2017年10月7日土曜日

五箇条の御誓文

(明治元年三月十四日)


一 ヒロ会議クワイギオコシ、万機バンキ公論コウロンケツスヘシ。
一 上下シヤウカココロイツニシテ、サカン経綸ケイリンオコナフヘシ。
一 官武クワンブ一途イツト庶民シヨミンイタマデオノオノ其志ソノココロザシケ、人心ジンシンヲシテマラサシメンコトヲエウス。
一 旧来キウライ陋習ロウシフヤブリ、天地テンチ公道コウダウモトヅクヘシ。
一 智識チシキ世界セカイモトメ、オホイ皇基クワウキ振起シンキスヘシ。

我国ワガクニ未曾有ミゾウ変革ヘンカクナサントシ、チンモツシユウサキンシ、天地テンチ神明シンメイチカヒ、オホイコノ国是コクゼサダメ、万民バンミン保全ホゼンミチタテントス。シユウマタコノ旨趣シシユモトヅキ、協心ケフシン努力ドリヨクセヨ。

万機バンキ公論コウロンケツ 「すべての政をだれが考へても正しいと思ふ意見によつてきめる」といふこと。

経綸ケイリンオコナ 「国を治めととのへるやうにする」こと。「経綸」は、糸のみだれををさめととのへるといふことから、天下を治めることの意味に転用せられてゐる語である。「易経」屯卦に、「君子以テ経綸ス。」とある。

官武クワンブ一途イツト 官吏も軍人も同じ道に向ふこと。「一途」は、一すぢの道である。

庶民シヨミン 多くの民。「万民」と同じ。

旧来キウライ陋習ロウシフ ふるくから伝はつてゐる悪いならはし。「陋習」は、「陋俗」と同じく、いやしい習はし即ち悪習慣である。

天地テンチ公道コウダウ 天地に恥ぢない正しい道。如何なる時と如何なるところに於ても、常にあやまりのない正しい道。

智識チシキ世界セカイモト 世界中から新らしい智識を採り入れること。「智識」の説明。

皇基クワウキ振起シンキスヘシ 天皇の御統治なされる国の基を一そう鞏固ならしめること。「皇基」は、「皇室の基」「皇業の基」「皇国の基」である。「振起」は、その文字のとほり、「ふるひおこす」こと。なほ一そう盛にし、なほ一そう鞏固にするといふ意味。

未曾有ミゾウ変革ヘンカク 昔から未だ一度もなかつたほど、その模様をかへる。非常なる大改革を意味する語。「未曾有」は、その文字のとほり、「未だかつてあらざる」こと。昔から一度もないことの意味。「観無量寿経」に曰ふ。「歎未曾有、郭然大悟。」

国是コクゼ 国家の大計。国家統治の根本方針をいふ。


〔大意〕
一、広く会議を起し、すべての政を、だれが考へても正しいと思ふ意見によつてきめることにする。
一、上にある者も下の者も、心を一つにして、一そうよく国を治めととのへることにする。
一、官吏と軍人との区別なく、一般国民に至るまで、それぞれ志すところを成し遂げ、心を倦ましめないやうにする(仕事を怠らないやうにする)ことが大切である。
一、昔からの悪い習慣を改めて、天地の間の何処にも行はれる正しい道に基づいて、何事も行ふやうにする。
一、世界中の新しい知識を採り入れて、大いに皇国の基礎を振ひ起すやうにする。

我が国には、未だ曾てなかつた大改革を行はうとするに当り、朕は、みづから多くの国民に先立ち、天地の神々に誓つて、大いにこの国の根本方針を定め、万民の安全を保つ道を立てようとするのである。多くの国民も、この精神に基づいて、心をあはせ、つとめはげむやうにせよ。


