2017年11月23日木曜日

華族の海外留学を奨励し給へる勅諭

(明治四年十月二十二日)


チンオモフニ、宇内ウダイ列国レツコク開化カイクワ富強フキヤウシヨウアルモノミナソノ国民コクミン勤勉キンベンチカララサルナシ。シカシテ国民コクミンヒラサイミガキ、勤勉キンベンチカライタモノハ、モトヨソノ国民コクミンタルノ本分ホンブンツクスモノナリ。イマ我国ワガクニ旧制キウセイ更革カウカクシテ、列国レツコク並馳ヘイチセントホツス。国民コクミン一致イツチ勤勉キンベンチカラツクスニアラザレハ、ナニモツコレイタスコトヲンヤ。トク華族クワゾクハ、国民コクミンチユウ貴重キチヨウ地位チヰリ、衆庶シユウシヨ属目シヨクモクスルトコロナレハ、ソノ履行リカウモトヨ標準ヘウジユントナリ、一層イツソウ勤勉キンベンチカライタシ、率先ソツセンシテコレ鼓舞コブセサルヘケンヤ。其責ソノセキタルヤマタオモシ。コレ今日コンニチチン汝等ナンヂラシ、シタシチン期望キバウスルトコロクル所以ユヱンナリ。勤勉キンベンチカライタスハ、ヒラサイミガクヨリホカナルハナシ。ヒラサイミガクハ、マナコ宇内ウダイ開化カイクワ形勢ケイセイケ、有用イウヨウゲフヲサメ、アルヒ外国グワイコク留学リウガクシ、実地ジツチガクコウスルヨリエウナルハナシ。シカシテ年壮トシサカリキ、留学リウガクガタモノモ、ヒトタヒ海外カイグワイ周遊シウユウシ、聞見ブンケンヒロムル、マタモツ智識チシキ増益ゾウエキスルニラン。カツ我邦ワガクニ女学ヂヨガクセイイマタサルヲモツテ、婦女フヂヨオホクハ事理ジリカイセス。コト幼童エウドウ成立セイリツ母氏ボシ教導ケウダウクワンシ、ジツ切緊セツキンコトナレハ、イマ海外カイグワイオモムモノ妻女サイヂヨアルヒ姉妹シマイヒツサゲ同行ドウカウスル、モトヨリナルコトニテ、外国グワイコク所在シヨザイ女教ヂヨケウアルヲサトリ、育児イクジハフヲモルニルヘシ。マコト人々ヒトビトココ注意チユウイシ、勤勉キンベンチカライタサハ、開化カイクワヰキススミ、富強フキヤウモトヰシタガツタチ列国レツコク並馳ヘイチスルモカタカラサルヘシ。汝等ナンヂラ斯意コノイタイシ、オノオノソノ本分ホンブンツクシ、モツチン期望キバウスルトコロヘヨ。

宇内ウダイ列国レツコク 世界の国々。

開化カイクワ 文化の進歩を意味する語。世の中がよく開けて、人の知識が進むこと。顧覬之の定命論に、「夫レ極ヲ建テ化ヲ開キ、声ヲ樹テ則ヲノコシ、典防之興、由来ヒサシ矣。」とある。明治の初年には、西洋風に倣ふことを文明開化と称したこともあつた。

並馳ヘイチ ならびはしる。肩を並べて同じやうに進んで行くこと。

衆庶シユウシヨ属目シヨクモク 「多くの人々が目をつけてゐる」といふこと。「属目」は、「嘱目」の文字を用ゐることもある。「注目して視る」ことである。「晋書」秦献王東伝に曰ふ。「其ノ貴寵ハ天下ノ属目スル所ト為ル。」

履行リカウ 「日常の行為」をいふ。「説苑」に、「始メ之ノ文ヲ誦シ、今履ミテ之ヲ行フ、是レ学ノ日ニマスマス明カナル也。」とあるやうに、「ふみ行ふ」即ち「実行」といふ意味の文字であるが、転じては、「品行」と同じ意味に用ゐられる。

標準ヘウジユン 「目あてとすべきのり」即ち「手本」である。韓愈の伯夷頌に曰ふ。「聖人ハ乃チ万世之標準也。」

鼓舞コブ 「大いにはげます」こと。「激励」と同じ。「つづみを鳴らしてはしめる」といふ字義から、人を感動させて、発奮興起せしめる意味に転用せられてゐる語。「法言」に曰ふ。「万物ヲ鼓舞スルハ、其レ唯ノ風雷。万民ヲ鼓舞スルハ、其レ号令。」

聞見ブンケン 「見聞」と同じ。耳で聞き目で見て、知識を収得すること。

切緊セツキン 「緊切」と同じ。「甚だ大切」といふこと。

ヒツサゲ 「提」と同じ。「手に持つ」といふことから、「伴ふ」といふ意味に転用せられてゐる語である。


〔大意〕
謹約。「世界の諸国を観るに、開化富強といはれてゐる国は、みなその国民の勤勉の力によるものである。我が国も、旧制を改めて諸外国と並び立つには、国民が勤勉にその本分をつくさなければならない。殊に華族は国民の最高地位にあり、その行が多くの者の手本になるから、一そう勤勉といふことが肝要である。勤勉の力を発揮するには、智識を進め才能をみがかなければならない。それには、外国へ留学するのが最もよい。既に壮年を過ぎて留学し難い者も、一度海外をめぐつて見聞をひろめるやうにすることを必要とする。我が国には、まだ女学校の制度が立つてゐない。幼童の成育には、母の教導が最も大切である。故に、外国へ留学する者は、妻女か姉妹を同伴するがよい。外国の女子教育の進歩もわかり、育児の法にも通ずることが出来る。多くの華族がここに注意すれば、我が国は、ますます開化富強となり、列国と並び進むことが難くないであらう。」


〔史実〕
ここに謹載したのは、明治天皇が、明治四年十月二十二日に、在京の華族を召したまうて、海外留学を御奨励あらせられた勅諭である。翌年(明治五年)六月一日には、御西巡の途次、京都府の華族にも、同じ御趣意の勅諭を下し賜はつた。勅諭の中には、「我邦女学ノ制未タ立サルヲ以テ、婦女多クハ事理ヲ解セス」と仰せられ、更に「殊ニ幼童ノ成立ハ母氏ノ教導ニ関シ、実ニ切緊ノ事ナレハ」と仰せられて、女子教育の不備とその必要を御訓諭あらせられてある。江戸時代に於ては、女子教育を全く閑却してゐた。久しき因襲により、女子教育の必要を認める者が少く、中には公然と無用論を唱へる者さへもあつた。さうした時代の趨勢に反し、明治四年、既にかくも明らかに女子教育の必要を告げさせられて、華族の反省を促したまうたのは、聖慮深慮、まことに恐懼に堪へないことである。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

0 件のコメント:

コメントを投稿