1 漢字をやめようという運動
前の章では、――人類の歴史は一本道である。この道の上を各国各種族があゆんでいる。さきをあゆんでいるのは「進んでいる」のであり、うしろのほうでマゴマゴしているのは「おくれている」のである――という、そういうものの見かたを日本人は西洋人から教わったというお話をしました。日本人が西洋人から教わったことのうち、これが根本である。
〔引用者註〕進化論に基づく所謂「進歩史観」である。後にマルクスの思想が入つて来た時に、我が国のエリートの多くがそれに染まつてしまつたのは、それをすんなり受容してしまふ素地が初めから用意されてゐたことが判るのである。そこで話は明治のはじめだ。日本は西洋よりはるかにおくれている。なにもかもがおくれている。急速に進まねばならぬ。その方法はかんたんである。なにもかも西洋人のやっているとおりにやればよいのである。――というわけで、政治、経済、産業、交通はもとより、学問も芸術も教育も、あらゆる事物を西洋に学びはじめたのである。
そのあらゆる事物にふかくかかわる最重要の事物は、ことば、すなわち言語である。いかなる法律も制度も学問も技術も、われわれは言語を媒介にして学ぶのであるから。
しかるに、日本の言語と西洋の言語とは大いにことなる。大いにことなるというのは、日本の言語が大いにおくれているということである(当時の日本人は当然のごとくそう思った)。追いつかねばならない。日本の言語を西洋の言語のようなものにしなければならない。
〔引用者註〕著者の言ふ「当時の日本人は…」とはエリートの人々のことであつて、市井の日本人がそんな事を考へる筈はないのである。また国字改良論は実は江戸時代の半ば頃からあつたといふ。
《ところが徳川時代中期、西洋語の学習とアルファベットの輸入とに刺激された新井白石、本多利明をはじめとする諸学者は、西洋の文字は数が少ないことを見た。それに驚き、日本語での漢字の数の多いことを批判的に論ずるようになって来た。徳川末期に学問を志す者が学んだのは主にオランダ語である。そのオランダ語を彼らは漢語に翻訳した。現代に至るまで生き続けている和製漢語の中には、当時のオランダ語学習の結果作り出されたものも少なくない。かように、蘭学者はオランダ語の日本訳にあたって大いに漢字を利用した。しかし一方では漢字の排斥を唱えたのである。》
《また、借用した文字である漢字に国語が隷属しているように見えることを不満とし、漢字漢語に対して批判的な立場をとった人もあった。司馬江漢などは、漢字を乱用すべきでないと説いたという。》(丸谷才一編著『国語改革を批判する』、大野晋「国語改革の歴史(戦前)」、中公文庫、平成11年)言語は、日本が西洋からまなばねばならぬ事物の一つであるとともにあらゆる事物を学びとるための手段でもあるから、その改良、あるいは変革が課題として提起されたのも早い。すでに明治維新よりも前に、幕臣前島密が将軍に漢字廃止を建言している。
〔引用者註〕《幕府開成所の反訳筆記方だった前島密は、慶応二年十二月、開成所の頭取を介して将軍徳川慶喜に「漢字御廃止之議」を奉った。これが公的な漢字批判の最初である。》
《前島は、かつて中国に滞在したことのある米人宣教師ウィリアムズ(Channing Moore Williams)の説に示唆を受け、句法語格の整然たる日本語があり、簡易便利な仮名文字があるにも拘らず、繁雑不便難解な漢字によって教育を行うのは漢字の害毒に染まって気づかないものだと主張した。そして、教育を広めるために文字を易しくし、文字の記憶のために精力を浪費せずに、事柄を理解・推理・判断する力を養うべきであると提言した。漢字を使っているから日本は進歩しない。欧米諸国の今日の繁栄は自国の文章と平易な表音文字によって修めた学問による。前島の漢字廃止論はこうした、事の一面しか見ない思想に支えられていた。》(丸谷才一編著『国語改革を批判する』、大野晋「国語改革の歴史(戦前)」、中公文庫、平成11年)明治になってからは、特にその最初の二十年、言語改革論がさかんにとなえられた。
その主張はさまざまだが、大きくわければ二つのグループにわけられる。一つは日本語を捨てようという主張であり、いま一つは、日本語は捨てないが漢字を捨てようという主張である。
まず一つめの主張についてのべよう。
これは、おくれた言語である日本語を全面的に捨て去り、英語を日本の国語にしよう、という主張である。
英語採用論を主張した人は数多いが、その最も著名なのは、文部大臣であった森有礼である。
