時すでにおそく
昭和二十一年十一月の当用漢字のあと、同二十三年二月に「当用漢字別表」(いわゆる「教育漢字」)と「当用漢字音訓表」、同二十四年四月に「当用漢字字体表」が公示された。
教育漢字八百八十一字は義務教育の期間にならう(つまり教科書に出てくる)漢字をさだめたものである。
音訓表は許容される音訓をさだめたものである。たとえば、「魚」はギョとウオはみとめるがサカナはみとめない。「百」はヒャクはみとめるがオはみとめない。「生」はセイ、ショウ、イ、ウ、ナマ、キなどはみとめるがフはみとめない、「手」はシュとテはみとめるがズはみとめない、のようなものである。
ただしこれは、いちいち音訓表をしらべてみないと、使っていいのかダメなのかわからないから一般の人には無理である。厳密に守ったのは役所の文書と教科書くらいのもので、新聞等にも、「魚屋」や「八百屋」や「芝生」(しばふ)「上手」(じょうず)などの類は出ることがあった。
当用漢字字体表は、いわゆる戦後新字(略字)、すなわち現在日本でおこなわれている字体をさだめたものである(後述)。
当用漢字というのは、きわめて前向きなものであった。これからの日本人が、これからの生活や思想を文章に書く、ということだけを想定している。背後のことは考えていない。
たとえば、日本はもう軍隊を持たないのであるから、これからの日本人に軍曹や兵曹長などの「曹」の字はもはや不要である、と削除した。しかし実際には、戦後の日本人が、戦争中自分が兵士であった時の経験を書く、あるいは、戦争中の日本社会や軍隊について書く、ということはある。その際には「軍曹」という語も必要なのだが、そういうことは考慮に入れていない。この字が教科書や新聞にあらわれることはないし、もし当用漢字わくを守る場所(新聞等)に文章を書くとすれば「軍そう」などと書くほかないわけである。
そのように、日本人が背後をふりかえる、という事態は考えていない。敗戦後の日本の、過去はすべてまちがっていたのだからきれいに忘れて、未来だけを見て新しくやりなおそう、という気分は、当用漢字表にも色濃く反映しているのである。
〔引用者註〕もう数へきれないほど繰り返してきたが、やはりここでも繰り返す。「…という気分」とは、エリートの気分であつて、食糧調達に忙しかつた庶民とは関係ないのである。戦後の国語改革――かなづかいの変更、字体の変更、漢字の制限――がもたらした最も重大な効果は、それ以後の日本人と、過去の日本人――その生活や文化や遺産――とのあいだの通路を切断したところにあった。それは国語改革にかかわった人たちのすべてが意識的にめざしたものではかならずしもなかった――かなり多くの国語審議会委員たちは、技術的なこと程度にしか考えていなかった――けれども、実際には、思いがけなかったほどの強い切断効果を生んだのであった。
〔引用者註〕過去を否定し伝統を破壊することを是とするのは、革命思想である。国語改革に関与した人々は、知らないうちに革命に加担させられたと言はれても仕方がないのである。革命によつて伝統から切り離された人々が如何に不幸になるかは、ソ聯が誕生して以降の歴史が既に証明してゐるのである。戦災で地方に疎開していた人たちが都会にもどり、社会がある程度おちつき、そして知識人たちが、これはたいへんだ、と事態の重大さに気づいて、まとまって行動するようになったのは、国語改革がおこなわれてから十年以上たってからである。
官庁の文書と学校の教科書と新聞とがかわっても、昭和二十年代のあいだ、あるは三十年代のはじめごろまでは、一般社会もそう急激にかわったわけではなかった。文芸家たちはたいてい従来どおりに書いていたし、雑誌や書物もたいていは従来どおりの字体の活字でつくられていた(これには、印刷所がすっかり新字体の活字と入れかえるのに相当の期間を要した、といったような事情もあった)。
事態がはっきりして、ことの重大性が多くの人にわかってきたのはおおむね昭和三十年代になってからだった。知識人たちはある程度まとまって、国語改革に反対し、撤回を要求しはじめた。――この、まとまる、つまり組織をつくる、わるい言いかたをすれば徒党をくむ、集団的に行動する、ということが知識人たちは不得手であることも、対応がおくれた原因の一つだった。