〔史実〕
明治元年(慶応四年)三月十四日、明治天皇は、紫宸殿に出御あそばされて、天神地祇を祭りたまひ、五箇条の御誓文を御親告あらせられた。この御誓文は、新政の大方針を明らかにしたまうたものである。特に神明に対する御誓文の形式をとらせられたのは、祭政一致の御精神に出でさせたまうたものと拝察せられる。御誓文の中の五箇条には、いづれもみな宏遠雄深なる皇謨があらはれてゐる。その一には、「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」と仰せられてある。立憲政治の淵源をここに拝することが出来る。またその中には、「智識ヲ世界ニ求メ、大ニ皇基ヲ振起スヘシ」と仰せられてある。我が国が、明治維新以来、諸外国の新知識を摂取醇化して、短時日の間に著しき文化の発展を遂げたのは、この国是に基づくものに外ならぬ。この御誓文は、明治新政の黎明を照らして、皇国の進路を明らかにし、永遠に万丈の光芒を放つ燈明台であつた。

この御誓文に対して、有栖川宮熾仁親王は、次の如き奉答文を奏せられ、三条総裁以下の公卿諸侯がこれに署名して闕下に上つた。
勅意宏遠、誠ニ以テ感銘ニ不堪タヘズ、今日ノ急務、永世之基礎、此他ニ出ヘカラス。臣等謹テ叡旨ヲ奉戴シ、死ヲ誓ヒ、黽勉ビンベン従事コトニシタガヒ、冀クハ以テ宸襟ヲ安シ奉ラン。


〔追記〕
慶応三年十月十四日、徳川慶喜が大政を奉還し、ここに王政復古の大御代となつたが、その時、有司の間に国是樹立の議が出た。今日世に現れてゐる国是案には、福井藩参与由利公正の自筆案に、高知藩士参与福岡孝弟の修正加筆したものと、福岡孝弟の浄書したものと、中外新聞外篇に掲載せられたものと、その案に木戸孝允の加筆したものと、都合四通りある。その基礎となつてゐるものは由利公正の案と思はれる。由利公正の案は、左のとほりである。
   議事之体大意
一 庶民志を遂け人心をして倦まざらしむるを欲す
一 士民心を一にして盛に経綸を行ふを要す
一 智識を世界に求め広く 皇基を振起すべし
一 貢士こうし期限を以て賢才に譲るべし
一 万機公論に決し私に論するなかれ
諸侯会盟之御趣意右等之筋に可被 仰出哉大赦の事
これを福岡孝弟が次のやうに修正した。
   会盟
一 列侯会議を興し万機公論に決すべし
一 官武一途庶民ニ至る迄各其志ヲ遂ケ人心をして倦まざらしむるを欲す
一 上下心を一ニし盛に経綸を行ふべし
一 智識を世界ニ求メ大ニ皇基を振起すべし
一 徴士ちようし期限を以て賢才ニ譲るべし
  右等之御趣意可被仰出哉且右会盟相立候処ニて大赦之令可被仰出哉
一 列侯会盟ノ式
一 列藩巡見使じゆんけんしノ式
尚別に中外新聞外篇所載「京都会盟の式」には
   盟約
列侯会議を興し万機公論に決すべし
官武一途庶民に至る迄其志を遂けて人心をして倦まざらしむるを欲す
上下心を一にして盛に経綸を行ふべし
知識を世界に求め大に 皇基を振起すべし
徴士期限を以て賢才に譲るべし
 右の条々公平簡易に基き 朕列侯庶氏協力唯我日本を保全するを要とすちかひつかさどる事如斯かくのごとく背く所ある事勿れ
かくしてこの案を内申するに至つたのであるが、当時副総裁議定三条実美さねとみ、輔弼中山忠能等公卿は、これに対し頗る意平かならざるものがあつた。かかる形勢であつたために、岩倉具視は、徴士参与職内国事務局判事大久保利通を訪うて相談する所があり、徴士参与職総表局顧問木戸孝允は、茲に左の一篇の奏議をたてまつるに至つたのである。
仰願あふぎねがはクハ前途之大方針ヲ被為定さだめさせられ
至尊親敷したしク公卿諸侯及百官ヲ率ヒ神明ニ被為誓ちかはせられ国是之確定アル所ヲシテ速ニ天下の衆庶ニ被為示度しめさせられたく不堪至願しぐわんにたへず
ここに於て会盟の主義は消えて、天皇には天神地祇に御誓祭せいさいあり、群臣盟約に就くの儀が確立し、我が國體は、益〻明らかになつたのである。而して其の盟約の文字は之を抹消して「誓」となし、「徴士期限ヲ以テ賢才ニ譲ルヘシ」の行を抹して「旧来ノ陋習ヲ破リ宇内ノ通義ニ従フヘシ」と加筆、又条々を次第せられたのであつた。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年10月6日金曜日