〔引用者註〕初代文部大臣からして、こんな有様だつたのである。近年は頓に文部科学省の異常が目につくが、最初の出発からしてかうだつたのである。森の考えは、アメリカで刊行した英文著書『日本の教育』(Education in Japan, 1873)、特にそのなかの、米国の学者ホイットニーにあてた手紙に見えている。そこで森は、「わが国の最も教育ある人々および最も深く思索する人々は、音標文字phonetic alphabetに対するあこがれを持ち、ヨーロッパ語のどれかを将来の日本語として採用するのでなければ世界の先進国と足並をそろえて進んでゆくことは不可能だと考えている」とのべている。もって当時の日本の知識界の雰囲気を知るに足る。これに対してホイットニーは、言語はその種族の魂と直接に結びついたものであるから、そう安易に放棄するなどと言ってはならない、と森に忠告した。
〔引用者註〕ホイットニーが森に宛てた手紙の抜粋《一國の文化の發達は、必ずその國語に依らねばなりませぬ。さもないと、長年の敎育を受けられない多數の者は、たゞ外國語を學ぶために年月を費やして、大切な知識を得るまでに進むことが出來ませぬ。さうなると、その國には少數の學者社會と多數の無學者社會とが出來て、相互ににらみあひになつて交際がふさがり、同情が缺けるやうになるから、その國の開化を進めることが望まれなくなります》(荻野貞樹『旧かなづかひで書く日本語』、幻冬舎新書、平成19年)森はまた、言語だけでなく人種も変えるべきであるととなえ、日本の優秀な青年たちはアメリカへ行って、アメリカ女性と結婚してつれ帰り、体質・頭脳ともに優秀な後代を生ませよ、とすすめた。
いまそういう話をすると、森という人は頭が変になっていたのではないか、と言う人がある。しかし森は正気であり、のみならず有能で誠実な政治家であった。森は若いころからヨーロッパに留学し、西洋をよく知っていた人である。日本人は西洋人のようにならねばならぬ、と本気で考えれば、体質改良、言語変革を考えるのはむしろ当然であったろう。日本語を日本語のままで英語やフランス語のような言語に改良するのはとても無理だ、と考えるほうが自然である。日本人同士結婚して生れた子を西洋人なみの体格に育てろ、というのが無理であるように。
〔引用者註〕ナチスの優生学を彷彿させるのである。ナチスの場合は自分達アーリア人の血こそ最も優れたものだと考へたのに対し、森有礼の場合はさういふアーリア人の優れた血を分けてもらひ日本人を西洋人の仲間にしてもらはうといふ、今から考へれば気持ちのよい位に自虐的な人種差別主義であつた訳である。なお森有礼にせよ、すこしあとの高田早苗(早稲田大卓総長、文部大臣などを歴任)などにせよ、英語を日本の国語にすることをとなえた人たちはみな、日常の会話はともかくも、すこし筋道立ったことを話す際、特に文章を書く際には、日本語よりも英語のほうが容易であった人たちである。明治の前半ごろに教育を受けた人たちは、日本語の文章を書く訓練を受けたことはなく、もっぱら西洋人の教師から西洋語の文章を書く訓練をきびしく受けたのであるから、日本語の文章は書けないが、英語やフランス語なら自由に書ける、というのはごくふつうのことであった。その点、昭和の敗戦後に、フランス語を国語にするのがよいと言った志賀直哉などとは選を異にする。なおまた、言うまでもないことだが、明治前半ごろまでの日本語の文章というのは、それを書くのに特別の訓練を要するものであった。こんにちの日本人が書くような、だらだらした口語体の文章というのはまだなかった。文章は、話しことばとは別のものであった。
〔引用者註〕凡そ外国語を真面目に勉強した人といふのは、外国語の方が国語よりも優れてゐると勘違ひしがちなのである。しかし抑も外国語の様々な言ひ回しや、微妙なニュアンスの違ひ等を理解できるのは、実は国語(日本語)がその外国語と同等かそれ以上のものを持つてゐるからなのである。引用者の中学時代の英語の先生が「英語能力は、国語能力以上のレベルに達することはできないのだよ」と仰つた言葉は、今でも忘れられないのである。我が国では幼稚園から大学院まで、全ての授業カリキュラムが国語で行はれてゐる。また世界中の著名な書籍が殆ど全て国語に翻訳されて出版されてゐる。これほどの国は世界中どこにもないのである。これは我が国の国語が、どんな言語で表現された概念をも正確に言ひ表すことができる証拠である。即ち我が国の国語は世界最高レベルの言語といふことが出来るのである。勿論これらは、明治期の近代化によつて国語の語彙が大幅に増えた結果なのであらうが、しかし明治初期のエリートたちが、我が国が西洋よりも立ち後れてゐるのは国語が西洋語よりも劣つてゐるからだと誤解してしまつたことが、その後の無意味で有害な国語改良論の大きな原因となつたのである。
(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)
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