「小野田さんを発見に行き、逆に小野田さんに発見された、鈴木です」そんな鈴木さんとのジャングルでの出遭ひを、ご著書『たった一人の30年戦争』の中で小野田さんはかう書き記してゐます。当時、小野田さん51歳、鈴木さんは24歳。昭和49年2月20日の事です。
私の〝終戦記念日〟は、昭和四十九年、元上官の谷口義美少佐から「任務解除命令」を受け、フィリピン空軍司令官に投降した三月十日である。
この季節になると、私はもう会うこともできなくなった一人の青年を思い出す。鈴木紀夫君(昭和六十一年十二月、ヒマラヤで遭難死)。私の運命を百八十度転換させた男である。
「 おいッ」
私は男の背後から声をかけた。
炊事のため火を燃やしていた男は立ち上がってこちらを見た。大きな丸い目、長髪、青黒いズボン(ジーパン)でサンダルをつっかけている。
「ボク、日本人です。ボク、日本人です」と繰り返し、彼はぎこちなく軍隊式の挙手の敬礼を二度した。手が震えていた。
私は腰だめの姿勢で銃を構えていた。安全装置をはずし、右人差し指が引き金にかかっている。顔を男の真正面に向けたまま、眼球だけを左右に走らせた。人の気配がすれば男を射殺する。
「小野田さんですか?」
男はうわずった声で聞いた。
「そうだ、小野田だ」
「あっ、小野田少尉殿デアリマスカ」
急に軍隊調になった。
「長い間、ご苦労さまでした。戦争は終わっています。ボクと一緒に日本に帰っていただけませんか」
私は彼を怒鳴りつけた。
「オレには戦争は終わっていない!」
小野田さんはこの時より四日も前から、ジャングルの中で一人キャンプをする鈴木青年を、山の斜面から監視してゐたのださうです。この青年を、てつきり敵が放つたオトリとみなして、正体を探る為に自分から近づいたのでした。
「小野田さん、陛下や国民が心配しています」
「お前はだれの命令を受けてきたのか?」
「いえ、単なる旅行者です」
(怪しい男だ。敵が日本語のできるやつをオトリに送り込んできた)私は警戒心を強めていた。
ただ一つ、男には私に銃の引き金を引かせることをためらわせた点があった。サンダル履きのくせに、毛の靴下を履いていた。軍人ではない。もし住民だとしても、靴下を履く階層は靴を履く。
一年四カ月前、小塚金七一等兵が〝戦死〟したことで、フィリピン空軍は私が一人だということを確認していた。私を射殺する最も効果的な戦術は、私の行動地点に少人数の狙撃兵を潜伏させることである。鈴木紀夫君はその通り、私の前に現れた。
彼はポケットから米国製たばこのマールボロを取り出し、私にすすめた。
(米国製たばことは、ますます怪しいやつだ)
火をつけた。久しぶりのたばこだった。
「小野田さん、いろいろ話をしたいのですが」
私はすでに話しすぎていた。この正体不明の〝日本語をしゃべる男〟と話す気になったのは、小塚の戦死以後、独り言を除いて人と話したことがなかったせいかもしれない。
「山へ行け!」
この後、二人は山の斜面に場所を移し、腰を下ろし話を再開しました。
「ところで君の名前は? 聞くのを忘れていた」この時撮つたものは全て失敗してゐて、翌朝改めて撮られ、小野田さんの身元確認の根拠となつたのが下の有名な写真です。左腕をわざと裏返してゐるのは、本人であることの証明である傷跡を見えるやうにする為だつたさうです。
「鈴木紀夫です。紀州の紀に、オットの夫です。で、小野田さんの下の名前(寛郎)はカンロウと呼ぶんですか」
「ヒロオだ」
「ヒロオ? ヘーぇ、日本語ってむずかしいですね」
私の神経がピンととがった。
(この野郎「日本語はむずかしい」だと? 外国人の感覚じゃないか)
彼は疑われていることを気にした様子はない。