幕府御親征の詔

(明治元年二月二十八日)


チンツト天位テンヰキ、今日天下一新ノトキアタリ、文武ブンブ一途イツト、公議ヲ親裁ス。国威之立不立リツフリツ蒼生サウセイ安不安アンフアンハ、チン天職テンシヨク尽不尽ツクスツクサザルニ有レハ、日夜不安寝食シンシヨクヲヤスンゼズハハナハダ心思ヲ労ス。チン、不肖ト雖モ、列聖レツセイ餘業ヨゲフ、先帝ノ遺意ヲ継述シ、内ハ列藩レツパン万姓バンセイ撫安ブアンシ、外ハ国威ヲ海外ニ耀カガヤカサン事ヲ欲ス。然ルニ徳川慶喜、不軌フキハカリ、天下テンカ解体カイタイツヒニ及騒擾サウゼウニオヨビ、万民塗炭トタンクルシミオチイラントス。ユヱニチン不得已ヤムヲエズ、断然親征之議ヲ決セリ。且スデニ布告セシ通リ、外国交際モ有之コレアル上ハ、将来之処置、モツトモ重大ニツキ、天下万姓之為ニ於テハ、万里バンリ波濤ハタウシノキ、身ヲ以テ艱苦ニ当リ、誓テ国威ヲ海外ニ振張シンチヤウシ、祖宗先帝之神霊ニコタヘント欲ス。汝列藩、チン不逮フタイタスケ、同心協力、オノオノ其分ヲ尽シ、奮テ国家ノ為ニ努力セヨ。


天位テンヰ 「皇位」と同じ。天皇の御位。

文武ブンブ一途イツト 「文も武も一すぢにして」といふこと。「文と武の区別なく」の意味。「文」は文事、「武」は武事である。「五箇条の御誓文」には、「官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ」とある。「文武」は、庶政を総括していふ語。「一途」は、「一塗」と同じ。一すぢの道といふこと。「後漢書」蔡邕伝に曰ふ。「夫レ求賢之道ハ未ダ必ズシモ一途ナラズ、或ハ得顕ヲ以テシ、或ハ言揚ヲ以テス。」とある。国語では、「一途」を「いちづ」と訓んで「専ら」の意味に用ゐてゐる。

蒼生サウセイ安不安アンフアン 「万民の生活が安らかであるか、安らかでないかは」といふこと。「蒼生」は、万民即ち多くの民である。庶民・百姓・億兆等、みな同義の語である。国語では、「あをひとぐさ」とも訓んでゐる。

天職テンシヨク 最も尊い職。天照大神から承けつがせられた天皇の御地位を称せられた語と拝する。

列聖レツセイ餘業ヨゲフ 「御歴代の天皇の遺しおかれた御事業」といふこと。「列聖」は、御歴代の天皇を称する語。蔡邕の独断に曰ふ。「已故ノ前帝ヲ言ヒ、先朝ノ諸帝ヲ歴挙スルニハ、則チ列聖ト曰ヒ、祖宗ト曰フ。」

列藩レツパン 「諸藩」と同じ。諸国の大名即ち多くの藩主を仰せられしものと拝する。

万姓バンセイ 「百姓」と同じ。万民即ち多くの民のこと。

不軌フキハカ 「道ならぬことをたくらむ」こと。朝廷の命に服従しないことの意味に拝する。「不軌」は、国法を守らず謀反を企てることを意味する語。「漢書」の卜式伝にも「不軌之臣」といふ文字がある。

