2015年12月30日水曜日

近代戦と思想宣伝戦――(4)我国の採る可き思想戦と国民の覚悟

四、我国の採る可き思想戦と国民の覚悟


以上三項目に於て述べた事は単に事実の紹介を行はんが為ではない。現在、我国民自体が自己の問題として直面してゐる事を簡略に述べ、注意を喚起せんとしたに過ぎないのである。否、最早時局は右の事態に就いて徒労の論議を行つたり、対策の遂行に対して逡巡してゐる事を許さないのである。

たゞ、時局はひたすらに国民の確固不抜の精神に依る実践を要求してゐるのである。

こゝに於て国民に注意を促したい事は、思想宣伝戦とは単なるビラやポスターやラヂオの放送の如き、耳に聴き、目に映ずる、目まぐるしくも亦耳やかましい感情の動員を終局の目的とするものでは断じてないといふ事である。如何なる思想宣伝も、行為、実践を伴なはぬものは単なる遊戯に過ぎず、お祭り騒でしかないのである。

思想宣伝戦の目的とは即ち、尽忠報国の精神を基調とし、国民の、社会的行動を国家の目的に向つて統一運行するものであつて、之が為には個人的欲望や利害を超越し、或は進んで労苦、忍従の挙に出づる事を必要とするものである。思想宣伝もこの点を一度はき違へると、感情に走つて実践を忘れ、反つて思はざる行為に出でて事を破壊するに至るものである。

我国は幸にして欧米各国の如く直接自国内に戦場をもたなかつた。然し科学の進歩は如何に距離の上で戦場と後方が離れてゐやうとも、最早後方の逸楽を許さなくなつたのである。されば、将来我国が相当大規模の戦争の遂行止むなきに至る時には、我が国民は世界大戦時に於ける西欧の国民以上に、戦争の渦中にあつて労苦を共にし耐忍の生活、意志の生活を持続せねばならぬのである。

世界大戦時に於ける諸国民が、日常の一切の業務に至る迄統制に従ひ、銃後の任を果した様に、今後我国民はより強固の意志を以て統制指導に従ひ、実行を以てその成果を挙げねばならぬのである。

我国が思想宣伝戦に於て充分の試練を経てゐない事は事実であるが、然しこの理由は思想宣伝戦に当り得ぬといふ事では断じてない。我国には万邦無二の國體と、之に発するところの大理想大精神が儼存し、我国民総ては大和魂と尽忠報国の赤誠とを保有してゐる。之を以てすれば何物も恐るゝものなき現状ではあるが、たゞ訓練の機会を与へられなかつたのである。

されば、国民は速かに思想戦の何物たるかをよく理解し、政府並に民間を通じ、挙国的の宣伝教化の組織を確立し、一糸乱れず政府の意図が国民全般の末梢に迄徹底し、直に実践以て時艱を克服するに遺漏、齟齬なきを期せねばならぬのである。

爾来我国は肇国以来正義を以て国是となし、共存共栄を以て国家の理想としてゐる。而して此の大精神を具現せんとして、不言実行を誇として以て今日に至り、「言挙げせず」てふ伝統思想を生むに至つたのである。

然しながら、時代は我国の伝統の維持を許さず、進んで我国の理想大精神を万邦に宣布し陰険邪悪なる思想謀略を克服し、以て真の人類の平和を確立す可く、堂々たる正義の大旆たいはいを進め、人類を光被す可く、進んで世界に我国是を宣布せねばならぬのである。

されど我国の採る可き思想戦は歪曲せる宣伝に非ず、暴力の代辯に非ず、俯仰天地に恥ぢざるところの正々堂々の陣である。正々堂々万人をして肯かしむるところの万古不易の大思想であり道義的世界観である。

我国の進む可き大道は決してゐる。さればこそ茲に我國體観念を国民に徹底し、総ての施設悉くこゝに朝宗し、真に皇道国家たるの実を挙げ、祖国日本をして磐石の如く揺るぎなく、遺憾なきを期することは我国々民の当面の義務であり責務である。

(『近代戦と思想宣伝戦』、内閣情報局、昭和12年)

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