「小野田さん、写真撮らしてください」
「ああ、いいよ」
私には計算があった。彼に写真を撮らせれば、私の実在が証明され、敵側にも日本にもやがて何か反応が表れるだろう。一つの賭けであった。
話し始めて既に何時間も経ち、辺りは真暗になつてゐたさうです。鈴木さんが「写真がちやんと撮れたかどうか自信がないから明日もう一度来てください」と言ふのですが、小野田さんの居ない間にフィリピン軍に通報されてはかなはないから、それならばいッその事、鈴木青年のキャンプで夜を明かさうといふ事になりました。
「では、今晩はゆっくり飲み明かしましょう」このお二人の出遭ひこそ、戦前日本と戦後日本との突然の、そして極めて劇的な出遭ひだつたと思ふのです。
彼はジンのびんを持ち、紙のコップを差し出した。
「オレは酒は飲めないんだ。戦前、中国で商社員をやってたころさんざん練習したんだが」
彼は「残念だなあ」と一人で飲み始め、「小野田さんは甘党ですか」と豆の缶詰を開けた。
私は彼が先に口にするのを待った。毒殺を警戒したからだ。私の疑いには頓着なく彼は食べ始めた。私も豆をひとさじ、口に含んだ。三十年ぶりの祖国の味だった。
「ところで、君が島へきた本当の目的は?」
「小野田さんに会うためですよ。ボクは戦後生まれだけど、いまの日本と戦前では人間まで変わってしまっているんですよね。新聞で見て本当に陸軍の将校さんが残っているなら、戦前の日本人の考え方を生で聞いてみたい……と」
なんだけわけのわからない話である。
「オレは民主主義者だよ。いや、自由主義者の方がいいな。だから兵隊になる前は中国で随分勝手気ままに遊んだものだ」
「小野田さんは英雄です」と、彼はだし抜けにいった。私は当惑し「英雄とは文武両道に秀でた男をいう」と辞書のような解釈を持ち出し、「オレは英雄じゃない。軍人として与えられた任務をただ忠実に遂行しているだけだ」と説明した。
「一億玉砕、百年戦争を叫んで日本は戦争に突入した。でも現実は、二発の原爆で無条件降伏です。小野田さんは当然のことをしていると簡単にいうけど、ほかの日本人はあっさり手を上げてしまったんですよ。やっぱり英雄だと思うな」
以下は小野田さんの帰国会見の動画です。2:45~、鈴木さんとのジャングルでのやり取りを、小野田さんが紹介してゐます。感動的です。
日本は戦後占領政策によつて、よく言はれるやうに「茹で蛙」の如く知らない間に平和ボケさせられて行きました。戦前を知る世代といへども、何時の間にか所謂「平和」に慣らされてしまつて、本来の姿を思ひ出せなくなつてゐたかも知れません。そんな時に、それこそピンピンと活きの好い野生の蛙の如き、戦前をそのまゝ真空パックした様な小野田さんが、その「茹で汁」の中へ跳び込んで来たのでした。
小野田さんが生還されなかつたら、現在の日本はもしかすると、もつとどうしようもない日本になつてゐたかも知れません。鈴木さんこそ、小野田さんを帰国させたことで、日本を窮地から救つた英雄の様な気もします。ご家族が呼びかけても姿すら現さなかつた小野田さんの気持ちを、戦後世代で見ず知らずの鈴木さんが変へさせたのでした。何か大いなる力が、小野田さんを生還させ日本を救ふ為に、お二人の出遭ひを演出したのだと思へてなりません。
とは言へ、小野田さんによると鈴木青年は当初、日本に連れ戻す為に小野田さんを探しに行った訳ではないさうです。(笑)
私は、おいおい、この男はいったいどうなっているのか、と思った。殺されるかもしれない危険を冒してやってきて、私から戦前の話を聞き、いくらかでも自分の疑問を解消したらまた日本へ帰っていく気なのだろうか。この男、何が目的なのか?
