰ふ。「前書倉卒、未ダ所懐ヲ尽サズ。」
○其績ヲ底サス 「思ふとほりの結果になつてゐない」こと、よい成績を挙げることが出来ないといふ意味。
○夙夜 朝早くから夜に至るまで。
○親臨 みづからのぞむ。御みづから御出席あらせられること。
○朝会 朝廷に会する。御前に諸臣を御集めなされること。
○諮詢 上から下へ問ひたまふこと。
○神州安危ノ決 「我が国が安らかであるか危いかといふことがきまるところ」といふこと。我が国家の死活の運命の定まるところを意味する。「神州」は、「神の国」を意味する語。日本の異称。
○腹心ヲ披キ 「正直に本心をうちあける」こと、まごころから出る意見を述べることの意味。「史記」の淮陰侯伝に曰ふ。「臣願ハクハ腹心ヲ披キ、肝胆ヲ輸シ、愚計ヲ効シ、足下ノ用ヰル能ハザルヲ恐ルル也。」
○肺肝ヲ表シ 前の「腹心ヲ披キ」と同じ意味の語である。対句として用ゐ、文意を強めてあるもの、「肺肝」は、「肺臓と肝臓」であるが、「まごころ」の意味に転用せられ、「大学」の中にも、「其ノ肺肝ヲ見ルガ如ク然リ」とある。
○可否ヲ献替スヘシ 「よいかわるいかを正直に奏上せよ」といふこと。「献替」は、善をすすめ、悪をすてるといふ意味の語。「献」は「たてまつる」であり、「替」は「廃する」である。支那の古典にも、天子を輔佐することに多く用ゐられてゐる。袁宏の「三国名臣序賛」に曰ふ。「道ヲ以テ世ヲ佐ケ、出デテハ能ク功ヲ勤メ、入リテハ能ク献替シ、社稷ヲ寧ンズルヲ謀ル。」
○励精竭力 「力の及ぶ限り精を出す」といふこと。「竭力」は、「力の及ぶ限り」即ちこれ以上のことは出来ないといふところまで力を出すことである。
○経始 「はかりはじめる」または「営みはじめる」といふ字義。経綸の実現に著手の意味。
○勗哉 「勗」は「勉」に近し。「せいを出せ」と人をすすめ励ます時に、多くこの「勗」の文字が用ゐられる。「書経」の牧誓に、「勖哉夫子」とある。「勖」は「勗」の正字である。
〔大意〕
朕は、さきに、汝等多くの臣と、五事を挙げて、天地の神々に申上げ、国の政治を大いによくして、万民を安心させることを誓つた。しかるに、俄に戦争が起つて、その忙しさに、まだ誓つたとほりに行つてゐない。朕は、毎日毎夜、上は神々に畏れ、下は万民に慙ぢてゐる。そこで、今、みづから臨んで、汝等多くの臣を朝廷に会し、大いに実際上の計画についての法をたづねるのである。この日本の国の安危の定まるところは、今日にある。どうか、まごころをもつて、よいことをすすめ、わるいことを除くやうに申し述べよ。朕は、これから力の及ぶ限り、精を出して、大いに思ふことを実行しはじめるであらう。汝等多くの臣も、つとめはげめよ。
〔史実〕
ここに謹載したのは、明治天皇が、明治二年四月二十日、二等官以上を召させられ、親しく万機施設の方法を諮詢したまうた詔である。広く天下の善言を徴せられて、国是の基礎を確定しようとつとめたまうた大御心が、この詔の中にも、まことによく拝せられる。
明治の新政府は、尊き聖旨を奉じて、先に公議所を開設し、四等官以上一人、東京諸学校を代表する公議人各一人、十八藩から選出した公議人各一人を、公議に参加せしめることに決したが、三月十二日、更に待詔局を東京城内に置き、草莽の徒に至るまで、その意見を陳述することを得るやうにした。その布告に曰ふ。
大政更始以来、旧弊一洗言路洞開上下貫徹少モ壅塞無之、天下有志ノ者、竭丹誠為国家、無忌憚建言致候ニ付、追々御採用相成候得共猶実効之不立廉廉有之、畢竟御旨趣貫徹不致、有志之者選挙ニ相洩候哉ト深ク御煩念被為在候ニ付、此度於東京城待詔局被為開候間、有志之者草莽卑賤ニ至迄御為筋之儀早々建言可致、篤ト議論相遂其所長ヲ以テ夫々御用可被仰付御趣意ニ候間、向後潜伏隠遁鬱々其志ヲ不達者有之候テハ、至誠尽忠之素志ニ相悖リ候間、尚上下一致偏ニ尽力可致旨被仰出候事。
三月七日、京都を御出発、再び東幸の途に上りたまうた車駕は、同月二十八日、東京城に御著。その翌月
(四月)のはじめから、大いに制度の改革、人事の異動等を行はせられ、同二十日に、前詔の如く仰せ出されたのであつた。翌々日
(二十二日)に至り、更に公卿・諸侯及び三等官を御前に召させられ、それらの者にも、国是を諮詢したまひ、四等・五等官及び中下大夫は、輔相がこれを伝宣し、六等官以下は、その長官がこれを伝宣することとしたまうた。そこで、二十五日に、行政官は、次のやうに布告した。
皇国基礎御確定ノ会議被仰出候ニ付、為国家存付有之族ハ、不顧卑賤、待詔局ヘ罷出無忌憚可致建言事。
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)
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