天下テンカ解体カイタイ 「天下の人心がばらばらになる」といふこと。天下不統一の意味。

塗炭トタンクルシミ 「水火の苦」といふに同じ。最も大いなる苦しみを喩へた語である。

万里バンリ波濤ハタウシノ 「万里も隔つた遠い海から押し寄せて来る大波小波をはらひのける」といふこと。外交上の難局を克服することの喩。


〔大意〕
謹約。「朕ははやくから天皇の御位をついで、その責任のまことに重いことを思ひ、日夜寝食を忘れてゐる。不肖ではあるが、御歴代の天皇の御遺志をついで、天下をよく治め、国威を海外に耀かさうと思つてゐる。しかるに、徳川慶喜が道ならぬことを企てたので、天下が乱れ、万民が塗炭の苦に陥らうとしてゐる。そこで、朕は、やむを得ずに、みづからこれを征伐することに決した。既に布告したとほり、外国との交際もあるから、将来の処置は、最も重大である。万民のためには、いかなる外交上の難局も、これを克服して、国威を海外に振張し、祖宗や先帝の尊い御霊に報いやうと思ふ。汝諸藩主たち、朕の及ばないところをたすけ、一致団結して、それぞれの本分を全うし、国家のために力をつくせ。」


〔史実〕
徳川慶喜の大政奉還により、王政が復古すると同時に、朝廷に於かせられては、直に庶政の改革に著手したまうた。しかるに、当時、二条城にゐた慶喜は、少しも新政に与らなかつた。会津・桑名をはじめ、譜代諸藩の藩士や、旧幕臣の中には、徳川の恩誼を思つて、心ひそかに新政を喜ばず、かくの如き処置も、畢竟薩・長二藩の計らひに出づるものとして憤慨し、甚だ穏やかならぬ形勢が見えた。つとめてこれを抑へてゐた慶喜は、事変発生をおそれ、二条城を出て、大阪城に退いたが、激昂した衆情を鎮静することが出来なかつた。明治元年(戊辰の年)正月、会津藩主松平容保かたもり、桑名藩主松平定敬さだあきは、慶喜を擁して、討薩の名目の下に、入京しようとしたが、薩・長・土・藝四藩に拒まれて、鳥羽・伏見の決戦となつた。その結果、幕府の軍の大敗となり、慶喜は、大阪城を脱出して、海路江戸に逃れ帰つた。そこで、朝廷には、慶喜以下の官爵を削り、追討の大命を下したまうた。ここに謹載したのが、その時の詔である。新政への発足に際して、かうした内乱が勃発したので、国交上の問題等をも顧慮したまうた大御心が、文辞の中に拝せられる。

かくして、有栖川宮熾仁たるひと親王が東征大総督に任ぜられ、西郷隆盛が参謀を拝して、東海・東山・北陸の三道から進んだ。慶喜は、上野の寛永寺に屛居して、謹慎の意を表した。さうして、西郷隆盛と勝安芳との会見によつて、江戸城の明渡しとなつたのである。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年10月5日木曜日

開国の御沙汰書

(明治元年一月十五日)


外国之儀ハ、先帝多年之宸憂ニ被為在アラセラレ候処サフラフトコロ、幕府失錯ニヨリ、因循今日ニイタリ候。折柄ヲリカラ世態オホイニ一変シ、大勢誠ニ不被為得止ヤムヲエサセラレズ此度コノタビ朝議之上、断然和親条約被為結ムスバセラレ候。就テハ、上下一致疑惑ヲ不生シヤウゼズ、大ニ兵備ヲ充実シ、国威ヲ海外万国ニ光輝セシメ、祖宗先帝之神霊ニ対答タイタフ可被遊アソバサルベキ叡慮サフラフ間、天下列藩士民ニ至ルマテ、此旨ヲ奉戴、心力ヲ尽シ、勉励可有之コレアルベク候事。

是迄コレマデ於幕府バクフニオイテ取結トリムスビ候条約之内、弊害有之コレアル件件ケンケン、利害得失、公議之上、御改革可被為在アラセラルベク候。猶外国交際之儀、宇内之公法ヲモツテ、取扱可有之コレアルベクアヒダ、此段アヒ心得可申マヲスベク候事。


〔史実〕
これは、明治元年(慶応四年)正月十五日、開国の御沙汰を国内に布告せしめたまうたものである。世態が一変したので、朝議の上、外国と和親条約を結ばせられることになつたから、上下一致、疑惑を起さないやうにして、大いに兵備の充実を図り、国威を諸外国に輝かすやうに、列藩士民に至るまで勉励しなければならぬとある。新政に伴ふ外交の方針を訓示せしめたまうたものと拝せられる。「宇内之公法」とあるは、今日の「国際公法」であらう。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年10月4日水曜日

国交に関する詔

(明治元年一月十日)


