2019年1月12日土曜日

国語改革四十年――2 国語改革とは何だったのか①

2 国語改革とは何だったのか


昭和二十年の敗戦は、文部省と国語審議会とに、文字通り千載一遇の機会を提供した。

敗戦後の日本の一般的精神情況は、明治初年のそれにはなはだよく似ていた。あるいは、もっと徹底的であった。明治初年の日本人は、これまでの日本は無価値である、と考えたのだが、昭和の敗戦後の日本人は、これまでの日本はいっさいが邪悪でありまちがっていた、と思った。
〔引用者註〕何度も繰り返すが、著者の言ふ「日本人」「日本」とは当時の「エリート」のことであり、庶民とは何の関係もないのである。
ふたたび「新日本」ということばがしきりにとなえられた。「日本はすっかり白紙から出なおすのだ」という論調が全国をおおった。
〔引用者註〕「論調が全国をおおった」のではなくて、マスコミが一斉にさういふ論調を書き散らかしたので、一見さう見えるといふに過ぎないのである。
戦争にやぶれたのは、軍事力、経済力の敗北であったのみでなく、文化の敗北なのだ、と識者たちは言った。さらにせんじつめれば言語と文字がおとっていたというのである。

敗戦の三か月後、昭和二十年十一月十二日の読売新聞(当時の紙名は「讀賣報知」)社説が「漢字を廢止せよ」と題して左のごとく論じたのは当時の気分を代表するものである。
漢字を廢止するとき、われわれの腦中に存する封建意識の掃蕩が促進され、あのてきぱきしたアメリカ式能率にはじめて追隨しうるのである。文化國家の建設も民主政治の確立も漢字の廢止と簡單な音標文字(ローマ字)の採用に基く國民知的水準の昂揚によつて促進されねばならぬ。
当時の読売新聞が極端な進歩主義の立場をとっていたことは『読売新聞百年史』に「左傾紙面」と題してくわしく記述してある。いま読売新聞の題号が横書きであるのはその時のなごりである。「横書き題字は独創的だったが、これは、当時、日本語のローマ字化論まででていたころで、多分にこうした風潮に影響されたものだった。題号にとどまらず本文まで横組みにしてみよう、との案もあったが、これは実現しなかった。横書き題字は、GHQも推奨し、いわば日本語改革の一端を示す意味があった」とある。
〔引用者註〕「多分にこうした風潮に影響されたものだった」。言ひ訳と責任転嫁、そしてマッチポンプは新聞社の得意技なのである。では同時期にあの有名な工作機関はどう書いてゐたのだらうか?
《……我々は、あくまで良き国語の設定とその普及とを切望する。……日常用語における漢字漢語の制限、仮名交り口語文の馴致その他、技術的、専門的には研究を重ねた上で選定せられるべきことも要請せられるであらう。口に称へて滑らかに、耳に聞いて快く、その上、読み書きするに不便不自由のないやうな新時代にふさはしい新国語の普及がこの際、特に望ましい。偏狭固陋な国語万能論の正反対な動機からこのことを提唱したいのである。》(朝日新聞、昭和20年10月4日社説「良き国語の普及を計れ」)(安田敏朗『国語審議会 迷走の60年』、講談社現代新書、平成19年)
日附を見れば朝日の方が先なのである。讀賣のと較べると一見抑制的で良識がありさうに見えるのである。讀賣の社説が出された後の11月16日の「天声人語」では
《気の早い人々の中には平和日本、世界的日本の建設のため一足飛びに、ローマ字の普及を計るべしと主張するものもないとは限るまい▼然しせいては事を仕損じるのであつて》(安田敏朗『国語審議会 迷走の60年』、講談社現代新書、平成19年)
などと逆に讀賣を戒めてゐたさうだ。さすが経験豊富な工作員なのである。「急激な変革は却て強い反撥を惹起するから、気づかれないやうに徐々にやるべきだ」(サラミスライス論)といふ訳である。
昭和二十一年四月、志賀直哉が『改造』に「國語問題」を発表してフランス語を国語にしてはどうかと提唱したことはよく知られる。志賀は、日本の国語ほど不完全で不便なものはない、これを解決せねば日本はほんとうの文化国にはなれない、とのべてこう書いている。
