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〔史実〕
我が国と支那との関係は、古くから国史に伝へられてゐる。隋・唐の頃、既に使節の往復が行はれたことは、本書に謹載した国書によつても明らかである。豊臣秀吉の外征以来、相互の国交は杜絶し、江戸時代に入りても、彼の国の商船が長崎に来て貿易をしたのみに過ぎなかつた。
明治維新後、開国の国是によつて、諸外国と交通をするに及び、おのづから支那との国交も考慮せられるに至つた。明治三年六月、外務権大丞柳原
大日本従三位外務卿清原宣嘉・従四位外務大輔藤原宗則ら、謹みて書を大清国総理外国事務大憲台下に呈す。方今、文明の化これによつて明らかなるが如く、柳原前光等は、修好通商条約締結の豫備協議に派遣せられたものであつた。前光等は、上海より天津に至り、十月、清国政府の回答を得た。清国政府は、我が要求を容れ、他日、我が国より特派した使節と商議して、条約を締結し、両国の親善を進めるといふのであつた。そこで、前光等は、使命を果して帰朝した。大 に開け、交際の道日 に盛に、宇宙の間遠邇 あることなし。我が邦近歳泰西諸国と互に盟約を訂 し、共に有無を通ず。況んや、隣近貴国の如き、宜しく最先に情好を通じ、和親を結ぶべし。而かるに、たゞ商船の往来あるのみにして、未だ嘗て交際の礼を修めず、また一大闕典 ならずや。曩 に我が邦政治一新の始め、即ち欽差公使を遣はして盟約を修めんと欲す。内地多事に因りて、遅延して今に至る。深く此れを憾 みと為す。茲 に奏准を経て、特に従四位外務権大丞柳原前光・正七位外務権少丞藤原義質・従七位文書権正鄭永寧 等を貴国に遣はす。豫前に通信事宜を商議し、以て他日我が公使と貴国と和親条約を定むるの地と為す。伏して冀 はくは、貴憲台下、右官員等を歓接し、其の陳述する所を取載せよ。謹白。明治三年庚午七月。
かくの如く、既に交渉が成立したので、明治四年四月、朝廷に於かせられては、大蔵卿伊達宗城を欽差全権大臣に任じたまうて、清国へ遣はされた。外務大丞柳原前光・権大丞津田真道は、副として随従した。宗城等は、五月、東京を発して、清国に至り、彼の国の欽差全権大臣李鴻章と会見して、修好条約を議し、七月二十九日に調印を
ここに謹載したのは、明治四年五月二十五日、欽差大臣を拝命して清国に赴く伊達宗城に賜はつた勅である。
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)
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