外国ハ先帝ノ多年宸憂シンイウセラルヽ所ナリ。幕府従来ノ失錯ヲ以テ、因仍インジヨウシテ今日ニ至レリ。今ヤ世態一変シテマタ鎖攘サジヤウヲ主トスヘカラス。因リテ宇内ノ公法ニ基キ、各国ノ交際ヲ開ク。上下シヤウカ一致シテ此旨コノムネヲ遵奉セヨ。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年10月3日火曜日

各国の帝王及び臣人に告げ給へる国書

(明治元年一月十日)


日本国の天皇、各国の帝王及び其の臣人に告ぐ。さきに将軍徳川慶喜、政権を帰さむことを請ふや、制して之をゆるし、内外の政事は之を親裁す。すなはち曰く、従前の条約には、大君の名称を用ゐたれど、今よりして後は、まさに換ふるに天皇の称を以てすべし。而して各国交接の職は、専ら有司等に命ず。各国の公使、の旨を諒知りやうちせよ。


〔史実〕
王政復古の大号令が発せられてから、間もなく、その年は暮れて、慶応四年(1868)の春を迎へた。ここに謹載したのは、一月十日、各国の帝王及び臣人に告げたまうた国書である。将軍徳川慶喜が政権の返上を請うたので、これを許し、今後は、内外の政治を親裁し、従前の条約に用ゐた大君の称を廃して、天皇の称となし、外交の事をばそれぞれの有司に命ずる旨、仰せ出されてある。「大君」は、徳川時代に幕府が外国との交際上将軍の別号として使用した僭称であつた。勅命を以て、諸外国に対し、天皇の御地位を明らかにせられ、徳川将軍を日本国主の如くに誤り信じてゐた諸国人の認識を是正したまうた新日本の外交方針に関する第一の御宣言である。なほ同年九月八日、一世一元の制を定めたまうて、明治と御改元あらせられたので、慶応四年は、明治元年となつた。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年10月2日月曜日

王政復古の詔

(明治元年一月)


癸丑キチウ以来イライ国家コクカ多事タジ先帝センテイ宸襟シンキンナヤマス、衆庶シユウシヨトコロナリ。イマ王政ワウセイフクシ、国威コクヰ挽回バンクワイシ、大小ダイセウ政令セイレイイツ公議コウギケツシ、天下テンカ更始カウシセン。四方シハウコレタイセヨ。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)

2017年10月1日日曜日

王政復古の大号令

(慶応三年十二月九日)


徳川とくがは内府ないふ従前じゆうぜん御委任ごゐにんの大政たいせい返上へんじやう将軍職しやうぐんしよく辞退じたい両条りやうでう今般こんぱん断然だんぜん被聞食きこしめされさふらふそもそも癸丑みづのとうしのとし(嘉永六年)以来いらい未曾有みぞう国難こくなんにて先帝せんてい頻年としごろ被悩宸襟しんきんをなやまされさふらう御次第おんしだい衆庶しゆうしよ所知しるところにさふらふ依之これによつて被決叡慮えいりよをけつせられ王政わうせい復古ふくこ国威こくゐ挽回ばんくわい御基おんもとゐ被為立たてさせられさふらふあひだ自今じこん摂関せつくわん幕府等ばくふとう廃絶はいぜつ即今そくこん先仮まづかり総裁そうさい議定ぎぢやう参与さんよ三職さんしよくを被置おかれ万機ばんきを可被為行おこなはせらるべく諸事しよじ神武創業じんむさうげふ之始のはじめもとづキ、縉紳しんしん武弁ぶべん堂上だうじやう地下ぢげ無別べつなく至当したう公議こうぎつくシ、天下てんか休戚きうせきおなじ可被遊あそばさるべき叡慮えいりよつきおのおの勉励べんれい旧来きうらい驕惰けうだ汚習をしふあらヒ、尽忠じんちゆう報国はうこくまこともつテ、可致奉公ほうこういたすべくさふらふこと

徳川とくがは内府ないふ 「内府」は、「だいふ」とも訓む。内大臣の異称。「権記」正暦四年正月の中に曰ふ。「参内府、大饗也。」この「徳川内府」は、徳川慶喜のことである。