私は六十年前、森有禮が英語を國語に採用しようとした事を此戰爭中、度々想起した。若しそれが實現してゐたら、どうであつたらうと考へた。日本の文化が今よりも遙かに進んでゐたであらう事は想像出來る。そして、恐らく今度のやうな戰爭は起つてゐなかつたらうと思つた。吾々の學業も、もつと樂に進んでゐたらうし、學校生活も樂しいものに憶ひ返す事が出來たらうと、そんな事まで思つた。
そこで私は此際、日本は思ひ切つて世界中で一番いい言語、一番美しい言語をとつて、その儘、國語に採用してはどうかと考へてゐる。それにはフランス語が最もいいのではないかと思ふ。六十年前に森有禮が考へた事を今こそ實現してはどんなものであらう。不徹底な改革よりもこれは間違ひのない事である。森有禮の時代には實現は困難であつたらうが、今ならば、實現出來ない事ではない。
意見としてはばかばかしい、あるいはたわいないものだが、これも当時の日本の一般的な気分を知るにはよい材料である。
〔引用者註〕何度でも繰り返すが、「当時の日本の一般的な気分」ではなくて、気の動顚した一小説家の妄言に過ぎないのである。
昭和二十一年三月にアメリカから教育使節団が来て日本政府に、漢字を廃止してローマ字を採用せよ、と勧告した。もっとも使節団は最初からそういう勧告をたずさえて来日したのではなく、彼らに接触した文部省の国語官僚や新聞の代表が使節団にうったえてそういう勧告を出してもらったのであるらしい。
〔引用者註〕《GHQは、日本の教育に関する問題について日本の教育者に助言および協議するためにアメリカの教育者グループを派遣するよう、米国陸軍省に要請した。この要請にしたがってアメリカ教育使節団二十七名が一九四六年三月いっぱい日本に派遣され、『アメリカ教育使節団報告書』を同年に刊行した。/この報告書にしたがい、日本政府内に教育刷新委員会が設置され、文部省およびGHQとともに、報告書の勧告の方向のうえに、戦後教育改革がおこなわれた。そのなかで教育基本法(一九四七年)や六三制、教育委員会制度などが実施されていく。》(安田敏朗『国語審議会 迷走の60年』、講談社現代新書、平成19年)
《ここで気にかかるのは、教育使節団の団員がどれほど日本語が出来たか、われわれの言語生活についてどの程度知つてゐたのかといふことだが、齋藤襄治の談話によれば、二十七名の団員中、日本語を解したのは国務省東洋課長ゴードン・T・ボウルズ(文化人類学者)ただ一人であつた。どうやら彼らは、占領軍情報教育局のロバート・キング・ホール大尉(のちに中佐)なるローマ字論者の意見を鵜呑みにして報告書を作成したものらしい。》(丸谷才一編著『国語改革を批判する』、丸谷才一「言葉と文字と精神と」、中公文庫、平成11年)
このホール大尉は終戦前、カリフォルニア州モントレイにあつた軍政要員準備機関において日本占領企画本部の教育部長であつたといふ。昭和20年6月23日附で「公式表記文字をカタカナに改定」と題する秘密覚書を執筆し、占領後に日本の国語から漢字を無くし全てカタカナ書きに改めるべきだと主張してゐた。その覚書の中で
《ローマ字化の利点は明瞭であるが、実用的ではない。その理由は、日本で一般的に読まれていないからである。それ故、性急なローマ字化は日本を事実上、無能国家にしてしまう。それは軍事占領政府にとり、敵性宣伝に曝されるよりも一層危険である。文書による意思疎通ができない近代国家は混乱に陥る。》(西鋭夫『國敗れてマッカーサー』、中央公論社、平成10年)
と、わざわざローマ字化の危険性まで訴へてゐた。それがどういふ訳か、昭和20年11月20日には既に、文部省教科書局の面々をCIE(民間情報教育局)に呼びつけて、教科書をローマ字にしろと高圧的に命令してゐたことが、『昭和戦後史 教育のあゆみ』(讀賣新聞社刊)に載つてゐるといふ。因みにこのCIEは、かの悪名高きWGIP(War Guilt Infomation Prgam=日本国民に戦争贖罪意識を植ゑつける計画)を主に担当した機関でもある。
