2019年1月11日金曜日

国語改革四十年――1 漢字をやめようという運動⑥廃止を前提に

廃止を前提に


明治三十五年に国語調査委員会の官制ができた。

上田萬年の経歴をのべたところで言ったとおり、その前明治三十三年に、文部省に国語調査委員というのがおかれている。いったいこの明治三十三年というのは、それまで二十年余の国語改革論議をうけて文部省が動き出した年である。この年に小学校令を改定して、教科書で「字音棒引き」を実施している。漢字のおんをかなで書く際――中学校以上や一般社会では字音語は当然漢字で書くが、小学校ではかなで書くことがあるわけだ――長音を長音符(いわゆる棒)であらわすことにした。たとえば小学校は「ショーガㇰコー」、一年生は「イチネンセー」、教科書は「キョーカショ」というふうに書く。もっともこれは評判がわるくて、八年間やっただけで明治四十一年に廃止になった。それに、小学生にとってもこれはむずかしかった。何が字音で何が日本語(和語)であるか、小学生にはわからないから。たとえば相談は「そーだん」だが、「そーだよ」はだめで「さうだよ」。東京は「とーきょー」だが今日を「きょー」はだめで「けふ」である。
〔引用者註〕《明治三十年代は日清戦争の勝利によって日本の民族的自覚が高まった時期である。敗戦国製の漢字を戦勝国が使用しているのはよくないというような幼稚な意見が広く通用した。そこで字音の仮名遣をどうするかを決めるのが先決だという意見も出た。よってまず字音仮名遣を発音通りに改定することが認められた。しかし、棒引き案は安易に発音主義を目指したわけではない。明治二十六年に時の文部大臣井上毅は、漢字音の仮名遣は字音の専攻者でなければできないことであるから歴史的仮名遣による必要はないと述べ、字音仮名遣を発音式に改定することの可否を、栗田寛・黒川真頼・外山正一・物集高見・落合直文・高津鍬三郎らの諸学者に諮問している。》(丸谷才一編著『国語改革を批判する』、大野晋「国語改革の歴史(戦前)」、中公文庫、平成11年)
この「字音棒引き」は現代仮名遣しか知らない現代人にとつては理解しにくいと思ふ。抑も一般に「歴史的仮名遣」「旧仮名遣」と呼ばれてゐるものには、「国語仮名遣」と「字音仮名遣」とがある。「国語仮名遣」とは「やまとことば」の古典的仮名遣であり、「字音仮名遣」とは漢字の音読みの古典的仮名遣のことである。「字音棒引き」とは、この「字音仮名遣」の方だけを「現代仮名遣」風のものに改めませう、といふものである。
《明治政府がはじめて大規模な漢字政策をおこなったのは、一九〇〇年の小学校令改正のときであった。ここでは、かな字体の統一、教育漢字数を千二百字に制限、そして字音かなづかい(漢字のおんの表記)の表音表記がうたわれた(棒引かなづかいとよばれた)。ただし国語かなづかい(和語や訓)は従来の歴史的かなづかいなので、漢字の音だけ別の表記原理を適用することになり、生徒側に混乱をもたらした。》(安田敏朗『国語審議会 迷走の60年』、講談社現代新書、平成19年)
混乱するのは当り前なのである。かういふ所にも、実社会の便不便を殆ど考慮せずに成果ばかりを急いで政策を推し進めようとするエリートたちの悪い癖が表れてゐるのである。因みに、この時の「かな字体の統一」によつて所謂「変体仮名」と呼ばれる多様な仮名文字が一音一字に統一された。現代人が古文書を読まうと思つたら、この変体仮名を改めて勉強し直さなくてはならなくなつたのである。
その明治三十三年に、国語調査委員をおいて正式に委員会をもうける準備にとりかかり、いよいよ三十五年に本格的に官制をしいて国語調査委員会が発足したのである。

