16日は小野田寛郎さんの一回忌です。フィリピン・ルバング島で30年近くに亘り、最後の一人になつても戦ひ続けた、世界に誇るべき軍人の鑑は、戦後の日本にとつても大切な方でした。
昨年読んだ小野田さんのご著書に興味深いご先祖様のお話が載つてゐたのでご紹介します。
こんな小野田家には、実は先祖代々伝わる一つの口伝がある。小野田家の負けじ魂のルーツに関わる話である。少し余談になるが、ここで紹介したい。今はもう、私がそれを継承する最後の一人になってしまった。最後まで天皇に服従しなかつた者の子孫が、2000年餘り後、今度は皇國の為に聨合国に対し絶対に降伏しようとしなかつた、といふのは何かとても示唆的な気がします。
中身は古代の神武天皇にまで遡るが、ひとことで言えば、小野田家は名草戸畔という古代の首長の子孫だということだ。名草戸畔は『日本書紀』にただ一か所「神武に殺された」と出てくる。
私が聞いた口伝によれば、神武が全国を支配していく過程(神武東征)で、他の諸族は次々に屈服したにもかかわらず、和歌山の名草(現在の海草郡)の人々だけは名草戸畔がリーダーとなって迎え撃ち、神武軍を撃退した。それでやむなく神武軍は紀伊半島を迂回して熊野に入らざるを得なかった。
実はこのとき名草戸畔は戦死したのだが、土地の人々はその死を悼 んで、遺体を頭、胴体、足の三つに分断し、それぞれ別の神社に埋めてお祀りした。その頭 を祀っているのが宇賀部 神社(海南市、通称おこべさん)で、私の実家である。神社といっても、実は小野田家の先祖のお墓でもあるのだ。
だから、名草の人々は最後まで神武に屈服したとは思っていない。負けん気が強いのである。やがて神武が初代天皇として日本を統治するようになり、役人がこの地へやってきても、結局、治めきれなかったという。
こういう反骨精神は、今でも紀州人の中に流れているし、私も確実にそれを受け継いでいる。ジャングルでの戦いやブラジルでの牧場開拓は、こうした私の負けず嫌いの成せるわざだったかもしれない。(『生きる』、小野田寛郎、PHP研究所、p.213)
戦後、コロンと占領軍側に呆気なく寝返つてしまつた軽率な方々には、是非、小野田牧場の草でも食んで反省して欲しいものです。
日本書紀巻の三
六月 乙未朔丁巳の日、軍、名草邑 に至りて、則ち名草戸畔 といふ者を誅 ふ。〔戸畔、此をばトベと云ふ。〕(黒板勝美編 『日本書紀』、岩波文庫、p.11)
神皇正統記
天皇舟檝 をとゝのへ、甲兵 をあつめて、大日本洲 にむかひ給ふ。みちのついでの國々をたひらげ、大やまとにい りまさむとせしに、其國に天 の神饒 の速日 の尊の御すゑ宇麻志間見 の命と云ふ神あり。外舅 の長髓彦 といふ、「天神 の御子兩種有んや。」とて、軍 をおこしてふせぎたてまつる。其軍こは くして皇軍 しばしば利をうしなふ。又邪神毒氣 をは きしかば、士卒 みなや みふせり。こゝに天照太神、健甕槌 の神をめして、「葦原の中つ洲 にさわぐおとす。汝ゆきてたひらげよ。」とみことのりし給ふ。健甕槌の神申 給ひけるは、「昔國をたひらげし時の劍あり。かれをくださば、自 らたひらぎなむ。」と申て、紀伊國 名草 の村に高倉下 命と云ふ神にしめして、此劍をたてまつりければ、天皇悦 給て、士卒のやみふせりけるもみなおきぬ。
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