《(ホール少佐は)、いやがる日本人にローマ字を強制することが親切になると信じている単純な男で、反対側にとっては迷惑千万だが、ローマ字論者にとっては頼もしい男ということになったらしい。》
《結局、教科書のローマ字化ということは、ホール少佐の個人的意見にすぎなかったようである。彼はハーバード大学、コロンビア大学などで教育学やアジア問題を学び、自分なりの意見を持っていたので、ローマ字化についても自信をもって主張したのだが、周囲の同意を得るに至らず、まもなく教科書の担当からはずされて、他の部署へ移された。》(丸谷才一編著『国語改革を批判する』、杉森久英「国語改革の歴史(戦後)」、中公文庫、平成11年)
しかし彼は、終戦前は性急なローマ字化は良くないと言つてゐたのである。GHQでの彼の上司達は「国語のローマ字化など考へてもゐない」と否定してゐたことを、当時の日本側関係者が証言してゐるが本当にさうなのだらうか。「ローマ字ではなくカタカナにすべき」と言つてゐた男が、日本にやつて来て間もなくローマ字強行論者に転身してゐるのである。軍隊は命令服従が絶対である。上司の意向と違ふことをホール大尉が独断で行なつてゐたとは到底考へにくいのである。或いは彼の覚書にある《性急なローマ字化は日本を事実上、無能国家にしてしまう》の部分がGHQの気に入る所となつたのかも知れない。何れにしても当時のGHQ担当者の中で、彼一人だけ熱心にローマ字化を推進したことを示す数々の証拠や証言が残されてゐるのは如何にも不自然なことなのである。しかし真相がどうだつたにせよ、この男の影響は教育使節団の『報告書』の随所に見られるのである。
《日本の子供達に對して我々が責任を感じさへしなければ、これに觸れずにゐた方が愼み深くもあり、氣樂でもあつていゝと思ふ問題に、こゝに當面するのである。言語は國民生活に極めて密接な關係をもつた一つの有機體であるから、外部からそれに近よることは危險なのである。……何事にも中間の行き方があるが、この場合それは立派な中庸の道になるであらう。國語の改良はどんな方面から刺戟を受けて着手してもいゝが、その完成は國內でするより外にないことを、我々は知つてゐる。我々が與へる義務があると感ずるのは、この好意の刺戟であつて、それと共に、未來のあらゆる世代の人々が感謝するにちがひないと思はれるこの改良に、直ちに着手するやう現代の人々に大いに勸める次第である。深い義務の觀念から、そしてだゞそれだけの理由で、我々は日本の國字の徹底的改良を勸めるのである。『聯合國軍最高司令部に提出されたる米國敎育使節團報吿書』、東京都教育局、昭和21年)
要するに「外国人が他国の国語に介入するのは危険なことであり、本来これを慎むべきであるものの、その国語改良の早急な実行の為、我々にはそれに敢て勧告をする義務がある、それは必ずや将来の世代から感謝されるに違ひない」と言つてゐるのである。まるで宣教師のやうな口ぶりである。読んでゐるこちらが恥づかしいのである。
《國語改良問題は明かに根本的な、急を要するものである。それは小學校から大學に至るまで、敎育計畫のほとんどあらゆる部門に、その影を投げかける。この問題を滿足に解決できなければ、意見の一致を見た多くの敎育目的の達成は、極めて困難になるであらう。例へば、他の諸國民の理解の促進や、自國における民主主義の助成がさまたげられるであらう。》『聯合國軍最高司令部に提出されたる米國敎育使節團報吿書』、東京都教育局、昭和21年)
「国語を改良しなければ今後の教育行政は立ち行かなくなるぞ、民主主義の発展も阻害されるぞ、さうなつたら困るのは誰だ」と結局は恫喝してゐるのである。
