2019年1月18日金曜日

国語改革四十年――3 当用漢字の字体②筆写字と印刷字

筆写字と印刷字


筆写字体と印刷字体とをおなじものにしようとしたのが戦後新略字であった(中国の簡体字も同様の考え)が、これがまちがいであった。

筆写体(手書き文字。おなじことです)は文章のなかの文字であり文脈でよまれるものであるから、他の文字に類似していてもかまわない。印刷字体は一つ一つが独立してその字でなければならない。手書きの字では筆先はなるべく紙をはなれまいとし、点や線はつながりやすいから、たとえば、「火」はしばしば「大」によく似た姿になる。しかし筆写字がそうであるからといって、印刷字体を筆写字に近づけて「火」の二つ点をつないだ字にする必要はない。

上にも言ったように、魚、馬、鳥、およびこれをふくむ鮮、駅、鳩などの四つ点は手書きではふつうつながる。だから中国の簡体字では、鱼、马、鸟等と四つ点部分を一にした。これを偏旁に持つ字ももちろんそうである。いまみなさんは、鱼、马、鸟などの字を見ると、なんだかヘンテコリンな、みっともない字だなあ、と思うでしょう? 対して「売」だの「伝」だの「毎」だのという字を見てもヘンテコリンだとは思わないでしょう? でもおなじことなのです。みなさんは学校でそういう字を教わってこれが正しい字だと思いこんでいるからヘンテコリンだと思わないだけなのです。

東、棟、凍等の右部分は「東」である。練、煉、諫等は「柬」である。手書きでは点はつながるから練の右部分の二つ点はつながって「東」にちかくなる。であるからとて練は練に、煉は煉󠄁に、諫は諌にしたのもヘンテコリンなのである。のみならず文字の組織をみだしてしまったのである。

「母」の二つ点は手書き字ではつながる。每、海、などの母部分もおなじである。そこで每は毎に、海は海に、は毒にした。もっとも母を毋にしてはあんまり変だと思ったのか、母だけはもとのままである。これも文字の組織をみだしたのである。

手書き字では、字の一部分を符号で代替することがしばしばある。昔からそうであり、いまもそうである。符号としては、丶、㐅、又、〻、云、寸などがよくもちいられる。省略することもある。手書き字は文脈でよまれるから、部分が符号であっても、あるいは省略されていても、わかればそれでさしつかえないのである。省略というのは「米國」(戦後略字なら米国)を「米囗」と書き、「公園」を「公囗」と書くようなのである。あるいは点を一つ入れて「米」「公」と書くこともある。前後の関係で十分わかる。

この本には「漢字」という語がよく出てくる。わたしの原稿ではたいてい「汉字」と書いてある。「 」の部分を「又」で代替してあるわけである。無論わたしは「漢」の字を知らないのではない。「漢」の画数が多いから「汉」にせよ、と主張しているのでもない。わたしの本では「漢字」と書かず「汉」の字をつくって「汉字」と印刷せよ、と要求しているのでもない。そんなことは当然だから印刷する人は「漢字」となおして打ってくれる。「區」を「区」と書いたり「轉」を「転」と書いたりするのも、これと同様の符号による代替だった。それが正式の字に昇格してしまったのである。

こうした「簡単な符号による部分代替」はむかしからひろくおこなわれていたし、いまもおこなわれている。筆写字は手早く書けることが生理的要求であり、何の字であるかが前後からわかればよいからである。

「品」を、なし、丶、〻、㐅などで代替することもむかしから一般におこなわれている。右にあげた「区」もそうだし、ちかごろよく問題になる森鷗外の「鷗」もそうである。これは、この名が何度も出てくる文章を書くばあい、いちいちキチンと「鷗」と書く必要はなく、森外でも森外でも森鴎外でもかまわない。前後関係でわかる(もちろん右がわの「鳥」もこんなにキチンと書くのではなく、もっと手早く書くのです)。たとえば「森外」と書く人は、「鷗」の字体は「」であるべきだと主張しているわけではない。印刷字体では「鷗」であることを十分承知でそう書いているのである。

以上かなりくどくのべたからたいていわかっていただけたと思うが、手書き字と印刷字とは別のものなのである。筆写字は、書きやすくて、前後関係でその字であることがわかればよい。

ところが戦後略字は(中国の簡体字もおなじだが)筆写字と印刷字とをおなじものにしようとした。それも印刷字のほうを変えて筆写字にあわせようとした。

かくして、たとえばおなじ「專」が、專は専になり、傳、轉は伝、転になり、團は団になって、縁が切れてしまった。実はこれらは「まるい」「まるい運動」という共通義を持った家族(ワードファミリー)なのである。あるいは、さきに言ったように假を仮にしたから暇や霞との縁が切れた。賣を売としたから買や販や購との縁が切れた。母と毎、海などの毋部分は別のもののようになった。氣の米も區の品もおなじ㐅になった。廣の黃も佛の弗もおなじ厶になった。單の上部も榮の上部も學の上部もおなじ「⺍」になった。これらは、手書きの際の臨時の符号を恒久的な文字にしてしまったためのあやまりである。印刷字は活字をひろうなりキーボードをたたいて打ち出すなりするのだから、点が切れていても筆画が外へむかっていても、そのために手間がかかるということはない。そしてそのほうが見やすく、美しい。部分は符号ではなく正しい部分であるほうがよいのは言うまでもない。手で品の字を書くのは手間だから㐅でもよい、つまり区、欧、殴、鴎等であってもよいが、印刷字体では、㐅などという符号ではなく、區、歐、毆、鷗と、ちゃんと品がはいっているほうがよいにきまっているのである。

(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)

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