無鉄砲で常識破りの鈴木君らしく、こんな大胆な提案もした。
「小野田さんは日中国交回復(昭和四十七年九月)を知っていますか。いままで仲良くしていた台湾を切って、中共(中国)とつながるのは人間の信義に反する。小野田さんの写真を撮って日本政府に見せ、居場所を教えることを条件に日台関係を改善させる。小野田さん、人質になってもらえませんか」
〝人質〟はともかく、私も「信義に反する」という彼の考えには同意見だった。しかし鈴木君は、私とひと晩語り明かしたあと「ひたむきに戦っている小野田さんを利用するのはやめよう」と考え直したという。
帰国直前、マニラの空港で 戦前が戦後を見つめる眼差しは、斯くも優しい |
小野田さんと鈴木さんの友情は、鈴木さんが昭和六十二年に亡くなるまで続きました。
…昭和六十二年五月、ブラジルのわが家へ衝撃的な知らせが届いた。
「鈴木紀夫君、ヒマラヤで遭難死か」――。
あの鈴木紀夫君が死んだ!?――信じられない思いと、不吉な予感が交錯した。私が東京で鈴木君と会ってから、まだ一年しかたっていなかった。
昭和六十一年四月、久しぶりに帰国し、長兄敏郎の家にくつろいでいると、鈴木君は二人の子供と京子夫人の一家で駆けつけてくれた。
食卓を囲み、陽気に話が弾んだ。帰りぎわ、私は鈴木君にいった。
「こんなかわいい二人の子供の親になったんだから、少しは考えなければね、鈴木君」
彼はうなずいたように、私には見えた。
だがその五カ月後、彼は「これが最後だ」といい残して、六年ぶりに六度目のネパールへ旅立ったという。
小野田さん(右)と鈴木さん(中) 最後の団欒 |
鈴木さんは小野田さんを発見したことで「冒険家」と呼ばれるやうになり、それが本人にとつて重荷になつたさうで、昭和五十年から「雪男を発見する」為にヒマラヤに出かけるやうになりました。遭難時、鈴木さんは37歳でした。
昭和63年1月、鈴木さんの遺体発見から3ヶ月後、小野田さんはブラジルから日本経由でネパール・カトマンズに向かはれました。ヘリコプターで標高2800㍍の集落まで上り、その後、シェルパと共に3晩かけてダウラギリⅣ峰(3900㍍)を目指されました。
三十年間のルバング島ジャングルからブラジルへ、熱帯生活に体が適応してしまっている私は、とくに肺炎と高山病に注意しなければならなかった。帰還直後、和歌山の実家で桜が満開なのに三日間振った雨のため肺炎になったり、初夏に出かけた北海道では寒冷ジンマシンにかかってしまい、不覚にも病院の診察室のドアの前で意識を失ったこともある。だが、このヒマラヤ行きだけは、中途で挫折しては鈴木君に合わす顔がない。
こんな過酷な大自然の中で、鈴木君はじっと雪男が現れるのを待っていたのだろうか。
彼はルバング島でも、密林を歩くでもなく私に呼びかけるでもなく、川のほとりにテントを張って私が出現するのを何日間も待ち続けていた。
やっと鈴木君のベースキャンプが見える氷の稜線にたどり着いた。ここから四五度はある谷の急斜面をトラバースして、向こうの斜面に渡らねばならない。シェルパを見倣って、私は雪の中から露出している岩に手をかけながらトラバースした。深いクレバスの底で、粉雪が渦巻いていた。
天候が急激に悪化してきた。眼下に鈴木君が雪崩とともにのみ込まれた谷が落ち込んでいた。
鈴木君はなぜ、食糧補給のため下山したシェルパの帰りを待たずに、急にこんな危険な場所にテントを移動したのだろうか。
きっと彼は、雪男を見たのだ。夢を実現したのだ。そうでなければ、慌ただしく一人でベースキャンプを離れて、雪崩に遭遇するような現場へ行くはずがない――私は、そう信じたかった。
私はリュックからウイスキーとたばこを取り出して供えた。あの日、鈴木君が震える手で私にすすめた米国製たばこ「マールボロ」である。
小野田さんと鈴木さん、お二人は正に、それぞれのやり方で「戦後」と闘つた戦友だと思ひます。