《日本の國字は學習の恐るべき障害になつてゐる。廣く日本語を書くに用ひる漢字の暗記が、生徒に加重の負擔をかけてゐることは、ほとんどすべての有識者の意見の一致するところである。……漢字の讀み書きに過大の時間をかけて達成された成績には失望する。小學校を卒業しても、生徒は民主的公民としての資格に不可缺の語學能力を持つてゐないかも知れない。彼等は日刊新聞や雜誌のやうなありふれたものさへなかなか讀めないのである。槪して、彼等は現代の問題や思想を取扱つた書物の意味をつかむことができない。殊に、彼等は卒業後讀書を以て知能啓發の樂な手段となし得る程度の修得さへでき兼ねるのを常とする。》『聯合國軍最高司令部に提出されたる米國敎育使節團報吿書』、東京都教育局、昭和21年)
デタラメもいいとこであるが、これもホール大尉の影響と思はれるのである。
《進駐軍のある士官が、日曜日にジープを駆って、いなかに出かけて行った。そして、畑で働いている農民に新聞を出して読ませてみた。第一面はほとんど読めない。社説はなおさらである。社会面はどうやらわかる者と、それさえ読めない者もあった。この事実をまのあたりに見たその士官は、日本では国民をめくらにしておくつもりかと言ったという。(山本有三『もじと国民』、昭和21年)

この将校はおそらくホール大尉だらうが、日本人全体の国語力のテストとして果して適当なものかどうか、かなり疑問がある。アメリカ軍の将校に畑でとつぜん新聞をつきつけられては、占領下の庶民はきつとドギマギしたらうし、あのころの新聞は漢字を使ひすぎてゐたし(しかし、だからと言つて漢字そのものがいけないことにはならない)、社説といふのはどこの国でもむづかしいものだし(アメリカだつてこれは同じはず)、それに、テストされる者が片よつてゐて、数もあまり多くなささうである。》
(丸谷才一編著『国語改革を批判する』、丸谷才一「言葉と文字と精神と」、中公文庫、平成11年)
こんなずさんな調査や偏見に基いて『報告書』は起草され、次のやうな勧告を出したのである。
《必然的に幾多の困難が伴ふことを認めながら、多くの日本人側のためらひ勝ちな自然の感情に氣付きながら、また提案する變革の重大性を十分承知しながら、しかもなほ我々は敢て以下のことを提案する。
一、ある形のローマ字を是非とも一般に採用すること。
二、選ぶべき特殊の形のローマ字は、日本の學者、敎育權威者、及び政治家より成る委員會がこれを決定すること。
三、その委員會は過渡期中、國語改良計畫案を調整する責任を持つこと。
四、その委員會は新聞、定期刊行物、書籍その他の文書を通じて、學校や社會生活や國民生活にローマ字を採り入れる計畫と案を立てること。
五、その委員會はまた、一層民主主義的な形の口語を完成する方途を講ずること。
六、國字が兒童の學習時間を缺乏させる不斷の原因であることを考へて、委員會を速かに組織すべきこと。餘り遲くならぬ中に、完全な報吿と廣範圍の計畫が發表されることを望む。》『聯合國軍最高司令部に提出されたる米國敎育使節團報吿書』、東京都教育局、昭和21年)
有無を言はさぬ命令なのである。しかもその重大なる「変革」は全て日本側の責任においてやれと言ふのである。憲法典を押しつけたのと同じやり口なのである。抑もGHQが日本政府に無理矢理やらせた諸改革のことを想起してほしい。彼等は日本人から軍隊を奪ひ、宗教を奪ひ、憲法を奪つたのである。それら改革と称する略奪行為は、日本の弱体化が目的だつたことは周知の事実なのである。それと同時期に行はれた国語改革が日本人の学習力を向上する為のものなどと、どうして言へるだらうか。著者も引用者もたびたび触れてきた如く、日本の近代化、即ち日本の富国強兵に多大な貢献を為してきたのは漢字である。仮名書きにしろローマ字化にしろ、どちらにしても漢字が廃止されるのであるから、GHQの意図する所は自づと明らかであらう。
