(明治四年九月四日)
朕惟フニ、風俗ナル者、移換以テ時ノ宜シキニ随ヒ、國體ナル者、不抜以テ其勢ヲ制ス。今衣冠ノ制、中古唐制ニ模倣セシヨリ、流テ軟弱ノ風ヲナス。朕、太タ慨之。夫レ神州ノ武ヲ以テ治ムルヤ、固ヨリ久シ。天子親ラ之カ元帥ト為リ、衆庶以テ其風ヲ仰ク。神武創業、神功征韓ノ如キ、決テ今日ノ風姿ニアラス。豈一日モ軟弱以テ天下ニ示ス可ケンヤ。朕、今断然其制ヲ更メ、其風俗ヲ一新シ、祖宗以来、尚武ノ國體ヲ立ント欲ス。汝近臣、其レ朕カ意ヲ体セヨ。
○風俗 「増韻」に「上ノ化スル所ヲ風ト曰ヒ、下ノ習フ所ヲ俗ト曰フ。」とある。この「風俗」の文字は、種々の意味に用ゐられてゐる。通常、「風習」と同じく、「世の習はし」即ち「世間に古くから行はれて来た事」といふ意味に用ゐられる場合が多いが、外に、「身ぶり」即ち「動作」といふ意味の用例もあり、「衣服のよそほひ」即ち「身なり」といふ意味の用例もあり、また「風俗歌」の略称ともなつてゐる。本勅諭は、服制の更正を仰せ出されたものであるから、「身なり」といふことを主としてこの語を解してよからうかと思ふ。
○移換 「うつりかはり」または「うつしかへる」といふ意味の語である。
○不抜以テ其勢ヲ制ス 「その勢を制するに不抜を以てする」といふに同じ。如何なる時の勢も、常に変らぬ態度で、これを抑へることをいふ。「不抜」は、その文字のとほり、「抜くことが出来ない」といふこと。堅くして動かないことの意味。「老子」に曰ふ。「善ク建テタルハ抜ケズ、善ク抱ケルハ脱セズ。」
○衣冠 衣服と冠。「服装」といふに同じ。
○中古唐制ニ模倣セシヨリ 「中古に至り、唐の制度にならつてから」といふこと。「中古」は、明治十五年に「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」の中に出づる「中世」と同じく、大化の改新の頃から、武家興隆の世までを、大凡に仰せられしものと拝する。「唐制」は、唐の制度、「模倣」は、「学びならふ」こと、また「まねる」こと。
○流テ軟弱ノ風ヲナス 「軟弱の風に流れ」といふに同じ。おのづから弱々しい風となつて行くこと。「軟弱」は、「剛強」の反対。「弱々しい」こと。劉琨の詩に曰ふ。「咨余軟弱、弗克負荷。」
○元帥 軍人の最高統率者。「左伝」宣公十二年に、「子元帥ト為リ、師命ヲ用ヰザルハ、誰之罪ゾヤ。」とあり、「職原抄」に「大将ハ之ヲ元帥ト謂フ。」とあり、和漢ともに古くから軍の総大将を意味する語となつてゐる。今日では、専ら陸海軍大将に賜はる称号となり、また天皇を大元帥陛下と申上げ奉る。
○神武創業 神武天皇の御創業。御東征の大業を達成したまうて、御即位あらせられたこと。
○神功征韓 神功皇后の三韓御征伐。
〔大意〕
朕がよく考へて見るのに、風俗といふものは、その時々に都合のよいやうに移しかへて行き、國體といふものは、如何なる時勢にならうとも決して動揺すべきでない。衣冠の制度は、中古に唐の制度にならつたので、だんだんと弱々しい風に流れて来た。朕は、これを大いに慨いてゐる。我が国が武力を政治に用ゐてゐるのは、まことに久しいことである。天皇が御自身に軍の統率者とならせられ、多くの民は、その風を仰いだ。神武天皇の御創業や、神功皇后の三韓御征伐のことを考へても、決して今日のやうな身なりではなかつた。かうした弱々しい風は、一日も天下に示しておけない。朕は、今きつぱりと服制を改めて、その風俗を一新し、祖宗から今日まで伝はつた武を尚ぶ國體を立てようと思ふ。汝等近臣よ、朕がこころを体せよ。
〔史実〕
我が国では、古来、服装といふことが重んぜられて、雄略天皇の御遺詔の中にも、「但、朝野の衣冠未だ鮮麗なることを得ず」と仰せられてあり、その後、しばしば服装に関する詔を拝してゐる。本書の中に謹載した詔も少くない。
明治天皇には、明治四年九月四日、ここに謹載した勅諭を侍従に賜はり、服制の更正を仰せ出された。当時の服制が軟弱に流れてゐたことについて、「朕太タ之ヲ慨ス」と仰せられ、「今断然其服制ヲ更メ、其風俗ヲ一新シ、祖宗以来、尚武ノ國體ヲ立ント欲ス」と仰せられてある。服制御更正の聖旨をこの御言葉によつて拝察することが出来る。
〔追記〕「岩倉公実記」によれば、「上、侍従ニ勅シ、平常洋式ノ服ヲ用フルコトヲ暁諭シ給フ。」とある。また「翌壬申歳五月、車駕西巡シ給フノ時ニ於テ、始メテ新式ノ御軍服ヲ着御シ、其ノ九月七日ニ及ンテ、陸軍元帥ノ服制ヲ定メ、聖上大元帥トナリ給フトキノ御服制モ亦之ヲ設ケラル。後ニ十一月十二日ニ至リ、文官並ニ有位者及ヒ一般ノ礼服ヲ更メ、従前ノ衣冠ヲ以テ祭服ト定メラル。」とある。
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)
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