2017年11月13日月曜日

伊達宗城を清国に遣はし給へる勅

(明治四年五月十五日)


我国ワガクニ清国シンコク壌土ジヤウドトナリス。ヨロシ親交シンカウ往来ワウライスヘシ。ココニ、ナンヂ宗城ムネナリモツテ、欽差キンサ大臣ダイジンシ、清国シンコク隣好リンカウヲサメ、条約デウヤクサダメ、スルニ全権ゼンケンモツテシ、便宜ベンギコトオコナハシム。ナンヂ宗城ムネナリソレ両国リヤウコクヨシミシ、モツチンノゾミヘヨ。

壌土ジヤウドトナリ 「国が隣りあつてゐる」といふこと。「壌土」は、「国土」といふに同じ。この文字は、別に、「農作物に適する土」といふ意味にも用ゐられる。しかし、「壌」は、「つち」(土)の外に、「ところ」(場所)「くに」(国土)を意味する文字であるから、「壌土」を国土の意味に用ゐる場合が多い。

欽差キンサ大臣ダイジン 外交官の名称。当時、勅命を奉じて、対外交渉の任に当つた最高地位の外交官。「欽差」は、「天子の御使」を意味する文字である。「正字通」に曰ふ。「御音ヲ欽勅ト曰ヒ、御使ヲ欽命ト曰ヒ、俗ニ欽差ト曰フ、皆敬意ヲ取レリ。」


〔史実〕
我が国と支那との関係は、古くから国史に伝へられてゐる。隋・唐の頃、既に使節の往復が行はれたことは、本書に謹載した国書によつても明らかである。豊臣秀吉の外征以来、相互の国交は杜絶し、江戸時代に入りても、彼の国の商船が長崎に来て貿易をしたのみに過ぎなかつた。

明治維新後、開国の国是によつて、諸外国と交通をするに及び、おのづから支那との国交も考慮せられるに至つた。明治三年六月、外務権大丞柳原前光さきみつは、命を受けて、支那の上海に赴いて、通商を求めた。当時、支那は、国号を清と称してゐた。外務卿沢宣嘉のぶよしから、清国の総理外国事務大臣に送れる書には、
大日本従三位外務卿清原宣嘉・従四位外務大輔藤原宗則ら、謹みて書を大清国総理外国事務大憲台下に呈す。方今、文明の化おほいに開け、交際の道に盛に、宇宙の間遠邇ゑんじあることなし。我が邦近歳泰西諸国と互に盟約をかはし、共に有無を通ず。況んや、隣近貴国の如き、宜しく最先に情好を通じ、和親を結ぶべし。而かるに、たゞ商船の往来あるのみにして、未だ嘗て交際の礼を修めず、また一大闕典けつてんならずや。さきに我が邦政治一新の始め、即ち欽差公使を遣はして盟約を修めんと欲す。内地多事に因りて、遅延して今に至る。深く此れをうらみと為す。ここに奏准を経て、特に従四位外務権大丞柳原前光・正七位外務権少丞藤原義質・従七位文書権正鄭永寧ていえいねい等を貴国に遣はす。豫前に通信事宜を商議し、以て他日我が公使と貴国と和親条約を定むるの地と為す。伏してねがはくは、貴憲台下、右官員等を歓接し、其の陳述する所を取載せよ。謹白。明治三年庚午七月。
これによつて明らかなるが如く、柳原前光等は、修好通商条約締結の豫備協議に派遣せられたものであつた。前光等は、上海より天津に至り、十月、清国政府の回答を得た。清国政府は、我が要求を容れ、他日、我が国より特派した使節と商議して、条約を締結し、両国の親善を進めるといふのであつた。そこで、前光等は、使命を果して帰朝した。

かくの如く、既に交渉が成立したので、明治四年四月、朝廷に於かせられては、大蔵卿伊達宗城を欽差全権大臣に任じたまうて、清国へ遣はされた。外務大丞柳原前光・権大丞津田真道は、副として随従した。宗城等は、五月、東京を発して、清国に至り、彼の国の欽差全権大臣李鴻章と会見して、修好条約を議し、七月二十九日に調印ををはつた。条約本文は、十八条より成り、別に通商章程を定めた。

ここに謹載したのは、明治四年五月二十五日、欽差大臣を拝命して清国に赴く伊達宗城に賜はつた勅である。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

0 件のコメント:

コメントを投稿