(明治四年五月二十二日)
我国、魯国ト壌土最近シ。交誼最厚フスヘシ。殊ニ樺太地方ノ如キハ、彼我人民雑居往来、各其利ヲ営ム。之ヲ保全スルノ道ニ於テ、豈心ヲ尽サヽルヘケンヤ。曩ニ嘉永五年、魯帝、全権使臣ヲ派シ、経界ヲ定メンコトヲ議ス。而レトモ互ニ事故アリテ其議成ラス。爾後慶応三年ニ至リ、彼得堡ニ於テ仮リニ雑居ノ約ヲ結ヘリ。朕、窃ニ方今樺太ノ形状ヲ察スルニ、言語意脈ノ通セサルヨリ、民心疑惑、或ハ争隙ヲ生シ、怨讐ヲ醸シ、遂ニ両国交誼ノ際、懇親ノ意ヲ失フニ至ランカ。是経界ヲ定ムルノ最急務ニシテ、独朕ノ深ク憂フルノミナラス、魯帝モ又嘗テ大ニ心ヲ労セシ所以ナリ。因テ爾種臣ニ命シ、委スルニ全権ヲ以テシ、往テ経界ヲ定ムルヲ議セシム。爾種臣、其レ機宜ニ従ヒ、其事ヲ正シ、両国人民ヲシテ其慶福ヲ保タシメ、且ツ以テ交誼ノ益厚ク、永久渝ラサランコトヲ。是朕カ深ク望ム所ナリ。爾種臣、篤ク此旨ヲ体セヨ。
○魯国 ロシヤ帝国の略称。
○壌土 「国土」といふに同じ。
○彼我人民雑居往来 ロシヤ人と日本人とが入りまじつて住み互に往つたり来たりしてゐること。
○経界 「境堺」と同じ。「さかひ」である。「孟子」の滕文公章に曰ふ。「夫レ仁政ハ必ズ経界ヨリ始マル。」
○彼得堡 帝政時代のロシヤの首都。セントピータースブルグとも訓んだ。
○言語意脈 言葉やその意味のすぢ。
○民心疑惑 民の心に疑ひがおこること。
○怨讐ヲ醸シ 「怨みを抱いて敵視するやうになる」といふこと。「怨讐」は、その文字のとほり、「うらみとあだ」をいふのであるが、また「うらみのあるかたき」といふ意味にも用ゐられる。「宋史」孫永伝に、「人トノ交ハリ、終身怨讐無シ。」とあり、「左伝」にも、「我三怨有リ、怨讐已ニ多シ、将ニ何ヲ以テ戦フベキカ。」とある。「醸シ」は、蒸した米を、麴や水に和して醱酵せしめ、酒につくり上げることから、何事かを「おこす」ことや「成しとげる」ことの意味に転用せられる語である。
○機宜ニ従ヒ 「その場合に適したよい方法に従ふ」といふこと。「機宜」は、「機に応じて宜しきを得る」といふ意味の語である。嵆康の絶交書に曰ふ。「人情ヲ識ラズ、機宜に闇シ。」
〔大意〕
謹約。「我が国は、ロシヤ帝国と、国土が最も接近してゐるから、交誼を最も厚うしなければならない。殊に樺太地方の如きは、両国の人民が雑居往来して、それぞれ利を営んでゐるから、これを保全する道に、心をつくさなくてはならない。嘉永五年に、ロシヤ皇帝から、全権使臣を遣はして、国境を定めようとの相談があつたが、事故のために成り立たず、慶応五年にペテルブルグで雑居の仮条約を結んだ。今、樺太の様子を見るに、言語が通じないために、民心に疑ひが起り、争ひを生じ、怨みを抱くやうになり、両国の親善が失はれる。国境を定めることは、急務であつて、朕が深く憂ひてゐるのみならず、ロシヤ皇帝も大いに心を労せられてある。よつて汝種臣に全権を委任して、国境を定めることを協議せしめる。」
〔史実〕
樺太及び千島の日露両国境界問題は、幕末から明治初年へかけての重大な懸案となつてゐた。著々と東方侵略の歩を進めたロシヤ帝国は、幕末に至つて、我が北辺に魔手を延ばして来た。安政元年にロシヤ使節プーチャーチンが来朝した時、幕府は、国境問題について談判し、「日露両国の境界を
