松坂忠則の要求
松坂忠則は、昭和十七年に『國字問題の本質』(弘文堂書房)という本を出している。
――またちょっと話が横道にそれますが、昭和十七年というのは戦争中である。アメリカを相手に大戦争をやっているまっさいちゅうに国字問題とは悠暢な、とお思いのかたがあるかもしれないが、そうではない。戦争中というのは、国語問題――というより日本語問題と言ったほうが適当だが――の論議がたいへんさかんな時期だったのである。
と言うのは当時、日本は、フィリピンだとか、マレー、シンガポールだとか、インドネシアだとか、南方のひろい地域を占領して、それを維持してゆくつもりであった。ついてはそれらの地域に日本語をひろめてゆかねばならぬ。それを当時「国語の進出」と言った。そして、その進出のためには日本語をもっとずっと簡易なものにしなければならぬ、東京の「京」も今日明日の「今日」もおなじ発音だのに今日のほうは「けふ」と書くようなことではむずかしすぎてあちらの人たちに学んでもらえない、といったような主張がつよくあったのである。
これに対しては、「やさしくしますから学んでください、というような卑屈な態度でどうするか。南方の人たちが学ぶかどうかを左右するのは日本語の難易ではない。日本の国力だ」という反対論もあった。無論このほうが正しい。英語は非常に不規則なむずかしいことばだが、それをちっとも簡易化しないでも、むかしから世界中の人が学んでいる。かつてのイギリス、その後のアメリカの、軍事力、経済力、政治力、つまり国力がつよいからである。いくら「むすこのsonもお日さまのsunもおなじ発音だのに、片方はson、片方はsunと書かねばならぬというのはたしかにむずかしすぎますね。sunに統一しますから習ってくださいね」などと低姿勢で簡易化につとめたって、英米が弱い国だったらだれも英語を学ぼうとはしないにきまっている。知れきったことだが、まあそういうわけで、戦争中は国語論議がさかんだったのである。季節はずれの悠暢な談義、というわけでもなかったのだ。
〔引用者註〕昭和17年6月、国語審議会は文部大臣に対し「標準漢字表」を答申した。常用漢字1134字、準常用漢字1320字、特別漢字74字の計2528字であつた。
《それぞれの漢字の選択基準は、常用漢字は「国民ノ日常生活ニ関係ガ深ク、一般ニ使用ノ程度ノ高イモノ」、準常用漢字は「常用漢字ヨリモ国民ノ日常生活ニ関係ガ薄ク、マタ一般ニ使用ノ程度モ低イモノ」、特別漢字は「皇室典範、帝国憲法、歴代天皇ノ御追号、国定教科書ニ奉掲ノ詔勅、陸海軍軍人ニ賜ハリタル勅諭、米国及英国ニ対スル宣戦ノ詔書ノ文字デ、常用漢字、準常用漢字以外ノモノ」であった。》
《たとえば、頭山満 など十二名の連署による文部大臣あての標準漢字表反対の建白書では、「国語の問題は鞏固なる国体観念に照らして講究」すべきであるとしたうえで、反対の理由を「国語審議会決定答申案にいふ特別漢字七十一 字を以て畏 き辺 の御事をも限定し奉」ることになる点、「国民ノ日常生活ニ関係ガ薄」い準常用漢字のなかに「国民が日常奉体すべき教育勅語を始め皇室典範、帝国憲法、歴代天皇御追号、勅諭、詔書の文字多数を含む」点、「漢字の否定、仮名遣の変革」をくわだてる団体である国語協会に国語審議会が「私党化」されている点などをあげている。そして「エスペランチスト、ローマ字論者、カナモジ論者の過去及び現在の思想言動を調査し国語運動に名を藉 りて行はれたる非国家思想の有無、思想謀略の存否如何を明確にせんことを要す」というように思想問題にまで発展させてこの答申の廃棄を求めている(平井昌夫『国語国字問題の歴史」、一九四八年)。》(安田敏朗『国語審議会 迷走の60年』、講談社現代新書、平成19年)
