使臣 岩倉、大久保、木戸、伊藤、井上等
特命全権大使随行理事官に下し給へる勅語
(明治四年十一月四日)
〔史実〕
幕末に欧米諸国の船艦がしきりに我が沿海に来航して、開港を迫つた時、幕府は、その要求を拒む力がなく、遂に米・英・仏・露・蘭の五国と通商条約を締結した。当時の幕吏は、多年の鎖国政策に禍せられて、海外の事情に通ぜず、条約文の如きも、殆ど米国使節の作製した草案をそのままに用ゐたので、我が国に不利益な条項が少くなかつた。中にも、領事裁判権や海関税率の規定の如きは、その最も甚しいものであつた。後に、幕府は、
今ヨリ凡ソ百七十一箇月ノ後、双方政府ノ存意ヲ以テ、両国ノ内ヨリ一箇年以前ニ通達シ、此ノ条約並ヒニ神奈川条約ノ内存シ置ク箇条及ヒ此ノ書ニ添ヘタル別冊トモニ、双方委任ノ役人実験ノ上、談判ヲ尽シ、補ヒ或ハ改ムルコトヲ得ヘシ。とあり、百七十一箇月後には、改定し得る規定が存してゐた。百七十一箇月後は、明治五年五月二十九日(太陰暦)即ち西紀一八七二年七月四日(太陽暦)に当つてゐた。そこで、政府に於ては、条約の明文に従ひ、一箇年以前に、改正の希望を各国政府に通達し、その談判を東京に開くことに決した。しかるに、この条約改正といふことは、非常に重大な問題であるから、先づ使臣を諸外国に派遣して、彼我の意見を交換することになり、明治四年十月、外務卿岩倉具視が右大臣兼特命全権大使に任ぜられ、参議木戸孝允・大蔵卿大久保利通・工部大輔伊藤博文・外務少輔山口尚芳の四人が副使に任ぜられ、欧米諸国の状況視察を仰せ付けられた。これらの使臣の出発に際して、明治天皇には、ここに謹載した勅語のやうに、重大なる使命を負うて海外に赴く使臣を御激励あそばされ、且、「朕、今ヨリシテ、汝等ノ無恙帰朝ノ日ヲ祝センコトヲ俟ツ。遠洋渡航、千万自重セヨ。」といふ
一行四十八名は、明治四年十一月十二日、横濱を解纜、欧米諸国歴訪の途に上り、十二月六日に、米国サンフランシスコに到著した。この大使の派遣は、条約改正の下相談をまとめ、兼ねてその準備として採用すべき欧米の文物制度を視察するのが目的であつた。しかるに、米国大統領グラントは、条約改正の結了を勧告した。岩倉大使は、その親切に感じて、用意してゐなかつた全権委任状を得るために、急遽大久保・伊藤を帰朝せしめた。しかし、廟議は、両人の提出した改正案を容れず、他日日本に於て改正を行ふことに決した。岩倉も国別に談判を開くことの不利を悟り、談判を中止した。それから、一行は、英・仏・白・蘭・普・露・丁・瑞・独・伊・墺等の諸国を歴訪し、二十三箇月を経て、明治六年九月に帰朝した。
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)
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