択捉・
得撫二島の間とし、樺太は旧に依りて界を分たざること」とした。しかるに、その後、ロシヤの東部シベリヤ総督ムラヴィヨフは、黒竜江一帯の地を領有し、進んで樺太をも全然露領とする意志を以て、安政六年七月、自ら軍艦を率ゐ、品川に来り、宗谷海峡を両国の境界とすべきことを、幕府に迫つた。幕府は、これを拒絶した。その後、文久二年七月に至り、幕府は、外国奉行竹内保徳
(下野守)・外国奉行兼神奈川奉行松平康直
(石見守)・京極能登守を露都ペテルブルグに派遣して、樺太境界を議せしめた。その結果、北緯五十度を以て、日露両国の境界とし、翌年双方より吏員を派遣し、臨地劃定することに決した。しかるに、次第に国内が多事となつたために、幕府は、北辺を顧みる
遑がなくなり、翌年委員を樺太に派遣しなかつた。そこで、慶応二年十二月、幕府は、また函館奉行小出秀実
(大和守)及び目附石川駿河守をペテルブルグに遣はし、国境問題を議せしめた。ロシヤの委員、亜細亜局長スツレモウホフは、得撫近傍の三島を代償として我に譲り、樺太全部を露領とすることを主張したが、我が委員は、これを承諾しなかつたので、旧に依りて、樺太を日露両国の属領とし、同三年二月二十八日に、仮条約の調印を
了つた。その文中には、次のやうにある。
第一条 樺太島ニ於イテ、両国人民ハ睦シク誠意ニ交ハル可シ。万一、争論アルカ、マタハ不和ノ事アラハ、裁断ハ其ノ所ノ双方ノ司人共ニ任スヘシ。若シ其ノ司人ニテ決シ難キ事件ハ、双方近傍ノ奉行ニテ裁断スヘシ。
第二条 両国ノ所領タル上ハ、露西亜人・日本人トモ、全島往来勝手タルヘシ。且、未タ建物及ヒ庭園ナキ所、又ハ総テ産業ノ為メニ用ヒサル場所ヘハ、移住・建物等、勝手タルヘシ。
第三条 島中ノ土民ハ、其ノ身ニ属セル物、並ヒニ附属所持ノ品々トモ、全ク其ノ者ノ自由タルヘシ。又土民ハ、其ノ者ノ承諾ノ上、露西亜人・日本人トモニ、之レヲ雇フコトヲ得ヘシ。若シ日本人又ハ露西亜人ヨリ、土民、金銀或ハ品物ニテ、是レマテ既ニ借リ受ケシカ、又ハ現ニ借財ヲ為スコトアラハ、其ノ者ノ望ミノ上、前以テ定メタル期限ノ間、職業或ハ使行ヲ以テ、之レヲ償フコトヲ許スヘシ。(第四条以下略)
この条約は、大体に於て、安政の条約と同じく、ただ細則を定めたのみに過ぎなかつた。かくの如く、幕府の意図は、北緯五十度以南を以て我が領土とするにあつたが、それを成し遂げない中に滅びて、明治の新政となつたのである。
樺太島が日露両国の所属となつたので、露人は、しきりに南進して来て、従来、我が所属となつてゐたところにまで家屋を建て、我が官吏の制することも聴かなかつた。それがために、両国の人民の間に紛争が絶えなかつた。
それで、明治四年五月二十二日、ここに謹載した勅を、外務卿副島種臣に賜はり、国境決定のために、露都へ御差遣を仰せ出されたのである。
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)
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