国語調査委員会の委員長は加藤弘之で主事が上田萬年である。ほかに委員が十一人と補助委員が五人いる。実質的に委員会をリードしたのは加藤と上田である。加藤は、日本の国語改革のために秀才を一人選んでヨーロッパに派遣し博言学を研究させるよう政府に建議した人で、上田はその選ばれてヨーロッパへ行った秀才である。この両人につぐ領導的位置にあったのが大槻文彦と芳賀矢一である。これらは大物だ。対して補助委員は若手の俊秀で、たとえば新村出(当時二十七歳)がはいっており、新村が京都へ行ったあとは山田孝雄がくわわった。

国語調査委員会は、最初に委員会の根本方針四箇条と調査事項六箇条とをさだめた。その根本方針第一条に、
文字ハ音韻文字(「フォノグラム」)ヲ採用スルコトヽシ假名羅馬字等ノ得失ヲ調査スルコト
とある。すなわち漢字を廃止して音標文字にすることは最初から前提になっており、かながいいかローマ字がいいかを研究するのが委員会の役目ということになっているのである。

新村出がのちにこう書いている。
當時末輩に列してゐた自分ながら、根本の第一方針に對して大不滿であつたが、これは設立當初の主旨が旣に動かす可らざるものとなつてゐたので、何とも致し方なかつた。(「國語問題と國語敎育」)
根本方針は既定であって、討議の対象とはならなかったことがわかる。
〔引用者註〕《明治三十七、八年の日露戦争後、新しい社会情勢に即応するために国定教科書を修正しようとしていた文部省は、修正に先立って仮名遣問題を解決しようと「国語仮名遣改定案」をまとめた。それは字音も国語も表音的仮名遣に改定し、用言の語尾と助動詞の長音に「う」を用いる他には長音符号を用いる、助詞「は」「へ」→「わ」「え」とし、同音の連呼によって生じる「ぢ」「づ」以外は「じ」「ず」に統一しようという本案と、用言の語尾と助詞の仮名遣に変化を及ぼさないことを特徴とする別案とから成っており、国語調査委員会や高等教育会議に諮問された。》
《しかしその仮名遣案は貴族院を中心とする保守的傾向の人々によって反対を受けた。国語の尊厳を守ろうと「国語会」「国語擁護会」というような会も生まれた。そこで文部大臣は、小学校教科書の修正を見合わせるとともに善後策を講じることとし、明治四十一年五月には「臨時仮名遣調査委員会」を設置し、仮名遣改定案を教科書に許容する可否について諮問した。これについて、大槻文彦・矢野文雄・芳賀矢一らは、発音が変れば綴りも変えるのが当然である。仮名遣は手段であるから便利なように変えるべきだ。現今社会に行われていないものを学校教育で教えるのはおかしいのであり、これは学術問題ではなく通俗問題だ。これらの主旨で賛成論を唱えた。一方、森林太郎(鷗外)・伊沢修二らは、綴りは元来保守的なものでみだりに変えてはならない。歴史的仮名遣こそ国語本来の姿であるから永遠に守るべきだ、として反対を唱えた。この時の森林太郎の反対論は、極めて整然たる論理をもつもので、言語についての保守的立場を極めて明確に述べている。》(丸谷才一編著『国語改革を批判する』、大野晋「国語改革の歴史(戦前)」、中公文庫、平成11年)
結果、諮問案は撤回され、四十一年九月には棒引き仮名遣も撤回されることとなつた。ここで注意してほしいのは、「棒引き仮名遣」にしろ「国語仮名遣改定案」にしろ、戦争と前後して議題に上つてゐることである。後述されるが、昭和に入つてからは大東亜戦争中に「標準漢字表」なるものが提出され、終戦後の占領期に至つて「当用漢字」「現代仮名遣」が出てくる訳である。我が国の官僚どもは、常に戦争を契機として良からぬ改革案を提起し、「非常時」を口実にしてゴリ押ししようとしてきたことが判るのである。
この国語調査委員会は十二年後の大正三年にいったん廃止され、その後臨時国語調査会と名をかえて再建され、昭和九年さらに国語審議会と名をかえた。性格は一貫してかわっていない。この国語審議会が戦後の国語改革を実行した。

