2016年4月1日金曜日

神武天皇祭

神武天皇祭


我が大日本帝國の皇太宗くわうたいそうと仰ぎ奉る人皇第一代、 神武天皇の崩御あらせ給ひし日は、三月十一日なれど、此れ太陰曆に屬せるを以て、我が 先帝明治天皇 今の太陽曆に改め給ふ時、四月三日とは定め給ひしなり、謹みて按ずるに、

天皇は御諱おんいみなを、神日本かむやまと磐余彥尊いはれひこのみことと申し奉り、 天照皇大神すめおほかみ 五世の孫にして、 天津あまつ日高ひたか日子ひこ波限なぎさ建鵜葺草たけうがや葺不合尊ふきあへずのみことの第四子なり、御母おんはゝは海神豐玉毘賣命とよたまひめのみこと 第二の御女おんむすめ玉依比賣命たまよりひめのみことと申し奉り、御年十五にして皇太子に立ち給ひ、五十一歲にして大和國畝傍うねびの橿原かしはらの宮に於て、始めて 天皇の御位に即かせ給ひ、位にましますこと七十六年、御寶齡ごほうれい百二十七歲にして崩御し給ひしにより、大和國武市郡たかいちのこほり山本村畝傍うねび東北うしとらみさゝぎほうむり奉りしに、人皇五十代、 桓武天皇の御代に、淡路御船あはみのみふねと云ふ人、みことのりを奉じ、おくりなえらみて、 神武天皇と稱し奉る、是より先、天津日高日子ほの邇々藝尊ににぎのみことの、 日向國なる高千穗峰に天降り給ふや、 天祖天照皇大神、御手みてづから三種の神器を授け、しゆくして曰く、葦原千五百秋ちいほあきの瑞穗國は、これ吾子孫のきみたるきの地なり、なんぢ皇孫つい知召しろしめせ、寶祚ほうそさかんならんこと、まさに天壤ときはまり無かる可しと、嗚呼巍々ぎぎたる明敎、昭々せうせうたる神訓、是則ち我が 皇國國體の、萬古にかはらざる基礎を確定し給ひし仰ぎ尊む可き、一大豫言なる、神勅にあらずや、

國語に 天位を、天津日嗣あまつひつぎと云ふ、けだし天日を繼承し給ふの義ならむ、故に我國の皇位たる、の外蕃諸邦の、簒奪弑逆をほしいまゝにし、自立して王とせんする者とは、素より天壤の差違ある者にして、かしこくも 天祖の天胤てんいんたる萬世一系の 帝統に非ざれば、之を繼承し給ふことは斷然あたはざる所なり、追思せよ、往昔 孝謙のてうに、忠臣和氣淸麿が、妖僧道鏡の非望を排斥し、以て上下しやうかの肝膽を寒からしめ、 皇位を汚す事あたはざらしめしを、むべなり、我が帝國憲法を發布せらるゝに際し、大日本帝國は萬世一系の天皇之を統治すと、其第一條に明記せられし事、而してふる百二十二、年をけみすること實に二千五百八十有餘の久しきに至れる者、宇內廣しと雖ども、萬邦多しと雖ども、果していづれに其類例かある、仰ぎ尊とばざる可からざる、世界の一大君子國ならずや、

今軍人のうちに於て、拔群の勳功ある將士に賜はる、最貴最高なる金鵄きんし勳章の起源たる、當時 神武天皇には、已に中國を平らげ、大和國に入らむとし給ひし時、長髓彥ながすねひこなる者ありて、 皇師に抗しふせぎ戰ひしかば、天皇は非常に御苦戰遊ばされ、大に御心を惱まし給ひし時、一天にはかき曇り、雹を降らし、金色燦然たる一羽の靈鵄れいしが天つ御空より舞ひ來りて、 天皇の弓弭ゆはずに留まりしに、其とびの光り瞱煜かゞやきて、其狀流電いなびかりの如し、之が爲、迷眩まよひくらみて賊は又戰ふ事能はず、終に敗北せしかば、 天皇は御心のまゝに天下を平定して、御位に即き給ひし祥瑞ある事を、 先帝陛下には、思召されて、明治二十三年二月十一日の吉辰きつしんを以て、左の詔を下し、金鵄勳章を創設遊ばされ給ひしは、まことに國運の發展に相應せし目出度めでたき御事なり、
おもんみるに、
神武天皇皇業を恢弘くわいこうし、繼承して朕に及べり、今やはるかに、登極紀元を算すれば、二千五百五十年に達せり、朕此期に際し、 天皇戡定かんていの故事にちやうし、金鵄勳章を創立し、將來武功拔群の者に授與し、永く 天皇の威烈をあきらかにし、以て其忠烈を獎勵せんとす、汝衆庶しうしよ此旨をたいせよ、と
むべなり、 神武天皇の 皇祖天神を祭り給ひし時「我が 皇祖の靈や、天より降鑒かうかんして朕が光助くわうじよす、今諸虜しよりよ已に平らぎ、海內無事なり」云々との御詔勅たる決して捕捉す可からざる空漠くうばくの言に非ずして、 天皇親しく深厚なる、天佑神助を感受し給ひし實例なること、彼と云ひ是と云ひ、 天皇の盛德鴻業を追想し奉れば、我が帝國の民たる者、誰か其 皇恩の萬一を、報謝し奉らずしてならむや、

神武天皇皇祖天神を祭り給ふ


(八雲都留麻『大祭祝日略説:国民宝典』、八重垣書院、大正12年)より

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