安田氏は「思想問題にまで」と仰るが、前にも見たやうに大正時代から既に良からぬ目論見を以て国語改革運動をする者が現に居たのだし、終戦後にGHQの強い要請によつて行はれた改革は正に共産革命の臭ひがプンプンするほど、我が国の国語問題は既に思想問題となつてゐたのである。頭山翁の建白書の中で特に光るのは「国語審議会の私党化」を指摘した点と「非国家思想の有無、思想謀略の存否如何」の調査を求めた点である。気づいてゐる人は居たのである。
昭和17年と言へば大東亜戦争の真最中である。国家の存亡を賭した戦争なのであるが、先に見たやうに明治期の国語改革案といふものも、日清日露の戦争と相前後して出されたのである。昭和の改革論者達が今次の戦争を改革断行のチャンスと看做さない方が寧ろをかしいのである。「むずかしすぎてあちらの人たちに学んでもらえない」といふのは取つて附けたウソである。
《ちよつと余談ですが、澤柳大五郎さん、あの成城大学の設立などに功績のあつたギリシア美術史の大家ですが、この人が昭和三十八年、國語問題協議會といふ私も関係してゐる団体主催の講演会で面白いことを言つてをられる。日本語を学ぶ多くの外国人から、新かなはおぼえにくい、歴史的仮名遣の方がはるかによくわかるといふ話を聞くといふのです。》(荻野貞樹『旧かなづかひで書く日本語』、幻冬舎新書、平成19年)
例へば、歴史的仮名遣だと「言ふ」の活用語尾は「いは いひ いふ いへ いへ」のハ行で綺麗に揃ふ。対して現代仮名遣だと「いわ いい いう いう いえ いえ」とワ行が混ざつてきて寧ろ学習者を混乱させる、と荻野氏は解説してゐる。よく考へてみれば、戦前は国内に日本語を母語としない国民が沢山ゐたのである。台湾人と朝鮮人である。彼等が「歴史的仮名遣は難しいので変へてくれないか」と言つたことがあつたのだらうか? 当時の台湾や朝鮮の小学生の書いた作文を読んだことがあるが、実に立派に文章を書いてゐる。「占領地の人々の為に」の主張が如何にマヤカシであるか、ただの屁理屈に過ぎないのかが判るであらう。
あの戦争は、日本国が生きるか死ぬか、それが本質であるのに、改革論者達にとつてはどう理窟をつけてこの「非常時」を活用するかが問題だつたのである。しばらく前のことになるが、東南アジアから看護師の実習生を受け入れ、何年か実地訓練をしながら勉強させ、最終的に我が国の国家試験を受けさせて正式な看護師として採用しようといふ政策が実施された。その時、メディア等では「漢字の多い日本語がネックとなつて合格率が極めて低い、何とかしなければならない」と騒いでゐた。これなんかも人手不足といふ「非常時」にかこつけた国語改良論だつたのではないか。いま問題になつてゐる外国人の高度人材等も日本語の能力が要求されるので、また再び「非常時」を口実にした国語改良論が提起されるかも知れない。「非常時」活用手法はまだ健在なのである。そういうわけでこの松坂忠則の本にも、「それがどの程度に學ばれるか、百萬千萬の人間の手に行きわたるかは、日本語がいかなる文字づかいであるかによって決せられる。いま日本は、アジヤの先達たる使命をはたすうえからもまた、日本語の海外進出をヒツヨウとしている」「日本のカナが、あたかも西洋におけるローマ字のように、アジヤの國際文字として用いられる時代が、もうすでに、やって來ているのである」というようなくだりが散見する。
〔引用者註〕この男も「非常時」に便乗してゐたのである。抑も私怨から漢字を無くさうと企むやうな人が、こんな雄大な理想を本心に持つてゐる訳がないのである。「活動家」も、自己の目的達成に役立つものなら何でも利用して恥ぢないのである。この『國字問題の本質』のおしまいに「政府當局に望む」と題する部分がある。政府に対する十項の要求をならべ、それぞれに説明をつけたものである。これと、昭和二十一年十一月の内閣訓令告示、およびその後の経過を見あわせると、昭和十七年当時においては夢想にちかいものであった松坂忠則の要求が、敗戦ののちにはほとんど実現していることにおどろく。敗戦が日本人にあたえたショックがいかに大きかったか、また敗戦直後からの審議の過程で松坂の影響力がいかにつよかったかを示すものである。