しかしすでにおそかった。政府が、十年も前にきめたことを撤回するはずがなかったし、何千万人という子どもがそれで教育され、育ちつつあった(かりにある学年の日本中の子どもの数を二百万人とすると、ある年度――たとえば昭和二十五年度――に、日本中の義務教育の学校に在学する子どもの数は千八百万人である。つぎの年度にはまた二百万人がくわわり、そのつぎの年度にはまた二百万人くわわる。何千万人というのは誇張ではない)。
知識人たちの戦いは、涙がこぼれるほど悲惨なものだった。いかにその言うことが正しくても、論理的に文部省を打ち破っていても、日本の文化の継承にとって致命的であることを論証しても、何の効果もないのである。勝っても勝っても、敵に傷一つおわせることができない。事態をかえることができない。
〔引用者註〕「何の効果もない」はちよつと言ひ過ぎなのである。漢字のみに関して言へば、昭和56年に「当用漢字」改め「常用漢字」が公布されたのである。終戦時の「当用漢字」が「国語をローマ字化するまで当分のあひだ使用を許す漢字」だつたのに対し、「常用漢字」は「日常の使用を許す漢字」なのであるから、文部省が正式にローマ字化を諦めたことを意味するのである。漢字の数も「当用漢字」の1850字から、「常用漢字」は1945字、平成22年の改定「常用漢字」に至つては2136字と、当初の「徐々に減らす」方針に逆行してゐるのである。
《常用漢字表の前文では当用漢字表の「制限的な方針は、国語の表現を束縛し、表記を不自然なものにするとの批判もあった」ことを認めたうえで、「常用漢字表は、法令・公用文書・新聞・雑誌・放送等、一般の社会生活で用いる場合の、効率的で共通性の高い漢字を収め、分りやすく通じやすい文章を書き表すための漢字使用の目安となることを目指した」とある。「目安であるというように、規制の度合いをゆるくした点が特徴的である。戦前をひきついだ統制路線が修正された瞬間であった。》(安田敏朗『国語審議会 迷走の60年』、講談社現代新書、平成19年)日本人が、敗戦で正気を失い、それまでの日本は何もかもいっさいがわるかった、まちがっていたと思いこみ、足が地につかない状態で(それに占領軍の要求や支持もくわわって)きめてしまったことのうち、憲法や学校制度などは、またかえることも、ある程度もとにもどすこともできようが、国語改革だけはもはやいかんともしがたい。
〔引用者註〕どうしても繰り返さざるを得ないが、敗戦で正気を失つたのはエリートであつて庶民ではない。この著者は、当時の国民的な気分云々と繰り返すことで、どうも我々に国語の原状恢復を断念させようとしてゐるやうに思へてならないのである。現行の表記法は、何度も言ふやうに庶民の与り知らぬ所で議論され、終戦のドサクサに紛れて断行されたものである。「民主主義の為に」などと言ひながら、民主的でも何でもなかつたのである。
本書でも再三指摘されてゐる通り、新聞社などは自分達の都合で漢字の制限や仮名遣の変更に賛成し、告示が出されたら一斉にこれに従つて今日に至るのである。彼等は、自分達の判断で内閣告示に従つてゐるに過ぎないのであるが、それを敢て公言しないことで、多くの国民に宛もこれに従ふことが義務であるかのやうに印象づけてゐるのである。謂ふなれば自作自演なのである。
ところで、我々は「正字体や歴史的仮名遣は難しい」と刷り込まれてゐるが、本当はさうではないのである。少なくとも「どちらも同じくらゐ簡単」といふのが実態なのである。どちらが優れてゐるかになると、もちろん永い歴史の中で徐々に育まれ鍛へられてきたものの方が「より合理的」でしかも「美しい」のである。正字や歴史的仮名遣が難しさうに見えるのは、外国語が難しく感じられるのと同じ理屈で、単に慣れてゐないからに過ぎないのである。
我々は、実は意識しない間に普段から歴史的仮名遣に接してゐるのである。和歌などは当然のやうに歴史的仮名遣で新作が生み出されてゐるのである。実際、歴史的仮名遣は読んでみれば無理なく読めるし、書けるやうになるまでに数週間程度しかかからないのである。漢字の正字体は少し努力が必要であるが、今のご時世、変換キーを押すだけなのであるから、OSシステム開発会社が善処すればいいだけの話なのである。多くの国民が望めば、復活することは難しくないのである。
(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)
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