中国の音標化
中国も、日本よりややおくれて、音標文字化を国の方針とした。一九一二年に成立した中華民国も一九四九年に成立した中華人民共和国も音標文字化をめざした点ではおなじだが、採用した文字がちがう。
中華民国は、「注音字母」という日本のカタカナのような文字を新たに作った(声母がㄅ、ㄆ、ㄇ、ㄈなど二十一、韻母がㄚ、ㄛ、ㄜ、ㄝなど十五、合計三十六字、声調は別につける。縦にも横にも書ける。たとえば「革命」を横書きするとㄍㄜˊ ㄇㄧㄥˋ)。
中華人民共和国は
注音字母はきわめて合理的にできている。ただ、見なれぬ字をおぼえないといけないのでやっかいである。拼音羅馬字は、アルファベットを知っている者には新たな字をおぼえる必要がなく、したしみやすい。そのかわりあまり合理的にはできていない。
ここで、中華人民共和国の「簡体字」について説明せよと注文がついた。日本も中国もそうだが、国家の方針として音標文字化(つまり漢字廃止)をきめた。しかし一挙にやるのではなく「渡りの期間」をおくことにした。日本のばあい、漢字の数をへらし、字体を簡略化して当分の間使用をみとめることとしたのはごぞんじのとおり。中国のばあい、中華民国は、音標文字化をかかげ注音字母の普及にのり出したが漢字に手をつけぬうちに大陸でほろんだ。台湾に移ってからは共産党との対抗上むしろ漢字保存の傾向が強くなった。中華人民共和国は漢字を簡略化して当分の間使用をみとめ、その間にローマ字を普及して遠からぬ将来完全に廃止することとした。その後、日本も中国も、音標文字化の方針を正式にとりけしたわけではないのだが、事実上漢字廃止にすすまず、廃止までの「渡りの期間」用だったはずの簡略字体があたかも正式字体になったような中途半端な状態のまま停止している。中華人民共和国の簡体字は、几(幾)、个(個)、广(廣)、义(義)、干(乾、幹)、丰(豐)、开(開)、无(無)、书(書)、币(幣)、习(習)、乡(鄕)、认(認)、云(雲)、儿(兒)のごときものである。日本人はしばしばこれらの字を見て「けったいな字」と笑うが、日本略字も似たようなもので、目クソ鼻クソを笑うのたぐいである。藝を芸とし、缺を欠とし、假を仮としたのなどは中国簡体字よりわるい。
〔引用者註〕実は、中華人民共和国では現行の「簡体字」よりも更に簡略化を進めた簡体字のバージョン2を1977年に公布したことがある。しかし餘りにも簡略化しすぎて、誰も読むことができずに撤回された。あんな独裁国家でも、多くの人の反対によつて、政府が一度出したものを撤回するやうなことがあり得るほど、文字といふものは大事なものなのである。ほんとうは、さきにも言ったように、漢語には漢字が一番あっているのである。当然のことだ。漢字は漢語を表記するためにうまれたものなのだから――。しかし中国人は「人類の文字は象形文字から音標文字へと進む。それが文字の進歩である」と思った(いまもそう思っているらしい)。なぜそう思ったのかというと、西洋で音標文字を使っているからである。
本家本元すら漢字を捨てようというのだから、日本人が捨てようとしたのはふしぎでない。もともと日本人にとって漢字は借りものであり、日本語とあわなくて苦労しているのである。実際、「かつてわれわれは支那に学んだ。このたび支那よりも西洋のほうが優秀であることがわかった。ゆえに西洋に乗りかえるのに何の不都合があろう」というのが、英語採用論たると音標文字論たるとを問わず、論者たちの一致した見解であった。
〔引用者註〕かつて江戸時代に、賀茂真淵や本居宣長等の国学者があれほど「明治二年に出た福沢諭吉の『漢意 」(外国崇拝)を戒めたにも拘らず、いざ近代に乗り出すに際してこの有様なのである。本当に我が国のエリートと呼ばれる人達にはつける薬がないのである。仮に漢字を借り物と呼ぶならば、新たに乗り換へる西洋も同じ理屈で借り物に過ぎないではないか。
……歴史の大道を進むどころかずるずる後退している。現在では日本よりも後方に位置している、という見かたである。ずいぶんバカにしているようだが、中国の進歩的な知識人(たとえば魯迅のような)の見かたもこれとおなじであった。抑 も支那 の物語、往古 陶虞 の時代より、年を經ること四千歲 、仁義五常を重 じて、人情厚き風 なりと、其名 も高く聞えしが、文明開化後 ずさり、風俗次第に衰へて、德を修めず知を硏 かず、……(以下阿片戦争に大敗したことをのべて)……猶 も懲 ざる無智の民、理もなき事に兵端 を、妄 に開く弱兵は、負 て戰ひ又負 て、今の姿に成 り行 きし、其有樣ぞ憐 れなり。
