(明治三年一月三日)
朕、恭しく惟みるに、大祖の業を創むるや、神明を崇敬し、蒼生を愛撫す。祭政一致、由来する所遠し。朕、寡弱を以て、夙に聖緒を承け、日夜怵惕して、天職の或は虧けむことを懼る。乃ち祇みて天神・地祇・八神曁び列皇の神霊を、神祇官に鎮祭し、以て孝敬を申ぶ。庶幾はくは、億兆をして矜式する所有らしめむことを。
○大祖 「皇祖」と同じ。大祖といふのは、初代の帝王の称である。しかし、本詔に「大祖」と仰せられてあるのは、遠い祖先にまします天皇の御意かと拝察する。
○神明を崇敬し 神々を敬ひたふとぶ。「神明」は、「
神」といふに同じ。「左伝」の中にも、「之ヲ敬フコト神明ノ如ク、之ヲ畏ルルコト
雷霆ノ如シ。」とある。
○蒼生を愛撫す 万民を深く愛すること。「蒼生」は、「多くの民」である。古語では、「おほみたから」とも「あをひとぐさ」とも訓んだ。「愛撫」は、「撫でるやうに愛する」こと即ち深く愛することをいふ。
○由来する所 よつて来れるもと。「原因」といふに同じ。
○寡弱 徳のすくない力の弱い者といふ御謙遜の御言葉である。この「寡弱」の文字は身よりのない年の若い者といふ意味にも用ゐられる。
○聖緒 「皇緒」と同じ。天皇の御系統即ち皇統のこと。また天皇の御事業といふ意味にも用ゐられる。
○怵惕 「おそれうれふる」こと。心に大いなる不安を感ずることを称する語。
○天神・地祇・八神 前に謹載した「天神地祇鎮座の宣命」の謹解中に述べてある。「天神」は天ッ神、「地祇」は国ッ神、「八神」は、「祈年祭祝詞」に出づる八柱の神である。
○曁び 「及び」と同じ。「及」の古字。
○列皇の神霊 御歴代の天皇の尊い御霊。
○神祇官に鎮祭し 神祇官に鎮座してお祭りすること。「神祇官」は、明治初年に於ける中央政府の一官庁である。明治元年閏四月二十一日の官制では、太政官を七官に分ち、神祇官をその一官としたが、明治二年七月の官制改革により、二官六省を置き、太政官と神祇官とを二官とし、祭典・諸陵・宣教・祝部・神戸等の監督を、神祇官の所管とした。
○孝敬 孝心をもつて神を敬ふこと。「敬神崇祖」といふに同じ。
○矜式 「つつしんで則る」こと。まごころをつくしてそのとほりに行ふことの意味。「孟子」の公孫丑章に曰ふ。「諸大夫国人ヲシテ皆矜式スル所
有ラシム。」
〔大意〕
朕が恭しく考へて見るのに、遠い祖先の方々が、この国を治める大業をおはじめなさつた時には、神々を敬ひたふとび、万民を深く愛したまうたのである。祭政一致のおこりといふものは、甚だ遠い。朕は、徳もすくなく力も弱い身をもつて、皇統をうけついだので、日夜心配して、この尊い天職にかけるやうなことはないかとおそれてゐる。そこで、つつしんで天神・地祇・八神及び御歴代の天皇の御霊を、神祇官の中に鎮めまつり、さうして神を敬ひ祖先を崇ぶ心をあらはさうと思ふ。天下の万民にも、みなこれにならふやうにさせようと思つてゐる。
〔史実〕
明治天皇には、敬神崇祖を非常に重んじたまひ、祭政一致の御政道を御回復あらせられて、明治新政の基礎を定めたまうたのであつた。この敬神崇祖の御精神から、明治元年十月、東京に行幸あらせられるや、十七日に勅書を下し賜はり、武蔵国大宮駅氷川神社を当国の鎮守として御親祭の旨仰せ出されて、二十七日に行幸御参拝あらせられた。その勅書は、前に謹載してある。
官制の変遷を顧みるに、明治元年正月十七日の官制では、三職・七科を置き、神祇科をその一科とし、同年二月三日、七科を改めて七局とし、神祇科を神祇事務局とし、同年閏四月二十一日、更に太政官官制を公布し、太政官を分ちて七官とし、神祇官をその一官とした。その後、二回の小改正が行はれたが、神祇官は、常に太政官の管下に属する一官となつてゐた。しかるに、明治二年七月八日、また官制の大改革が行はれて、二官六省の制度となつた。この制度は、大宝の古制に則り、従来の七官中の行政官を太政官と改めて、神祇官を太政官以外に独立せしめ、この太政官・神祇官を二官とし、他の五官を廃して民部・大蔵・兵部・刑部・宮内・外務の六省を設置したものであつた。かくして、明治の政府は、神事尊重の聖旨を奉じて、新政の緒に就いたのである。
この年
(明治二年)十二月、明治天皇には、新に神殿を神祇官内に御建立あらせられて、天神地祇並に八神と共に、御歴代の皇霊を鎮祭したまうた。翌年
(明治三年)正月三日に渙発あらせられたのが、ここに謹載した鎮祭の詔である。神祇官人は、この詔を奉じて、天神地祇並に八神及び御歴代天皇の神霊に奉仕することになり、祭祀の根基がここに確定したのであつた。
三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)
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