二、世界大戦に於ける宣伝謀略戦
近代戦に於ける思想宣伝戦は、武器に依らざる戦争と呼ばれ、毒ペン、紙の毒瓦斯と別名され、その威力は優に数ヶ軍団の力にも匹敵するものと謂はれてゐるが、世界大戦中に行はれた軍事的宣伝謀略の分野は、(一)
対敵宣伝謀略と、(二)
対内宣伝、(三)
対外宣伝謀略の三分野に分ける事が出来るのである。
対敵宣伝謀略は、(イ)
直接敵軍を目標とする場合と、(ロ)
敵の後方国内を目標にするのと、(ハ)
敵の同盟国及同情国に対する場合の三者に分れてゐる。
対内宣伝とは自国軍隊の戦線及自国後方国内に対する工作の二大分野に分ける事が出来る。
対外宣伝謀略は中立国及第三国に対する宣伝工作である。
(イ)、対敵宣伝謀略
直接敵国に対する思想宣伝戦は、先づ敵国軍の志気を沮喪せしめ之を潰乱に陥れ、又は敵軍の判断を誤らせて指揮を攪乱し、其の作戦を阻害し或は敵軍内に反乱、暴動、革命を起させ、その虚に乗じて自国の勝利を誘導し、或は降服、退却を煽動して、戦はずして勝つといふ目的の為に遂行されるものである。
敵国の後方に対する目的は、敵国民の銃後の統一を破壊して戦線との連絡を遮断し、戦争遂行の能力を低下或は破壊するもので、敵国後方に革命、暴動、一揆を起したり、流言を発して不安と混乱を助成し、或は虚報を以て戦意を失はしめ、反軍思想、反戦思想を流布して国家総動員の妨害、軍需工業従業員のストライキ、怠業の煽動及徴兵拒否の助長をなし、或は亦敵国要人の暗殺、勢力失墜の煽動、政治家の反政府運動の助長、敵国新聞の買収、通信機関の阻害、破壊等を行ふものである。
(ロ)、対内宣伝
積極的方面と消極的方面とに分たれてゐる。積極的方面は、戦線兵士及銃後国民に対して攻撃精神、犠牲愛国精神を強化し、挙国一致戦争を遂行して以て戦勝を確保せんとするものであり、消極的方面の工作は、出征軍及後方国民に対する悪宣伝及煽動の防衛、克服、排撃を目的とするものである。
(ハ)、対外宣伝謀略
敵国に対する自国の開戦の正当なる事、正義に立脚したる事等を認識せしむると同時に、敵国に対する悪感情を起さしめ、自国の優勢を示し、自国に対して好感を持たしめ、成し得れば中立国を味方として戦争に参与せしめるか、或は亦我に有利な好意的条件の下に中立国たらしめる為に工作するのである。
以上は戦時に於ける宣伝戦の要目であるが、次に世界大戦時に於ける著名なる事例を挙げて参考に供する事にする。
(二)、戦線攪乱崩壊に成功した宣伝の様式
(a)大戦中、特に聯合軍は独軍に対し、ビラ、リーフレット、新聞等の印刷物を、飛行機に依り或は特殊装置の軽気球によつて直接戦線又は国内に撒布し、又は中立国を経由して密送した。右はリーフレットのみでも数千万部に達したもので、同文書中には独軍の敗北と国内の暴動、混乱、飢餓の通告、捕虜として投降せば聯合国側に於て優遇すべき事、独逸皇帝に対する罵詈讒謗、独逸政府の攻撃、革命に就いての煽動等が載せられてゐた。
(b)中立国から輸入する各種の食糧品の包紙、戦地軍人に対する餞別品の包紙、又は慰問袋等の中に降服誘導、戦争停止、革命煽動の宣伝文が記入され又は封入されてゐた。
(c)戦線兵士及軍需工場の労働者に秘密印刷物を伝播し、或は手紙を捏造して戦線の兵士及其の家族に対し革命、逃亡の煽動を行つた。
(d)停車場、料理店、酒場等の兵卒或は労働者に、平和及革命に関する宣伝ビラを撒布したりスローガンを掲げた。
(ホ)、第三国離反の宣伝
大戦中主として独逸側の工作に観られるもので
(a)英国アイルランドに暴動を起し、アメリカ内のアイルランド系の米人の同情を喚起して、英米を離間せしめんとして失敗した。
(b)印度、アフガニスタン等に暴動を起し、英国から離反せしめやうとして失敗した。
(c)大戦前期に於て米国内に反戦平和運動を起して一時成功を観たが、ルシタニア号撃沈事件を機として失敗した。
(へ)、国内に衝動を与へた宣伝
(a)一九一八年の秋頃からロシア革命の餘波がドイツ国内に侵入しロシア大使ヨッフェの資金供給、多数煽動者のドイツ潜入に依つて一斉にドイツ国内に革命宣伝が展開され独立社会党、スパルタクス団、及左翼労働組合による政治的示威運動、軍需工場のストライキ、暴動が続出した。
(b)
伊太利其他中立国が相次いで聯合軍側に参戦した事を空中から独逸国内に宣伝した為、独逸国民の戦意が急激に低下した。米国参戦の報道も永く独逸政府の手に依つて秘められてゐたが聯合軍の宣伝工作に依り異常な衝激を独逸国民に与へた。
