2019年1月27日日曜日

〔字統〕から〔字訓〕へ ②国語学管見

国語学管見


私ははじめ、わが国の古代文学を学ぶつもりであった。私の故郷福井には橘曙覧(たちばなあけみ)のような万葉歌人が出ており、その話をしてくれる万葉調の歌を作る老人もあった。それで故郷を出て、はたらきながら独学をするつもりで、いくらか用意ができると専門の雑誌をとりはじめた。〔国語と国文学〕〔国語国文の研究〕〔国漢研究〕などであった。〔国語国文の研究〕は創刊号からよんだが、小倉進平と土田杏村両氏との間に、新羅の郷歌をめぐるながい論争がつづいて、雑誌はやがて廃刊となった。当時の私の理解をこえる内容のものであったが、古代仮名の問題にいくらかの知見を加えたかも知れない。〔国漢研究〕は名古屋の岡田稔氏らの研究誌で、片々たる小冊であったが、附録として稀覯書の翻刻がそえられることがあり、鈴木(あきら)の〔雅語音声考〕〔言語四種論〕などもそれでよんだ。

当時はいわゆる円本時代で、改造社の〔日本文学全集〕にはじまり、有朋堂から〔有朋堂文庫〕が出ており、また早く〔岩波文庫〕も発刊されていて、テキストにはこと欠かぬほどであった。そのうち岩波から講座〔日本文学〕二十函(昭和六年)、新潮社から〔日本文学講座〕十五巻(昭和七年)が出て、独学のものにはこの上ない恩恵であった。〔日本文学〕では春日政治の「仮名発達史序説」と、ただ目録を列しただけの吉沢義則の「点本書目」が、なぜか深く印象に残った。当時点本の翻読はまだ殆どなかった時代であった。

私が岡田希雄先生の国語学史の講義を受けたのは、昭和九年のことであったかと思う。作家の水上勉氏がその回想録のなかでしばしばふれられている、京都御所の清和門前にあった立命館大学の、専門部の古い校舎であった。四角いセメント箱を伏せて、それに窓をあけたような何の飾りもない教室で、私はときどき先生の講義を聞いた。ときどきというのは、私は他に仕事があり、また当時文部省教員検定試験を受けるため、あまり登校していなかったからである。先生はその頃から病弱で、腰かけのまま講義をされ、時おり咳をされていた。学生は資格をとるためのものが多く、格別熱心な受講者がいるわけでもなかったが、先生は毎回必ず数枚の自筆のプリント資料を用意して、自説を述べられた。そのプリントは、概ね山田孝雄など、他の研究者の説を駁するためのものであった。先生は時には、そのプリントをふりかざすようにして示しながら、熱心に講義された。

〔類聚名義抄〕は先生の最も得意とされるところで、大正十一年に〔芸文〕に発表されて以来多くの論文があり、のち単行本となった。私が講義を受けたころには、先生の主題は〔和玉篇〕にあったらしく、創刊後まもない〔立命館文学〕には、その系統論に関する八篇ほどの論文が連載された。あくまでも資料に即して、精密を極めたその研究は、忍耐強さのゆえに人をおそれさせるほどのものであった。何の名利をも求めがたいであろうこの学問に、これほどの情熱を傾けさせるものは何かという、そのような思いがあった。これが私の国語学との最初の出会いであった。

私が中国に職をえて、中国の古典をよみ、金文をよみ、甲骨文に手をそめたころ、高畑彦次郎氏の〔周秦漢三代の古紐(こちゆう)研究〕三冊(昭和十二年)が油印で出された。カールグレンの試みた復原音によって、切韻音と古音とを併記する古紐別の字書と、音韻法則の研究篇二冊は、私がかつて筆写したことのある大矢透の〔周代古音考〕などとかなり異質のもので、改めて推古期遺文や古代の仮名表記資料に対する関心を加えた。そののち中国の古典や文字資料をよみつづけながらも、わが国古代の漢字受容の状況について、注意を怠ることはなかった。

橋本進吉博士の〔古代国語の音韻に就いて〕が出されたのは、昭和十七年のことであった。この百数十ページにすぎない片々たる小冊ほど、国語学史の上で大きな衝撃を与えたものはなかろうと思う。いわゆる特殊仮名の問題は、語構造の法則、語源の研究、文献の本文批判的研究などの諸領域にわたって、古代の国語研究の上に決定的な影響を与えた。私も早速その甲乙の仮名表に、韻鏡音や等位、また高畑氏の古紐研究によって古音・切韻音などを加え、両者の音型の相違などを確かめようとした。またその語彙資料として、当時すでに総索引があった〔万葉〕を除いて、〔記〕〔紀〕や〔法王帝説〕、その他の仮名表記資料の一字索引を作り、その本文批判的な適用の試みとして、〔紀〕における仮名の偏倚現象をしらべ、若干の覚え書きを用意したりした。その頃菊沢季生氏がすでにその問題に関心を示しており、また特殊仮名については、さきに〔音韻論〕によってヨーロッパの音韻法則の研究を進めていた有坂秀世が、特殊仮名の問題にも精緻な研究を展開していた。

まもなく、あのおろかしい戦争のるつぼの中に、すべてが消えていった。アジア的、あるいは東洋的という名で考えられていた文化概念、価値概念は、全く虚しいものとなった。すべてが失われたなかに、救いともいうべきものが、ただ一つだけ残されていた。それは漢字を通じての、一縷のつながりであった。しかしその文字も、体制の相違をこえて両者を結びつけるほどの紐帯とは、もはやなりえないであろう。

このような状況のなかで、国語の国際的孤立をおそれる声がある。そして性悪説の根元は、もとより漢字にある。将来の国語のありかたを決するには、おそらく二者択一のほかにないであろう。すなわち漢字を棄てて国語の国際性を志向するか、それとも漢字の生態を徹底的に究めて、十分な説得力を与え、何ぴとにも理解しやすい情報の手段とするか、その何れかである。もし漢字を放棄するとならば、千数百年に及ぶわが国の比類のない文化遺産は、これを維持することが困難となるであろう。またそれによってかりに表記の問題を回避しうるとしても、意味的な表記法を失った国語本体の問題は、一そう深刻なものとなるであろう。

かなで書かれた〔源氏物語〕がそれでわかるかといえば、そうではない。〔湖月抄〕などが試みているように、かなの傍に「漢字ルビ」をそえることによって、ようやくその理解が助けられるのである。それは硬質の文章に「かなルビ」が必要であるのと同じである。

国語の統一性、純一性ということでは、わが国では話しことばと書きことばという系列の異なる二様式の存在することが、やはり第一の問題であろう。この問題が解決されない限り、漢字を廃することはできない。また漢字を国字として用いる限り、字義と字訓という問題を避けることはできない。ここに国語の最も基本的な問題がある。私の〔字統〕と〔字訓〕とは、そのことを考える上に、いくらか寄与するものでありたいと思う。

(白川静『文字遊心』、平凡社ライブラリー、平成8年)

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