〔大意〕
朕が聞いてゐるところによれば、明君は、徳を修めて下の者を率ゐ、庸主は、法を厳しくして人を扱ふといふことである。思ふに、国を乱す悪人といふものがいつもあるわけではない。君に徳があるかどうかといふことにあるのみである。今は北の境の地方の乱も静まり、国中が大かたをさまつた。慶喜や容保やその外の者も、それぞれどうか寛大にしてやり、自分から心を改めさせて、さうして、天下の者がみな一しよに国の勢を盛にするやうにしよう。
〔史実〕
明治維新の直後、大義名分を誤つて叛臣となつた徳川慶喜・松平容保等は、既に寛刑の恩命に浴してゐる。徳川慶喜は、水戸に謹慎を命ぜられ、松平容保は、死一等を減ぜられて、永禁錮の処刑を受けた。然るに、蝦夷地に拠つて、最後まで抵抗をした榎本武揚等が降服して、天下の平定を見るに至り、重ねてこれらの叛臣を寛宥すべき旨仰せ出された。ここに謹載したのがその詔である。詔の中には、「乱賊常ニ有ラス、君徳奈何ニアルノミ」と仰せられてある。争乱の原因を君徳に帰したまうたのは、誠に恐懼に堪へぬことである。
宥典録(明治二年「太政官日誌」百三より)
法律ハ国家之重事ニ候処、昨年犯逆之罪ニ於テハ、名義紊乱ノ後ヲ承ケ、政教未洽 ノ際ニ付 、聖上深ク御反躬被為在 、専ラ非常寛典ニ被処 候次第、就テハ、今度深キ思食 ヲ以テ、詔書之通 、更ニ被仰出 候間、名義ヲ明ニシ、順逆ヲ審 ニシ、反省自新、盛意ニ対膺 可致 候事。
徳川慶喜先般謹慎被仰付 置候処、深キ叡慮ヲ以テ、被免 候事。
静岡藩知事 徳川家達徳川慶喜儀、別紙之通被仰付 候条、此段可相達 事。
飯野藩知事 保科正益松平容保儀、先般城地被召上 、父子永預 被仰付 置候処、深キ叡慮ヲ以テ、今度家名被立下 候間、血脈之者相撰 、可願出 事。
各通 鳥取藩知事 池田慶徳久留米藩知事 有馬頼威松平容保儀、先般城地被召上 、父子永預 ケ被仰付 置候処、深キ叡慮ヲ以テ、今度家名被立下 候間、血脈之者相撰 、可願出 旨被仰出 候間、此段為心得 相達 候事。
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)
明治2年の宥典は、慶喜、容保、伊達慶邦らの元大名以上の偉い人達が恩恵を受けたようですが、明治3年4月まで函館で謹慎させられた凡そ500人の箱館戦争の静岡藩、仙台藩の降伏人達には適用されてない、と見えるが、いかがですか。またその理由をご教授ください。飯田、
返信削除