(ト)、大戦中の革命誘導の宣伝
(a)一九一七年三月以降の露西亜革命の煽動
此は独逸側が工作して成功したもので、封印列車を仕立てゝレーニン等を独逸からロシアに送つた事は周知である。
(b)一九一七年五月の仏国々民及軍隊の叛乱
此は露西亜革命の影響と独逸側の工作によるもので、エイヌ会戦に仏軍が大敗北を来した時、独逸側の宣伝に乗ぜられて仏軍帰休兵達が反乱を起し、戦線へ向ふ可き軍隊は巴里に向はんとして一時十数ヶ師団が之に合流し、フランスは危機に陥つた。此の事件は当時のフランス陸軍大臣パンルヴェをして、「当時ソアッソンと巴里の間に全然信頼するに足る軍隊といつては、僅かに二個師団に過ぎなかつた。若し独軍が此の瞬間に大攻撃を開始したならば、事態は極めて危険となつたに違ひない。」と嘆息せしめたものである。
(c)一九一八年八月以降の独逸革命の煽動
八月に於けるフリードリッヒ・デア・グローセ号及ウエストファレン号の水兵暴動、十月キール軍港に於ける水兵の反乱、チューリング号の反乱と降服事件、十一月五日ハンブルグの革命、暴動、同八日のベルリン革命、暴動は終にカイゼルをして亡命せしむるに至つたのである。
(チ)、大戦中に於ける列国の宣伝組織体
(a)英国は世界大戦勃発直後、一九一四年八月、平時から準備されてゐた宣伝機関を拡大して新聞局を設置したが、更に一九一七年一月には別に情報局を増設し、各種宣伝事業を一括して活動強化した。次でノースクリッフ卿外三名を以て成る顧問委員が組織され、卿は自ら宣伝及政略関係の使命を帯びて米国に渡り、大いに活動するところがあつたが、一九一八年の二月に至り情報省が設置せられ、ビーバーブルック氏が情報大臣の椅子を占め、ノースクリッフ卿は対敵宣伝部長の職に就いた。其の後曲折を経てノースクリッフ卿が宣伝政策委員会の全指導を行ふ事になり、大々的宣伝工作の結果終に独逸を内部的に崩壊せしめ、戦勝に一大役割を果したのである。
(b)米国は一九一七年四月世界大戦に参加後、大統領ウィルソンに依り公報委員会が組織せられた。この組織は国務長官、陸、海軍大臣
並にジョージ・クリール氏を以て編成せられ、クリール氏が公報委員会の議長となつて、対内、対外宣伝事業の一切を統轄したのである。
(c)仏国では外務、陸軍、海軍の各省が
夫々宣伝機関を持つて、互に協調しつゝ宣伝を実施したが、一九一五年四月には早くも空中宣伝班を設け、一九一七年には新聞局を設置し、同年対外宣伝委員会が結成され、一九一八年には情報宣伝委員会が全力を挙げて対敵宣伝に従事した事が知られてゐる。
(d)独逸側に在つては大戦間の宣伝は、最初不統一のまゝ一つの宣伝用機関紙を利用するに過ぎなかつたが、軍事当局と各省間に幾多の紆餘曲折が繰り返された後、ルーデンドルフ将軍の提唱に依り、一九一八年八月に至り、漸く宣伝組織を設置する事になつたが、時既に遅く、遂に聯合国側の猛烈なる宣伝には対抗する事が出来ず、敗北の一因となつたのである。
以上の如く世界大戦に於ては史上曾て観ざるところの宣伝戦を展開したのであるが、その手段とされたものは、新聞、雑誌、パンフレット、其の他の言論報道機関及飛行機、軽気球の利用、ビラの撒布、ポスターの貼付、電報の利用、活動写真、幻燈器の利用、情報の編緝、演説、示威運動、口伝宣伝、流言の散布等々汎ゆる利用し得る限りのものを採用したものである。その内容も善美なるものから極悪なるものに至る迄、人間のあらゆる知識と感情とを動員したのである。
(註)宣伝で特に注意すべきは、虚偽の宣伝は何時かは必ず曝露するものであつて、常に正しきことを正しく伝へることに留意せねばならぬことである。満洲事変及今次事変に於ける支那側の虚構宣伝が如何に悪結果を齎らしつゝあるかを思へば、此点が十分諒解せられるのである。
世界大戦に於ける思想宣伝戦の展開は、一面戦局の終末を早めたといはれてゐるものゝ、一面恐る可き結果を将来に残したものであつた。それは大戦間に於て思想宣伝の為に利用された革命運動であつて、一は帝制露国を一挙にして革命動乱の巷と化し、一は最近ヒットラー総統の出現に至る迄続けられたドイツ革命運動を扶植した事である。而して右の大戦を機として一斉に擡頭した共産主義革命運動は、昔日の帝政ロシアを覆滅したソヴィエート勢力を中心にして、爾来世界赤化運動となつて現はれ、
世界の癌となり益々その陰謀は深められつゝあるのである。
(『近代戦と思想宣伝戦』、内閣情報局、昭和12年)