将軍職しやうぐんしよく 軍を統率する職といふ意味の語である。通常、「将軍」といふ語は、征夷大将軍の略称として用ゐられてゐる。古代には、東夷征伐に派遣せられる武将を、征夷将軍といひ、征夷大将軍といつた。後鳥羽天皇の建久三年に、源頼朝が征夷大将軍に補せられ、兵馬の権を掌握してから、常置の職となり、足利氏も徳川氏も、みなこの職に就いた。

宸襟しんきん 天皇の大御心。宸衷・叡慮と同じ。「襟」は「えり」から転じて「胸」「心」の意味に用ゐられる。何遜の詩に曰ふ。「宸襟動時豫。」

国威こくゐ挽回ばんくわい 衰へてゐた国の威光を、もとのとほりにひきもどすこと。「辞源」に曰ふ。「已ニ去ル者ヲ挽引シ復返セシムルヲ謂フナリ。故事ニ将ニ収メテツトメ振興ヲ図ル者、亦挽回ト曰フ。」

摂関せつくわん 摂政関白の略。摂政も関白も共に職名。幼帝または女帝を輔けて、万機の政を摂行する職を、摂政といふ。応神天皇の御幼時に、神功皇后が摂政したまうたことにはじまる。万機の政務を総べて、天皇を輔佐し奉る職を関白といふ。関白の語は、万機に関り白すといふ意味から生じたものである。宇多天皇の御時に、藤原基経がこの職に補せられてから、代々藤原氏の専任となり、更に江戸時代の末まで続いた。「摂政」の文字は、「史記」の舜紀に、「堯老ユ、舜ヲシテ天子ノ政ヲ摂行セシム。」とあり、同じく五帝紀に、「舜挙ゲラルルヲ得テ、事ヲ用ヰルコト二十年ニシテ、堯遂に摂政セシム。」とある。また「関白」の文字は、「漢書」の霍光伝に、「諸事皆先ヅ光ニ関白シ、然ル後ニ天子ニ奏御セヨ。」とある。現今では、天皇が成年に達せられざる時、また久しき御不豫により、大政を御親らみそなはすこと能はざる時、天皇の御名によつて、大権を行ふ憲法上の御地位を、摂政と申上げてゐる。ここにある摂政が、現今の摂政と異なることはいふまでもない。

縉紳しんしん武弁ぶべん 朝廷に仕へ奉る文官と武官をいふ。「縉紳」は、「搢紳」とも書く。「搢紳家」は、「くげしゆう」とも訓んだ。「漢書」郊祀志に、「其ノ語ハ経ニ見エズ、縉紳ハ道ハズ。」とあり、顔注に、「李奇曰ク、搢ハ挿ナリ、笏ヲ紳ニ挿ス、紳ハ大帯ナリ。」とある。官位高き人の称となつてゐる。「武弁」の「弁」は、かんむりを意味する文字である。故に、「武弁」は、武官の被る冠といふ意味から、転じて「武官」「武士」「武人」を意味する用語となつたものであらう。「後漢書」輿服志に、「武冠ハ一ニ武弁ト曰ヒ、諸武官コレヲ冠ス。」とあり、「文献通考」職官門に、「校尉ハ漢ニ在リテハ、兵師要職ト為シ、而シテ後世則チ武弁ノ不歯フシスル所ノ冗秩ト為ス。」とある。

堂上だうじやう地下ぢげ 「堂上」は、「殿上」と同じ意味の語である。五位以上の公卿の中、昇殿を許されたものを「殿上人」といひ、これを「地下」に対して、「堂上」または堂上方ともいつた。「地下」は、昇殿を許されない官人のことである。またこれを「地下人」ともいつた。「堂上」は、転じて禁裏に仕へる公卿の称となり、「地下」は、転じてこれらの公卿が、それ以外の者を称する語となつた。ここに「堂上地下」とあるのも、この意味に用ゐられてあるものと思ふ。

休戚きうせき 「喜びと愁ひ」または「善きことと悪しきこと」を意味する語である。「字典」に曰ふ。「休ハ、美善也。慶也。戚ハ、哀也。憂也。」

叡慮えいりよ 天皇の大御心。聖慮・宸慮・宸襟と同じ。「保元物語」に曰ふ。「一官重仁親王を位に即奉らんとや思召けむ叡慮計がたし。」

驕惰けうだ汚習をしふ 「おごりなまける悪い習慣」といふこと。「驕惰」は、敖惰・驕怠と同じく、おごつて為すべき事を怠ることである。「宋史」韓琦伝に曰ふ。「鼓行シテススミ、賊ノ驕惰ニ乗ズレバ、之ヲ破ルコト必矣。」


