「拡張新字体」という不当
山田忠雄先生が言っておられるように、戦後の新字体づくりとその強制は一種のクーデターであった(『当用漢字の新字体』)。しかもこれは、この字体で今後ずっとやってゆこう、ということできめられたものではない。漢字全廃が実現するまで当分のあいだこれでゆこうという、ごく短期のことだけを考えた、まにあわせの粗雑なものである。
しかしいま、ちかい将来における漢字全廃を前提として文字のことを考えている人はまずないであろう。ならば、当用漢字字体(戦後略字)も、その目で見なおさなければならない。
いまや、ワープロやパソコンが普及して、文字は手で書くよりたたいて打ち出すほうが多いくらいになっている。打ち出すのであれば筆画が多かろうとすくなかろうと手間はおなじである。「海」と打ち出すのも「海」を打ち出すのもおなじであること言うまでもない。「独」と「獨」も、打ち出すなら手間はおなじである。
しかるにコンピューター文字を考える人たちがみな、戦後略字を規範として考えているようであるのは認識不足である。
JIS漢字で「包摂」ということを言う。たとえば、社、德、突、靑、鄕、 、漢、隆、賴、練、海等々の字が、JIS漢字にはすべてない。これらはそれぞれ、社、徳、突、青、郷、聖、漢、隆、頼、練、海に「包摂」されるというのである(画数の相違が二つ以下のものは無視するのだそうだ)。これではワープロやパソコンで、ついこのあいだまでの文学作品さえ正確に引用できない。
略字が正字を包摂するというのが本末顚倒である。もしどうしても包摂するのなら、正字を立ててそれに略字を包摂すればよい。いまは略字を正字として学校で教えているから略字を立てぬわけにはゆかない、というのなら正字と略字とをどちらも立てるがよい。
さらに最近は「拡張新字体」と称して常用漢字以外の文字についてまで新字体をつくることがおこなわれているが、これはいよいよ不当である。
「拡張新字体」というのは、戦後略字の方式を常用漢字外にまで拡張してつくった印刷字体である。上にあげた「鴎」がそうである。區が区になり毆が殴になったのだからそれにあわせて鷗も鴎にする。あるいは、龍が竜になったから籠も篭にするというのである(しかし襲を「竜」と「衣」をかさねた字にするかというとそうはしない。襲は常用漢字内でこれは文部省がきめたものだから手を出さないのである)。国語審議会は平成十二年十二月に、この拡張新字体を「簡易慣用字体」と称して二十二字だけみとめることにした。本来国語審議会は常用漢字以外の字については一般に使用をみとめないのであるのに、みとめないものについて新略字をつくって使用することをみとめるというのは筋のとおらぬことである(二十二字は、唖、頴、鴎、撹、麹、鹸、噛、繍、蒋、醤、曽、掻、痩、祷、屏、并、桝、麺、沪、芦、猟、弯)。
(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)
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