2019年1月25日金曜日

国語雑感③国語問題の原点

国語問題の原点


われわれの遠い先祖たちが、はじめてみずからの言語表記を試みたのは、〔万葉〕においてであった。近江朝から百年あまりの間に、万葉びとは、漢字だけをたよりにして、それぞれの心情を托した歌の表記を試みたのである。

漢字の仮名的な用法は、すでに半島においても行なわれていたことであるが、音訓を合わせ用い、ときには漢文の訓読法をも併用するという多彩な方法は、おそらく万葉びとの成就したものであろう。そのような表記法は、人麻呂の時期に、すでに一般化していたと思われる。〔人麻呂歌集〕や〔古歌集〕、あるいは憶良の〔類聚歌林〕などは、歌集としても行なわれていたものであるから、一般の読者にも、よむことのできたものである。

〔記〕〔紀〕の歌謡が、その成書のときまでに、どういう形で伝えられていたものかは知られない。歌謡であるから伝承によったともいえるが、すでに文字が行なわれる時期に入っていて、筆録されていたとも考えられる。いまの〔記〕〔紀〕には、それらはすべて一字一音形式、すなわち仮名書きされている。また〔万葉〕のうちでも、東歌や防人歌のように自己の表記をもたなかったもの、あるいは旅人、憶良、家持など、中国の文学に親しんだ人の歌に、その形式が多いことも注目される。

〔万葉〕の歌の表記は、たぶんその作者のものであろう。すなわちそこには、単なる表記として以上に、表現としての意識がはたらいていたとみてよい。これに対して仮名表記のものは、その音を写すだけのもので、いわば無記的な方法である。漢詩人たちが、ことさらにそういう表記を好んだのは、おそらくは漢詩文に対して、特に国ぶりを示そうとしたものか、漢字のもつ表意、表象の介入を拒否したものか、あるいは字数を五・七に整えることによって、漢詩に近い詩形をうることを喜んだものか、そのいずれかであろう。いずれにしても、国語としての表現を放棄したものとみてよい。音訓を併用するいわゆる万葉形式が、当時の表現意識の上からは、一般的な方法であり、国民的な方法であった
〔引用者註〕「音訓併用」即ち「漢字を音読みさせるものと訓読みさせるものとを混在せしめる」やり方は、実に万葉以来の伝統なのである。
人麻呂のよく知られている歌に
東の野にかぎろひのたつ見えてかへりみすれば月かたぶきぬ 〔万四八〕
というのがある。その原歌は
東 野炎 立所見而 反見爲者 月西渡
であるが、いまのよみ方に達するまでには、契沖以来のながい研究を必要とした。「炎」に「かぎろひ」の訓があるのを指摘したのは契沖であるが、契沖もなお〔玉葉〕と同じく「けぶり」とよんでいる。後の時代の人がよみがたしとするこのような表記法を、当時の人はおそらく正しくよみとることができたのであろう。それは字の音訓に対する知識として、おどろくべき水準の高さである。
〔引用者註〕だとすれば、先人達が国語を文字で書き表さうとし始めた時期は、一般に考へられてゐるよりも遙かに時代を遡るものと考へる方が自然なのである。
この表記法には、助詞などを加えていない。「立所見而」のような自然的可能を所で示し、「反見爲者」という条件形、また「月かたぶきぬ」を「月西渡」のようにかくのは、みな漢文の訓読法からえたものと思われるが、それは音を示しているのではなく、ことばをしるしているのであり、ことばの律動を伝えているのである。そこには歌のリズムが感じられる。表記法がそのまま、表現としての意味をもつものであった。表現というのは、本来そういうものである。少なくとも当時の人びとは、その歌を、このように表現されたものとして理解したのであろう。
足引之 山河之瀨之 響苗爾 弓月高 雲立渡 〔万一〇八八〕
にも同じように、詩想の中心をなす名詞や動詞には、正訓の字が用いられている。形式語は宛字や仮名書きでひかえめにしてある。助詞の省略や形式語を軽くすることによって、歌の律動は字句の間にひびきわたるのである。

〔万葉〕において、このような摂受を示した漢字は、その後にも音と訓とを通じて、国語の発展に寄与してきた。漢字を訓してよむという方法は、おそらくわが国の独自の受容のしかたであり、多くの同訓異字によって、国語は語の内包をゆたかにしてきたのである。「ゆく」「かえる」というような動詞にも、漢字にはそれぞれ十字を超える訓義の字があって、それが国語の語感を多様にした。そのような万葉以来の集積が、いまの国語を形成してきたのである。

明治以後、国語は急速に近代化したが、その基盤に、このながい集積があったことは、疑問の余地がない。西洋の文化を容易に受容しえたのも、漢字による新しい語の創出が、これを助けている。カールグレンは、そのときわが国が漢字によって新訳語を作ったことを、日本の国語問題にとって運命的な失敗であったというが、私はそうは思わない。あのおびただしい用語を、漢字なしでさばき切れるものではない。カールグレンのような考えは、外国語をそのままで自国語にすることができるヨーロッパ人の妄想にすぎない。漢字は日本の近代化を助けた。そして近代的な思惟を可能にした。いまでも思想的問題を考えるのに、どれだけ漢字を必要とするか、一冊の哲学書を開いてみれば、すぐにわかることである。国語では、ものは一般であり、ことは特殊である。特殊は一般でありえないということを、「そんなことがあるものか」といいかえることはできよう。しかし「そんなことがあるものか」という哲学論議は、どうも精妙の論に入りがたいようである。

明治以後の文章は、非常に好ましい展開をしていたように思う。特に文学の分野で、それが推進されていた。多くの作家たちがそれぞれの様式をもって活動し、多彩なうちに、全体として一つの流れが生まれていた。戦争の影響も、あまりなかったように思う。漢字は自在に消化され、有効な表現の方法であった。魯迅のあのような文体さえも、漱石の影響が著しいように思われる。われわれは、もっと現代の日本語に自信をもち、誇りをもってよかったのである。内閣告示がなくても、文章はその大きな流れを改めることはなかったであろう。そして内閣告示があっても、文章の展開はあまり影響を受けぬであろう。いま、内閣告示に最も忠実なものは、新聞と、出版社の校正係である。料理の書など、この告示を無視すること甚だしいが、一般の主婦たちは、十分にそれを消化している。それは、ノモス社会における、戯画的な場面であるといえよう。

四十数年前の、未来のことばに対する私のおそれが、いまこのような形であらわれていることに、私はいささかの驚きと滑稽とを感じている。新聞にはときどき、乱暴とも失礼とも思われる品格のないことばづかいを見かけるが、市井の人たちの折り目ただしいことばづかいに接するのは、すがすがしいものである。ことばは、対話によって生まれた。神と語り、人と語り、また自らと語るためである。そういうことばは、人間の自由な精神のうちに、いまも生きているのである。ことばの自律性を信頼してほしい。ことばを、ノモスの世界から解放してほしい。そのことを訴えようとするのが、この一文を草した私の趣旨である。

(白川静『文字逍遥』、平凡社ライブラリー、平成6年)

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