当初の国語調査委員会の補助委員の一人に上田萬年の弟子の保科孝一がいる。いったい大学で言語学ないし国語学を学んだ人は学者であって、運動家になった人はないのだが、この保科孝一は例外で、国語改革の運動家あるいは実践家となり、明治、大正、昭和と実に四十数年にわたってこの文部省の機関――名称は上述のとおり国語調査委員会、臨時国語調査会、国語審議会とかわった。以下一々列挙するのはわずらわしいので「政府国語機関」と言う――に座をしめて、民間出身のマツサカ・タダノリ(松坂忠則)らと協力してついに悲願の国語改革をなしとげた。つまり師上田萬年の意図をつらぬいたわけだ。もっとも当の上田萬年は、その晩年のころには、かつての自分の考えはまちがっていた、と言っていたそうである。山田孝雄がそう書いている(文藝春秋昭和十七年十月号。日本國語會編『國語の尊嚴』昭和十八年國民評論社のなかで大西雅雄が引用している)。
〔引用者註〕大体エリートは現役を引退し棺桶に片足を突つ込んで、何の責任も問はれない境遇に身を置いてから本音を吐露することが多いのである。上田萬年も、本当はもつと早い時期から国語改革のをかしさに気づいてゐたのではなからうか。こういふ無責任な態度は、もちろん現代のエリートもこれを忠実に踏襲してゐるのである。だから引用者は、現役を引退してから活撥に発言するやうな人の話は真面目に聴く気が起らないのである。言ふなら現役の時に言はないと意味がないのである。
政府国語機関は、明治三十五年に発足してから昭和二十年敗戦まで四十数年間に、いくたびも内閣に対して国語改革案を建議した。ただしその建議が、政令となって実施にうつされたことは一度もない。案が公表されるたびにはげしい反対論がおこったからである。具体的にどういう人のどういう反論があったかについては、福田恒存『國語問題論爭史』(昭和三十七年新潮社)を見るとよい。現在全文をかんたんに見られるのは、森鷗外の「假名遣意見」(明治四十一年)、芥川龍之介の「文部省の假名遣改定案について」(大正十四年)など。いずれも全集にはいっている。言語学者、国語学者では、山田孝雄、橋本進吉、新村出などがしばしば反対論をのべた。それらの論はそれぞれの著作集におさめられている。
〔引用者註〕正に言ふべき時に言ふ人こそ本物なのである。そして戦前の改革案が悉く却下されたのは、言ふべき時に言ふ人が大勢ゐたからである。社会が健全であれば、権力がどんなにをかしな事をやらうとしても成功しない。人の体に譬へて言ふと、体が健康であれば、少々の病気なら跳ね返すことができる、といふことなのである。然るに敗戦の混乱といふのは、社会が満身創痍の状態だつたのであり、「当用漢字」と「現代仮名遣」の押しつけとは、抵抗できない病人に薬と偽つて毒を飲ませるが如き非道だつた訳である。
建議はつねに二つの柱から成っていた。一つは表音的かなづかい、一つは漢字制限である。

本書は漢字についての本であるから、かなづかいのことは省略し、漢字についてのべよう。

政府の目標は一貫して音標文字の採用であるが、一挙にやるのではなく、漢字を制限し、一部漢字の使用をみとめる「渡りの時期」をおき、ついで漢字を全廃する二段階方式をとった。よって建議のたびに許容漢字案を出した。

政府国語機関の委員は、当初は学者ないし識者ばかりであったが、大正期から新聞社の代表がくわわるようになり、やがてこれが多数をしめた。新聞はつねに大急ぎでつくらねばならぬものである。現在はコンピューターを使って組版するから漢字がいくらあっても平気らしいが、戦前は植字工が一つ一つ活字を拾った。文字数(文字の種類)がすくないほどすばやく新聞をつくることができる。新聞は使用漢字の範囲をせまく限定することをつねに要求した。
〔引用者註〕悪事の陰には常に新聞社が居るのである。

(高島俊男『漢字と日本人』、文春新書、平成13年)

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