《今は國語改良のこの重要處置を講ずる好機である。恐らくこれ程好都合な機會は、今後幾世代の間またとないであらう。日本國民の眼は將來に向けられてゐる。日本人は國內生活においても、國際的關係においても、新しい方向に動きつゝある。そしてこの新しい方向は文書通信の簡單にして效果的な方法を必要とするであらう。また同時に、戰爭が多くの外國人を刺戟し、日本の國語と文化を硏究せしめてゐる。この感興を持續せしめ、育くまうとすれば、新しい書記法を見出さなくてはならぬ。國語は廣い公道たるべきもので、障壁であつてはならない。世界に永き平和をもたらさんとする各國の思慮ある男女は、國民的な孤立と排他の精神を支持する言語的支柱は、できる限り打ちこわす必要のあることを知つてゐる。ローマ字採用は、國境をこえて知識や觀念を傳達する上に偉大なる寄與をなすであらう。》
これが『報告書』の「国語改革」の章の締めくくりなのである。これを読んで戦慄を覚えない人があるだらうか。国内生活や国際関係における「新しい方向」とは何であらうか。「文書通信の簡單にして效果的な方法を必要とする」とはどういふ意味であらうか。
《階級的な敬語その他の封建的伝習の色濃い日本の国語が大いに民主化されねばならぬのはいふまでもない》(安田敏朗『国語審議会 迷走の60年』、講談社現代新書、平成19年)
先に紹介された讀賣報知の昭和20年11月12日附の社説「漢字を廃止せよ」には上のやうなくだりもあつたのである。安田敏朗氏によると、この社説は《社会の変化にともなって言語のありかたも変化するという論である。これは、言語は上部構造に属し、下部構造が変化すればそれにともなって上部構造も変化する、という議論とおなじである。ソ連の言語学者ニコライ・ヤコヴレヴィチ・マール(一八六四~一九三四)が中心となって「ヤフェート言語学」(セム・ハム・ヤペテのヤペテからくる)として唱えたこの議論は、日本では一九三〇年代からソビエト言語学として受容されたものであり、社会の発展段階論と国際共通語としてのエスペラントの達成という文脈で論じたプロレタリア・エスペラント論として一時期流行した》(安田敏朗『国語審議会 迷走の60年』、講談社現代新書、平成19年)
のださうだ。その我が国では昭和14年6月、国語ローマ字化を訴へたプロレタリア・エスペランティストや一部ローマ字論者が、治安維持法違反容疑で検挙されたのであつた(左翼ローマ字運動事件)。彼等の目指すところが共産主義社会であるので当然である。エスペラント理論では、社会は「封建社会→資本主義社会→共産主義社会」と進み、これに伴ひ言語も「民族語→民族語+国際補助語→世界語」と発展するといふ。従つて民族語と国際補助語(エスペラント)とが併用されるべき資本主義社会にあつては、ローマ字表記であるエスペラントに合せて民族語もローマ字表記でなければならない、といふのがその主張である。そして当然、前時代の「敬語」も消滅すべきだとするのである。『報告書』にある「新しい方向」と「文書通信の簡單にして效果的な方法」とが何を意味するのか、なにゆゑにローマ字化にここまで固執するのか、これで明らかであらう。しかも報告書は更に「國語は障壁であつてはならない」とも言ひ、「精神を支持する言語的支柱は、できる限り打ちこわす」とも言つてゐる。そして、その絶好の機会が訪れたと言つてゐるのである。GHQ内の赤い勢力は日本の国力を削ぐ為に国語を貧困化しようとしたのみならず、国語こそ日本人一人一人が自らの精神や国柄を護る為の楯であると看做して、きたるべき革命に向けてこれを徹底的に破壊しようとしてゐたのである。
《コミンテルンは、世界各国に共産党を設立するだけでなく、その別動隊を構築することで、大衆の組織化を図ったのだ。…(中略)…もう一つの別動隊が、エドキンテルン(Educational Workers International, 略称EducIntern:教育労働者インターナショナル)であり、こちらは、教職員を対象とした教職員労働組合の世界組織である。…(中略)…日本でも戦前、エドキンテルン日本支部がひそかに結成されており、その中核メンバーが戦後、GHQのニューディーラーと称する社会主義者と組んで設立したのが、日教組(日本教職員組合)である。》(江崎道朗『アメリカ側から見た東京裁判史観の虚妄』、祥伝社新書、平成28年)
