御東征
鸕鷀草葺不合尊の御子
磐令彦命は御年十五歳で太子にお立ちになり、四十五の御歳
迄日向に
御座あらせられて、世を治め給ふたが、
何分日向と申せば日本国の南端で、東の
方中国、畿内のあたりへ迄は
皇威が至らない。
其処で磐令彦命は兄君
五瀬命や、御子息達と計つて、大和平定の事を企てられた。大和は恰度
大八洲の国の中部にあたつてゐて、全国へ政事を
布くに都合がよいと思召されたからです。
だが御東征の皇軍は直ぐに船で瀬戸内海を渡つて大和へは行かないで、先づ薩摩の
加世田を御出発になると日向灘を北進して西に折れ、下関海峡を通つて、今の筑前に御上陸になり、豊前、豊後あたりの賊を討つてこれを服し、九州北部の地を平定して、それから又船に召され、瀬戸内海を東進して安藝に御到着なされた。
そして此の地に七年、それから備前に八年、都合十五年ばかしを、中国でお
過しなされた。何故こんなに長い年月を
費し給ふたかと申すに、当時は
申迄もなく未開の時代で、万事に不便が多く、兵船や糧食の御用意にも随分お手間がとれたことであらふし、又到る処に土賊が跋扈してゐたから、これを平らげるにも又思はぬ月日を費さねばならなかつたからです。
長髄彦
戦備成つた皇軍は軈て備前の児島湾を出発し、明石海峡を突破して難波の入海(今の大阪湾)に入り、淀川をさかのぼつた。
時に大和の豪族長髄彦が、饒速日命を君として戴き、東征軍の大和進入を沮止しやうとしたので、磐令彦命は生駒山で第一戦を開かねばならなかつた。
山は嶮峻で谷深く、地の案内には通ぜず、皇軍は大苦戦に陥つて、おいたましくも総司令官五瀬命は矢傷を負ひ給ふた。
磐令彦命は、
『こは日に向つて戦つたからであらふ、我は日の神の御子であるから、日に従つて射らねばならぬ。』
と仰せられ、兄君を衛り助けて軍を引き、再度船に召されて南方紀伊を回つて紀州の荒坂津に御上陸遊ばしたが、この途中、海上で五瀬命は薨去なされた。
八咫烏
皇軍が上陸すると其の地方に勢力を張つてゐた女酋長の丹敷戸畔が反抗したので、磐令彦命は全軍を指揮してこれを討ち亡し、暫時この地に留まつて、紀伊の南岸から伊勢の海岸地方一帯を平定遊ばした。
それから愈々降服した土族をも味方に加へて、大軍を組み、日に従ひ東から大和へ攻め入ることとなつたが、国境の山々深く路は無く、全軍はたと当惑した時、八咫烏が現はれて、皇軍の先頭に立ち、導きをして山を越えた。
だが八咫烏は鳥ではなく、このあたりの地理に通じてゐる軍隊の名称で、黒の装束に八咫烏の形を模した冠り物を着けてゐた所から、此う呼ぶのだ。そしてその軍長は鴨建津身命であつたとも云ふが、恐らくさうであらふと思はれる。
仕掛の押機
山を越えて御到着になつた宇陀には、兄宇迦斯、弟宇迦斯と云ふ兄弟の豪族が居て、皇軍を奉迎したが、兄宇迦斯は表面だけの帰順で、実は命を害し奉らふと考へ、新たに宮を造つて、中に仕掛の有る押機と云ふ武器を置き、これへ命をお招き申した。
弟宇迦斯は幸にも兄の謀叛を早く覚つて大いに驚き、早速命にお報らせ申した。其処で道臣命、大久米命の二将軍が、兄宇迦斯に逢つてその罪を責め詰ると、兄宇迦斯は辯解に窮して自らその機を踏み、自殺して了つた。
それから皇軍は大和に進入したが、国見山に八十梟師と呼ぶ種族が居て、反抗の態度を示したので、磐令彦命は彼の八咫烏を遣はして、帰順を勧めた。
すると八十梟師の主領弟磯城は、喜んで従がつたに関らず、その兄の兄磯城はどうしても承知しない。其処で弟磯城は止を得ず皇軍に力を合はせ、兄を挟み撃つてこれを斬つた。
金色の鵄
軈て目的の長髄彦と戦ふ時が来た。饒速日命は長髄彦の妹登美夜姫を娶つて、可美真手命と云ふ御子を生んでゐたが、大八洲国を賜はつた天孫の御子孫が、鎮定に来られたことを知ると、よくその順逆を御考へになり、長髄彦に帰順を勧めたが、長髄彦は頭を左右に振つて承知をしない。其処で両軍は衝突して激戦が開かれた。
この時は前と違つて、皇軍は日を脊にして敵に向つたので、万事に大変都合よく、それに加へて蒼空の彼方から飛んで来た一羽の鵄は、磐令彦命の弓弭にとまり、燦爛たる光を放つて、賊徒の眼を射たので、賊軍は眼眩み恐れ戦いて退却を始めた。それ今よ、と道臣命は先鉾となつて追撃する。
時も時敵の酋長長髄彦が、饒速日命の御手に、生命を絶たれたとの報が有つた。
命は正義の為に長髄彦を刺し、自ら残る兵を従へて、皇軍に降り給ふたので、皇軍長年の宿望であつた大和平定は、ほゞ形づけられたわけです。
橿原の都
併しながら当時の大和には、大国主命の御子孫で三輪氏と名乗られる一族が住まつてゐた。神の裔であるから智恵も進み、勇気も有つて一大勢力を持つてゐたから、若しこの三輪氏と皇軍とが衝突するやうなことにでもなれば、実に一大事であつたであらふが、三輪氏はよく時勢を知り、又神命を知つて皇軍と握手をしたので事なく済んだ、そればかりか磐令彦命は、三輪氏の女五十鈴媛命を妃として迎へ給ふたので、三輪氏の一族は命の御為に骨身惜まず力を尽し、お援け申し上げるやうになつたのは、真に喜ばしいことであつた。
こゝに於て命は畝傍山の東南の麓橿原の地を都と定め、壮大な宮を造つて御即位の大典を挙げ給ふた。
これこそ人皇第一代神武天皇にわたらせられ、その年を我が国の紀元元年と定められた。又その日を太陽暦に換算いたすと、二月十一日に相当するので、この日を紀元節として、窮り無き後の世への紀念といたしてゐる。
天皇の政事
天皇は三種の神器を皇居の内に斎き祀り、朝夕これを拝し給ひては、外に仁政を布き給ふたので、これを祭政一致と申し上げる。皇居と神宮との区別な無かつたのです。
そして天皇の御政事の様を拝するに、先づ国土を分けて功の有つた御家来達や、三輪氏その他帰順いたされた諸氏へ与へて領地を定め天種子命と天富命とを祭政の役に任じ、道臣命と可美真手命は皇居守護の役を仰せつかつた。
又国々には国造、県には県主を置かれた。県とは天皇御自身の御領地で、以上は共に子々孫々に伝はる世襲職となつた。
かくて天皇は御即位以来七十六年間、世を治給ふて、その年の三月十一日崩御遊ばされました。三月十一日、それは太陽暦の四月三日に相当するので、この日を神武天皇祭と定めて世々御祭り申し上げるのです。
(畑米吉『美しくやさしい国史物語』、弘文社、昭和4年)
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