2018年12月23日日曜日

天長節

十二月二十三日は天長節なり。

天長節は我が 今上天皇陛下の生れさせ給ひし日にして、 聖寿の長久を祝ひ奉る節会せちゑなり。

此の日は、賢所、並びに皇霊殿、神殿の三前に於て祭事を行はせられ、群臣に酺宴ほえんを賜ふ。明治元年、初めて此の儀を行ひ給ひしを、後には兼ねて観兵の式をも挙げさせ給ふ事となりぬるも、先の敗戦以来、嘗ての御盛典は政府の不作為によりて、久しきに亘り御中断餘儀なく、遂に平成の大御代にも御再興能はざる、此れ全く臣民の不忠の致す所にして、新たなる大御代に必ずや再興を誓ひ奉る次第なり。

天長とは天長地久の語(『老子』)より出づ。則ち 聖寿の長久を祝する義なり。聖誕日を天長節と曰ふ事の起りは 光仁天皇の御世に在り。宝亀六年(皇紀1435年、西暦775年)九月壬寅の勅に
十月十三日ハ是レ朕ガ生日ナリ、此ノ辰ニ至ル毎ニ感慶兼ネ集ル、宜シク諸寺ノ僧尼ヲシテ、毎年是ノ日、転経行道セシムベク、海内諸国ナラビテ屠ヲ断ツベシ、内外百官酺宴ヲ賜フコト一日、仍テ此ノ日ヲナヅケテ天長節ト為ス、ネガハクハ斯ノ功徳ヲ廻ラシ、ツヽシミテ先慈ニ奉ジ、此ノ慶情ヲ以テ、普ク天下ニ被ラシメン
とのりたまひ、『同年十月癸酉、是日天長、大ニ群臣ニ酺シ、翫好グワンカウ酒食ヲ献ゼシム』とあるを以て始めとす。此の時代には、仏法盛に行はれしを以て、各寺に読経などをも仰せられて其の儀甚だ盛なりき。王政復古に及びて、 明治天皇、此の節を定め給ひしは、すなはち 光仁の御制を復し給へるなり。

抑も此等の祝日を定め給ふは、衆庶と歓楽を共にせさせ給はんの大御心より出づ。臣民たるもの誰か感佩かんぱいせざるものあらん。今、甞て酺宴を賜ひし時の 明治天皇の勅語を挙げん。
コヽニ朕ガ誕辰ニアタリ、群臣ヲ会同シ、酺宴ヲ張リ、舞楽ヲ奏セシム、汝群臣、 朕ガトモニ楽ムノ意ヲ体シ、其レク歓ヲ尽セヨ、
時の太政大臣三条実美公、及び従一位中山忠能公等これに奉答せり、その詞に曰はく、
茲ニ天長ノ佳節ニ方リ、 陛下群臣ヲ会同シ、酺宴ヲ賜ヒ、舞楽ヲ奏セシメ、特ニ辱クモ偕楽ノ 寵命ヲ拝ス、群臣感喜ノイタリヘズ、ニ歓ヲ尽クシ楽ミヲ極メザルベケンヤ、乃チウヤウヤシク 陛下ノ聖誕ヲ祝シ、万寿無彊ヲ祈リ奉ル、
此の勅語を奉読せば其意おのづから明かならん。

今上陛下は第百二十四代 昭和天皇の皇子にして御名を 継宮つぐのみや明仁あきひと親王殿下と申し奉り、昭和八年十二月二十三日の御誕生なり。御年十八歳(昭和二十七年)にして太子に立ち給ひ、御年五十五(平成元年)の時、御位に即かせ給へり。

陛下には、 先帝陛下の大御心を御心とし給ひ、 玉体を労し、 叡慮を悩まし給ひ、黎庶に先だちて辛苦を甘んじ、常に苦楽を共にせさせ給ひしかば、国家の鴻基益々固く、君民の紐帯益々強く結ばるゝに至れり。特に災害の度毎に罹災者に寄り添ひ給ひ、また大戦に於ける戦歿者の慰霊の為に国内のみならず世界各地の戦跡を行幸あらせらるゝに及びては、我等国民一同 畏き大御心に感涙せざる者なし。

我等が万世一系の有難き大御国に生れて安楽に暮らし得るは、これ皆偏へに 陛下の御仁恵によるなり。されば天長節に当りて、我等は謹んで 聖寿の万歳を祝し、恭しく宝祚の隆盛を祈り奉らでやはあるべき。



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