〔引用者註〕もう繰り返すのは嫌だが、やはり繰り返さざるを得ない。「新しい日本をつくる為には国語を変へなければならない」などといふ、宛も敗戦責任を国語に転嫁するが如き愚かな考へを抱いたのは、エリートであつて庶民ではないのである。戦争に負けた理由を庶民から一言で言はせてもらふと、さういふバカが国家を指導してゐたから、に尽きるのである。各条項の要求のところだけを左に列挙する。それにわたしのかんたんな説明をつけくわえる。
〈第一 政府は、國民常用の文字として漢字を用いない時代を、なるべく早く實現するとゆう目あてを明らかにしめすこと。そして、今後この目あてに向って一切のことがらを、おし進めてゆく……とゆう、大きなハタ印をかかげること。〉松坂の主張で、戦後実現しなかったこともすこしはある。右の「ゆう」がその一つである。あとはたいてい実現したから、松坂の文章は現在の表記に非常にちかい。
〈第二 この目あてを、文化の受けつぎをさまたげることなしに實現するさし當りの方法として、「國定文字」を定めること。この中には、漢字を一千字以上二千字どまり入れる。さらにこれを、第一級と第二級に分ける。第一級は五百字、それ以外を第二級とすること。〉この「国定文字」が戦後の「当用漢字」千八百五十字である。第一級は「教育漢字」にあたる。実際には八百八十一字になった。五百字というのはカナモジカイがえらんだ漢字の数で、これに「旗」がふくまれないから「ハタ印」と書いているのである。なお一般には「文化の継承」と言うところを、和語の連用形(その名詞的用法)によって「文化の受けつぎ」とするのはわたしも賛成。ただし漢字を使わず「文化のうけつぎ」としたいけれど。
〔引用者註〕「継承」といふ最も人口に膾炙した良い熟語があるのに、何故わざわざ大和言葉に言ひ換へなければならないのか、全く以て理解し難いのである。もし「うけつぎ」に換へたとして、「継承」や「伝承」等の語感の違ひを今度はどう表現し分けるのか。言葉を簡単にして社会の発展を促進すると言ひながら、却つて言葉を貧しくして必要以上の口数を費さなければ伝へたいことも伝はらないやうにしてゐるのである。答へは簡単、文脈に合はせて漢語と大和言葉を使ひ分ければ良いだけの話であり、実社会では現にさういふ風に行はれて何の支障もないのである。現実を無視した原理主義や設計主義は結局のところ、社会の自然な発展を阻害するものなのである。
〈第三 國民學校では、八年間に、この國定文字の中の第一級文字を書取りさせ、第二級は讀めるだけに敎えること。〉国民学校は、初等科六年、高等科二年。義務教育は初等科のみだが、中等学校にすすまないものはほぼ全員が高等科にすすんだので、事実上八年義務教育にちかくなっていた。
〈第四 全國の地名を國定文字のみに改めること。この際、たとい國定文字でも、特別な讀み方のものは改めること。(神戶、大分など)〉これは実行されなかったが、市町村合併や新住居表示などで新しい地名をつくる際に規制力としてはたらいた。
〈第五 國民の名の字を、國定文字でなければ受けつけないこととする。〉これはこのとおり実行された。ただし非常に評判がわるかったので、のちに「人名用漢字」が追加された。当用漢字は千八百五十字あると言っても、そのなかで名に使える字は知れたものだから、これは当然であった。死、殺、犯、罪などはもちろん、入、口、下、切などのやさしい字でも、子どもの名前に使う人はめったになかろう。
〈第六 ホウリツを國定文字に書き改めること。〉これは現在も法改定のつどおこなわれている。
〈第七 學術用語を、各學界に改めさせる。〉これは各学界で自主的におこなわれているようである。函数を関数に、両棲類を両生類になど。