〔大意〕
徳川内府が、前から御委せになつてあつた大政を返上し、将軍職を辞退するといふ二つのことを、このたびきつぱりとお聞き入れなされた。そもそも嘉永六年この方、今までにかつて一度もなかつた国の災難のために、先帝(孝明天皇)が、毎年深く大御心を悩ませたまうたことは、多くの人々のみな知つてゐるところである。よつて、御決心あそばされ、古へのとほりに、大政を天皇の御手にとりたまひ、衰へた国の威光をもとのやうに引きもどす基をお定めなされたから、これから摂政・関白・幕府等の官職は、廃してしまひ、今のところ、先づ仮に総裁・議定・参与の三職を置かれて、すべての政務を行はせられ、万事、神武天皇がこの国をおひらきになつたはじめにもとづき、文官と武官、朝臣とその他の者との区別なく、だれが考へても正しいと思はれる意見によつて相談をまとめ、天下の万民と喜びも憂ひもともになされる大御心と拝し奉るによつて、みなそれぞれ自分の職務を励み、今までのやうなおごり怠つてゐる悪い習慣を、洗ひ流してしまひ、君の御為国の為につくすといふまごころをもつて御奉公いたされたい。


〔史実〕
内外の時局がますます紛糾して、内乱が一度ひとたび起らば、外患がこれに乗じて必ず到らうとしてゐる幕末の危機に、前土佐藩主山内豊信は、将軍徳川慶喜に、大政の奉還を建白した。つとに天下の情勢を察知して、国家の前途を憂慮してゐた徳川慶喜は、豊信の建白を容れ、断然、意を決して、慶応三年十月十四日、上表して大政の奉還を奏請した。その上表文は、次のとほりであつた。
臣慶喜謹テ皇国時運之沿革ヲ考候ニ、昔シ王綱紐ヲ解キ相家権ヲ執リ、保平之乱政権武門ニ移リテヨリ、祖宗ニ至リ更ニ寵眷ヲ蒙リ、二百餘年子孫相受、臣其職ヲ奉スト雖モ、政刑当ヲ失フコト不少スクナカラズ、今日之形勢ニ至リ候モ、畢竟薄徳之所致イタストコロ、不堪慙懼候。況ヤ当今外国之交際日ニ盛ナルニヨリ、愈朝権一途ニ出不申候而者綱紀難立候間、従来之旧習ヲ改メ、政権ヲ朝廷ニ奉帰、広ク天下之公議ヲ尽シ、聖断ヲ仰キ、同心協力、共ニ皇国ヲ保護仕候得ハ、必ス海外万国ト可並立候。臣慶喜国家ニ所尽、是ニ不過ト奉存候。乍去猶見込之儀モ有之候得者可申聞旨、諸侯ヘ相達置候。依之此段謹而奏聞仕候。以上。
御践祚後間もなき明治天皇には、慶喜の奏請を御嘉納あらせられたので、ここに十五代二百六十五年の間続いた徳川幕府の政治が終焉を告げて、王政復古の御代となつた。源頼朝が鎌倉幕府を創立して、政権が武門に移つてから、六百八十年の歳月を経てゐる。

かくして、その年(慶応三年)十二月九日に発せられたのが、ここに掲げ奉つた王政復古の大号令である。これは、他の詔勅とその性質を異にしてゐる。詔を奉じて、君側の重臣がその聖旨を万民に公布したものである。しかし、この大号令の中には、維新の皇謨が明らかに示されてゐる。諸事神武天皇御創業の始に基づき、上下の別なく、至当の公議を竭さしめて、庶政を一新あそばされようとする宏遠雄深なる御経綸を、この大号令の中に窺ひ奉ることが出来る。故に、これを詔勅と同じやうに謹載して奉誦するのである。


三浦藤作 謹解『歴代詔勅全集 第5巻』(河出書房、昭和15年)