教育使節団とは、日本の弱体化と赤化の一貫たる教育改革を権威づけ正当化する為のダシであつたのと同時に、その有力な協力者でもあつたのである。主要なメンバーはその目的を充分に理解した上でこれに協力したのである。その他のメンバーは単なるお飾りとして利用されただけだつたのである。
《私は、一九七八年(昭和五十三)年三月八日、アメリカ教育使節団の団長だったジョージ・ストッダード博士と、彼のニューヨークはマンハッタンの自宅で対談した。
 使節団の来日から、ちょうど三十二年後の三月八日だ。
 「誰が教育使節団の報告書を書いたのですか」
 「殆ど私が書いた。国語改革の部分を書いたのは私ではない」
 その三カ月前、一九七七年十一月二十一日、同使節団の団員であり、スタンフォード大学の教育心理学教授アーネスト・R・ヒルガードに同じ質問をした。
 「報告書の執筆者はジョージ・D・ストッダードと私、それに今、名前を思い出せないがもう一人の三人だった」
 「それでは、教育使節団の他の二十四人の団員は何をしていたのですか」
 「あちこち観光旅行に行ったり、夜の街に遊びに出かけていた。ストッダード氏の団長ぶりは独裁的ともいえた。誹謗の意味で独裁的といっているのではない。彼は、まず自分で物事を決定し、その後で、団員の同意を取り付けるという具合に処理していたからである」》
一九七八年(昭和五十三)、ストッダード元団長は、私と対談中に、「報告書」は自分が執筆したと言ったが、「国語改革の部分を書いたのは、自分ではなく、ジョージ・カウンツだった」と付け加えるのを忘れなかった。(西鋭夫『國敗れてマッカーサー』、中央公論社、平成10年)
アレクサンダー・J・ストッダードの当時の肩書はフィラデルフィア市教育長、ジョージ・S・カウンツはコロンビア大学教育学教授にしてアメリカ教職員連盟副会長であつた。何をか言はんやである。更に西鋭夫氏が同書で挙げてをられるもう一人の国語改革担当は、コロンビア大学比較教育学教授のアイザック・カンデルである。そして「大活躍」したホール大尉は、グゲンハイム奨学研究員として帰国後、昭和24年には「新しい日本のための教育」といふ日本語ローマ字化の利点を論つた書籍をエール大学出版会から刊行し、その後、カウンツとカンデルが教鞭を執つてゐたコロンビア大学教育学部に比較教育学の助教授として迎えられてゐるのである。
戦後の国語改革は、単に日本の改革論者が虎の威を借りて行なつたと言ふだけでは充分ではないのである。占領軍の側にも、積極的に日本人の国語を破壊しようと企んだ者がゐたのである。その最終的な目的は日本国民を丸裸の奴隷にすることだつた、と言つても言ひ過ぎではないだらうと思ふ。引用者はこれを「国語の敗戦革命」と呼びたいと思ふのである。
日本の主要な都市はすべて焼かれて、かつて文部省に反対した知識人たちの多くはそれぞれ地方にのがれて孤立していた。いまや文部省に反対するまとまった勢力はどこにもなかった。
〔引用者註〕謂はゆる火事場泥棒なのである。しかもそれは、上で見たやうに、日本人をその伝統から切り離して魂を奪ひ、言語を単純化して管理し易くすることが期待されてゐたのである。まるで奴隷の作り方のレシピを見るかのやうである。抑も戦争に負けたからといつて、どうして国語を変へなければならないのか、生れた時から「当用漢字」「新仮名遣」を当り前と思つてきた戦後世代は、もつと考へてみる必要があるのである。GHQが憲法典を押しつけた事実は、改憲論議が活撥化するのに伴つて段々と浸透してきてゐるが、国語改革の罪悪については未だ広く認知されてゐるとは言ひ難い。無理矢理に憲法典を改変させられたことと、無理矢理に国語を壊されたこと、一つの民族にとつて一体どちらがより深刻な問題なのだらうか。
以下、漢字にかかわることのみを略述する。