〈第八 政府は、國定文字だけで自由に文章の書ける字引を發行する。〉これは国語審議会の「同音の漢字による書き換え」で一部実現した。
〈第九 インサツ物を取りしまること。國定文字の以外は使わせない。〉新聞が自主的に実行した。教科書や官庁の文書はもちろんである。災害の際の「り災証明」など。
〈第十 カンバンを、このインサツ物と同じに取りしまること。〉これは無理である。文部省の役人が日本中の看板を見て歩いて、一字でも当用漢字外の字がふくまれていたら「とりはずせ」と命令するわけにはゆかない。
〔引用者註〕同じく文字改革を行なつた中華人民共和国では、国定の簡体字以外の文字を商店の看板等に使用したら罰則があるのである。抑も文字等の国民文化を権力が「ああせい、かうせい」指図するといふ発想は、レーニンやスターリン、毛沢東や金日成と同じく独裁者の論理であり、自由主義に反するものなのである。以上、第二から第十までの要求の大部分を、松坂忠則は戦後、政府をつうじて実現した。しからばこれら第二から第九までの個々の要求は何なのかと言えば、第一の、漢字を用いない時代を実現する、という大目的のための布石であり、道程なのである。
十項の要求を列挙したあと、松坂はこう書いている。
〈以上はすべて、すぐなすべきことである。これからユックリ案を作るなどと言ってもらいたくない。(…)どうせカリの物である。何も何百年さきまで使うとゆうのではない。バラックで十分である。早いことが大事だ。それに、どうせ、どのように決めたところで、どの文字をどれだけのネウチと見立てるかとゆうことは、結局は主觀の問題である。しいてハッキリ言えばどの漢字も常用文字としては、三文のネウチもない。この點をしっかりのみこんで手をつけるべきである。〉当用漢字の選定作業を松坂が嘲笑していたというのがよくわかる。どうせカリ物であり、バラックなのである。
「結局は主觀の問題」というのは松坂の言うとおりである。当用漢字千八百五十字を決めた際、難航したというのは、どの字を必要と思うか不必要と思うかは主観の問題だからである。「犬」はよく使うから入れる、「猫」はあまり使わないからはずす、今後は「ネコ」と書く、「馬」はよく使うから入れる、「猿」はあまり使わないからはずす、今後は「サル」と書く……というふうにしてきめて行ったのだが、犬と猫の差、馬と猿の差をどれだけのものと見るかは個々の人の主観なのである。どの漢字にせよ「三文のネウチもない」というのも松坂の主観である。
〔引用者註〕終戦後の文字改革を主導した中心人物が一体どんな人物だつたのか、心ある人士はよく知つておく必要があるのである。抑もの始まりは、幕末~明治時代に、厳しい国際社会の生存競争を生き抜く為に、即ち西洋列強に植民地にされない為に、如何に日本国を強くするか思ひ悩む中から生まれてきた文字改革の発想だつた訳である。しかし現実は、西洋文化を採り入れる際に日本人は漢字といふ利器を最大限に活用しながら近代化を実現して来たのである。その時点で、漢字を減らさう漢字を無くさう等といふ考へは無意味であつたことが証明されてゐたのである。然るに現実は、現実に即して方針を変更できないエリートによつて漢字廃止運動は続行された為に、その後いつの間にやら過激な「活動家」に乗つ盗られ、これに新聞社も単に己れの業務上の都合から加担し、終戦に際してGHQに紛れ込んだ革命勢力によつて、混乱に乗じて全く無意味どころか有害な「漢字の改悪」と「仮名遣の改悪」といふ『国語の敗戦革命』が断行されてしまつたのである。
(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)
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