〔引用者註〕《中国の近代文学の元祖ともいわれ、国民精神の改造を課題とした作家、魯迅(一八八一~一九三六)は、「漢字が滅びなければ、中国は必ず亡びる」と断言して、次のように述べている。
この四角い字〔漢字〕の弊害を伴った遺産のお蔭で、我々の最大多数の人々は、すでに幾千年も文盲として殉難し、中国もこんなザマとなって、ほかの国ではすでに人口雨さえ作っているという時代に、我々はまだ雨乞いのため蛇を拝んだり、神迎えをしたりしている。もし我々がまだ生きて行くつもりならば、私は、漢字に我々の犠牲となって貰う外はないと思う。(「漢字とラテン化」松枝茂夫訳による)》(大島正二『漢字と中国人 ―文化史をよみとく―』、岩波新書、平成15年)したがって、文字についても、軽快で能率的な音標文字アルファベット、対して、おくれた鈍重な象形文字漢字、というのが当時の見かただった。魯迅が「漢字がほろびなければ中国がほろびる」と言ったように、漢字は進歩の足かせと見られた。
ゆえに当然、中国も日本も漢字を捨てようとしたのであった。
〔引用者註〕支那では当時、魯迅の言つた如く確かに人口の大部分が文盲であつた。それは今から考へると、単に教育が行き渡つてゐないが故の識字率の低さだつたに過ぎないのであるが、実際に数が膨大で憶えるのが大変な漢字こそが文盲が多い原因であると誤解してしまつたのも致し方ないことなのであつた。然るに日本の場合はこれとは事情が異つたのである。
《日本では一七〇〇年代に、すでに寺子屋なる教育設備があった。少年少女の二五パーセントがそこで読みと書きと初歩の計算とを学習していた。》(丸谷才一編著『国語改革を批判する』、大野晋「国語改革の歴史(戦前)」、中公文庫、平成11年)
当時の識者が「アルファベットを使つてゐるからこそ進んでゐるのだ」と考へたその西洋列強諸国の国民は、その何パーセントが文字を読めたのだらうか?若し当時の日本人がこの事に気づいてゐれば、近代化の後れを漢字に帰するやうなバカな議論は起らなかつたのではなからうか。
当時の人たちは、日本人にせよ中国人にせよ、言語というものを甘く見ていた。各々の言語というのは、日本語で「そら」と言うものを英語ではskyと言う、「ねこ」と言うものをcatと言う、あるくのをwalkと言い、わらうのをlaughと言う、という単なるおきかえと思っていた。
実は言語というのは、その言語を話す種族の、世界の切りとりかたの体系である。だから話すことばによって世界のありようがことなる。言語は思想そのものなのだ。たとえば、brother, sisterにあたることばは日本語にはない。――そう言うとみなさん、「兄弟」「姉妹」ということばがあるじゃないか、と言うかもしれない。でもね、英米人はたとえばI have two sisters.というふうに言うけれど、日本人が「わたし姉妹が二人あります」と言うことは決してないでしょう?「姉が二人あります」とか「姉が一人、妹が一人あります」とか言う。つまり、brotherとかsisterとかいうのは、自分のきょうだいについて、男女の別ははっきり区別するけれども、自分より上か下かは区別せず、ひっくるめてとらえるとらえかただ。対して日本語は、「上か下か」をわけてとらえる。そういうとらえかたしかない。ところが英語には、日本語の「にいさん」「ねえさん」「兄」「姉」「弟」「妹」にあたる単語はない(辞書にはelder brotherとかyounger sisterとかの語が出ているけれども、それは複合語であるし、実際に英米人がI have an elder brother and two younger brothers.なんて言いはしない)。つまり、日本語と英語では「世界のとらえかた」がちがうわけなのだ。
ところが当時の人たちには、言語がそういう、それぞれの種族のものの考えかた、世界のとらえかたにかかわる重いものだということがわからなかった。それを知るための条件がなかった。世界の種々の言語をよく知ればおのずとわかってくるのだが、自分たちの言語だけしか知らず、そこへ急に規模雄大できらびやかな西洋文明を見て、目がくらんだ。だからかんたんに、言語改革、というようなことを言い出すことができたのである。
(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)
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