2019年1月17日木曜日

国語改革四十年――3 当用漢字の字体①

3 当用漢字の字体


こんにち一般におこなわれている漢字の印刷字体、すなわち教科書、新聞、雑誌、一般書籍などでもちいられている字体は、戦後文部省と国語審議会がさだめ、昭和二十四年に内閣が告示・訓令をもって公布した「当用漢字字体表」によっている。もっとも、内閣の告示・訓令が出たとたんに日本中の活字字体が一ぺんに全部かわったわけではない(それは技術的に無理である)から、もしみなさんが、昭和三十年代前半ごろまでに出た本や雑誌を見るならば、みなさんが知っている字体とかなりちがいがあることに容易に気づかれるはずである。

いま例として、右の一段に出てきた文字のうちのいくつかについて、戦後字体とそれまでおこなわれていた正字体とをならべてみるなら左のごとくである(上が戦後新字体、下が正字)。

漢漢、体體、教敎、雑雜、戦戰、国國、会會、当當、来來、気氣……。

右のごとく、一目見てすぐわかるほどちがうのもあれば、よく見ないとわからぬのもある。よく見ないとわからない例をもうすこしあげれば、左のようなのがある。

都都、涙淚(点が一つ減少)、徳德、徴徵(棒が一本減少)、急急、掃(棒がみじかくなった)、習、消 (画のむきをかえた)、毎每、憎憎(点二つを棒一本にかえた)等々。

これら戦後の新しい字体は何にもとづいてこうさだめたのであるかというと、筆写体にもとづいたのである。つまりそれまでの、ということは戦前の日本人が、日記、手紙、証文、その他種々の文書にしるす手書き文字で一般にもちいていた字体にもとづいている。

とは言っても、手書きの字は各人各様である。統一字体があるはずがない。むかしはことにそうであった。またそれをまんべんなく調査することは不可能である。たとえば戦前の日本では毎日数百万通の手紙が家族や知人にあてて書かれ郵送されていたが、それらは通常受取人一人によってよまれるだけであり、そこでもちいられている文字を点検することは政府といえども不可能である。筆写体にもとづいて印刷字体をつくったといっても、結局のところ、実際に参照され得たのは、新字体を考案した人たち自身、もしくはその周辺でおこなわれていた字体のみであろう。

もっとも、一般的な傾向はたしかにあった。

一つは、よくもちいられるが筆画の多い文字についてはたいていの人が略字を書いていた、そしてその略字はかなりの範囲で同一、あるいは類似だったということである。たとえば「體」を「体」と書くことはひろくおこなわれ昭和十年代には学校の教科書にも一部採用されていた。その他「醫」を「医」と書き、「聲」を「声」と書き、「變」を「変」と書くなども一般的であった。

また一つは、これは見やすいことをむねとする印刷字体と書きやすいことをむねとする筆写字との性格の相違に由来するのだが、印刷字体が概して直線で構成され、したがってまがる所は角ばって直角にまがり、点や線がはなれ、線の方向が外をむいているのに対して、手書き文字はまるみをおびた線で書かれ、点や線がつながって筆先が紙を離れないように書かれ、線の方向が内をむく(つぎの筆画にむかう方向にむく)。これらはすべて筆写の際の、筆先の経済、あるいは筆先の生理のゆえである。いちいち筆先を紙から持ちあげるより、つづけて先を書いたほうが早いから自然にそうなるのである。言うまでもなく活字にはそういう生理的要求はない。このことはアルファベットの印刷字体と筆写字体とをくらべてみればだれにもわかることである。 aとa、bとb、dとd、fとf、kとkなど。漢字のばあいは印刷字体が直線を基本とするのでこの相違がいっそう顕著である。できれば実物をお目にかけたい。もしわたしが教室で授業をしているのなら、黒板に筆写体の字を書いて見せるのはいともたやすいことなのだが、残念ながらここではそれができない。人の手紙か何か、手書きのものをごらんください。全体に線が曲線的で、直角にまがるところがまるくまがっているでしょう?駐でも駅でも鶏でも鳩でも、四つ点(⺣)のところが印刷字体でははっきり離れているが、手書き字ではたいていつながって波線状になっているか、あるいはただの横棒になっているでしょう?そういうふうに、点と点が、あるいは点と線が、あるいは線と線が、筆写字ではつながる傾向がある。

筆画の外むきと内むきは、戦後略字以前から、印刷字体と筆写字(楷書であっても)との最もはっきりした相違である。曾、僧、 、益、閱などの「八」は、筆写字では、尊、益、閲などと「丷」を書く。、などの「𡭔」は、筆写字では「⺌」を書く。爪(ツメ)をふくむ字、、稻、爲、爭などは「⺤」を書く。要するに、印刷字体と筆写字体とは性格がちがうのである。

(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)

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