敗戦直後の昭和二十年十一月、文部大臣が国語審議会に対して「標準漢字表」の再検討に関し諮問し、漢字主査委員会が設置された。

昭和十七年に国語審議会が文部大臣に答申した「標準漢字表」というものがある「常用漢字」千百三十四字、「準常用漢字」千三百二十字、「特別漢字」七十四字、計二千五百二十八字よりなる(「特別漢字」というのは、「朕惟フニ」の朕、「天佑ヲ保有シ」の佑、綏靖天皇の綏、嵯峨天皇の嵯と峨など、天皇、皇室にかかわる字で「常用漢字」「準常用漢字」にはいってないもの)。この「常用漢字」をもとにして、公文書、教科書等で使用してよい漢字の範囲を定めようというのである。

いったい敗戦直後の大混乱の時期、何十万何百万の国民が家を焼かれて住むところなく、そこへまた戦地や外地から何十万何百万の人たちが引きあげてくる、食糧が決定的に不足して来年は百万をこえる餓死者が出るのではないかと言われている時に、なんでまた漢字を制限しようかなづかいを変えようというような、文化の根幹にかかわる、本来慎重の上にも慎重を期せねばならぬ問題を大あわてでとりあげねばならぬのか、と思うところだが、それが当時の風潮であった。上にも言ったように、とにかくいままでの日本は何もかも全部わるかった、まちがっていた、いっさいを変えて新しくして再出発だ、という気分がおおっていたから、ことばや文字だけでなく、学校制度などもただちに手がつけられたのであった。
〔引用者註〕シツコイやうだが繰り返す。「それが当時の風潮であった」「…という気分がおおっていた」といふのはウソである。日々の食糧に事缺いてゐる庶民に、「いままでの日本は何もかも全部わるかった、まちがっていた、いっさいを変えて新しくして再出発だ」などと感傷に浸つてゐる暇はないのである。
占領軍もそれを支持した。アメリカは、日本人の毅力、精神的な底力やねばりづよさをまったく見あやまっていた。実際には日本人は、敗戦の一週間後には、廃墟となった銀座でガリ版ずりの粗末な英会話テキストが飛ぶように売れていた(これから日本に大挙上陸してくる米軍兵士と仲良くしようというのである)という、いたって尻の軽い国民なのだが、戦争の時に日本の兵士たちが頑強に戦ったものだから、これをおそろしくしぶとい人種と誤認し、二度と欧米列強に対して刃向わぬよう、その経済力も知力も伝統の力も、極力削いでおとなしい無力な国にしてしまおうとした。つまり、第一次大戦でボロボロにまけて、その二十年後にははやくも欧州第一の強国として復活し、またまた周辺の諸国に戦争をしかけたドイツみたいなことになっては困る、と考えたわけだ。何もそんなに力を削がないでも、ドイツ人とちがって日本人は、臥薪嘗胆力をたくわえてもう一ぺんアメリカにしかえしの戦争をふっかけるような、そんな根性のある国民ではないのに――。
〔引用者註〕申し訳ないが繰り返す。さういふ尻軽の根性無しは、エリートたちのことなのである。また、あれだけ物理的に破壊された挙句に、占領期には日本国民の精神まで破壊しようと工作員たちが色々頑張つたといふのに、その後の我が国の復興と繁栄は文字通り驚異的なものであつた。やはり日本人は聯合国が当初恐れた通り「おそろしくしぶとい人種」だつたのである。
そういう日本全体の気分、占領軍の支持、それに、従来答申を出してはそのたびにつぶされるという屈辱をなめてきた文部省国語官僚と、保科、松坂ら国語審議会の急進実力者たちの執念、それらがあいまって、敗戦直後のドサクサのなかで「こんどこそ」という国語改革のうごきがはじまったわけだ。
〔引用者註〕やはり繰り返す。「そういう日本全体の気分」とは新聞紙面上の話であり、庶民とは何の関係もないのである。

(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)

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