当用漢字
一年後の昭和二十一年十一月五日に「当用漢字表」千八百五十字を答申、同月十六日に内閣訓令および告示公布――内閣訓令第七号「当用漢字表の実施に関する件」、内閣告示第三十二号「当用漢字表」。いずれも内閣総理大臣吉田茂の名で出されている。訓令には「従来、わが国で用いられる漢字は、その数がはなはだ多く、その用いかたも複雑であるために、教育上また社会生活上、多くの不便があった。これを制限することは、国民の生活能率をあげ、文化水準を高める上に、資するところが少くない」と趣旨をのべてある。「制限」の語を用いていることに注意。同日これとあわせて、内閣訓令第八号「「現代かなづかい」の実施に関する件」および内閣告示第三十三号「現代かなづかい」も公布された。
従来ならば、答申が公表され社会一般の討議に付される(その結果として実施にいたらずつぶされる)のが例であったのだが、このたびは答申から内閣告示公布までわずか十一日、電光石火の早業であった。官庁の文書と学校教育はこれによらねばならぬこととなった。新聞はただちにこれにしたがった。政府機関と学校と新聞、この三つを制圧して、明治初め以来の大問題はあっけなく勝負がついてしまった。
この時の国語審議会委員は七十人いた。なかで主導的な役割をはたした人物が二人いる。一人は明治の国語調査委員会以来の最古参保科孝一である(明治五年うまれだからこの年七十五歳)。もう一人がカナモジカイ理事長松坂忠則(マツサカ・タダノリ)であった。明治三十五年秋田県のうまれ。高等小学校中退で少年のころよめない漢字が多く、漢字に対してふかいうらみをいだき、漢字撲滅のためカナモジ運動に投じた。声が大きく、押しがつよく、国語審議会でこの人が強く主張すると、たいていのことはそのとおりにきまった。
〔引用者註〕「活動家」によくあるタイプの、単なる私怨がその動機だつたのである。
使用を許容する漢字の数は千八百五十字ときまった。どの字をこのわくに入れるかがなかなかの問題であった(一、二、人、手、山、川など最常用の字はだれがえらんでもはいるにきまっているが、最後の百字くらいがいつでも問題になる)。漢字の制限というのは、英語で言えば、使用してよい単語の数を三千か四千程度政府が法令でさだめ、それ以外の単語は使用を禁ずる、というようなものである。日本では文字がことばなのであるから、文字が使えなければことばが使えないのである。
委員の一人であった山本有三が、いったんはずされかかっていた「魅」の字を復活させたというエピソードはよく知られる。「み力」では意味がわからないから、「魅」の字がなくなれば事実上「魅力」ということばがなくなるわけである。それを山本は、「魅力ということばがなくなったら日本語の魅力がなくなるからね」というような半分冗談みたいな言いかたでうまく制限わくに入れもどしたらしい(その分ほかの字が何か一つ追い出されたわけだが)。
〔引用者註〕かういふ全体から見たらどうでもいい事に、やたら熱心になり、その成果を殊更にひけらかすのもエリートの特徴なのである。
この作業を、松坂忠則はいつも嘲笑していた。どの字を入れようと、近い将来さらにそれをへらし、いずれは全廃にもってゆくのである。どの字がはいろうとはみ出そうと大差はない、早くやれ、と松坂は言った。ただ、千八百五十字より一字でも二字でもふやしたいと言う者があると、彼は「愚かもの」とどなりつけ、絶対に許さなかった。「わたしはほえたてた」と彼は書いている。
〔引用者註〕自分と違ふ意見を絶対に認めない独裁者タイプの人だつた訳である。
(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)
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