2016年2月10日水曜日

神武天皇

御東征

鸕鷀草葺不合尊うがやふきあへずのみことの御子磐令彦命いはれひこのみことは御年十五歳で太子にお立ちになり、四十五の御歳まで日向に御座ぎよざあらせられて、世を治め給ふたが、何分なにぶん日向と申せば日本国の南端で、東のかた中国、畿内のあたりへ迄は皇威みいつが至らない。

其処で磐令彦命は兄君五瀬命いつせのみことや、御子息達と計つて、大和平定の事を企てられた。大和は恰度大八洲おほやしまの国の中部にあたつてゐて、全国へ政事をくに都合がよいと思召されたからです。

だが御東征の皇軍は直ぐに船で瀬戸内海を渡つて大和へは行かないで、先づ薩摩の加世田かせだを御出発になると日向灘を北進して西に折れ、下関海峡を通つて、今の筑前に御上陸になり、豊前、豊後あたりの賊を討つてこれを服し、九州北部の地を平定して、それから又船に召され、瀬戸内海を東進して安藝に御到着なされた。

そして此の地に七年、それから備前に八年、都合十五年ばかしを、中国でおすごしなされた。何故こんなに長い年月をつひやし給ふたかと申すに、当時は申迄まうすまでもなく未開の時代で、万事に不便が多く、兵船や糧食の御用意にも随分お手間がとれたことであらふし、又到る処に土賊が跋扈してゐたから、これを平らげるにも又思はぬ月日を費さねばならなかつたからです。

長髄彦ながすねひこ

戦備成つた皇軍はやがて備前の児島湾を出発し、明石海峡を突破して難波の入海いりうみ(今の大阪湾)に入り、淀川をさかのぼつた。

時に大和の豪族長髄彦ながすねひこが、饒速日命にぎはやひのみことを君として戴き、東征軍の大和進入を沮止しやうとしたので、磐令彦命は生駒山いこまやまで第一戦を開かねばならなかつた。

山は嶮峻けんしゆんで谷深く、地の案内には通ぜず、皇軍は大苦戦に陥つて、おいたましくも総司令官五瀬命は矢傷を負ひ給ふた。

磐令彦命は、

『こは日に向つて戦つたからであらふ、我は日の神の御子であるから、日に従つて射らねばならぬ。』

と仰せられ、兄君を衛り助けて軍を引き、再度船に召されて南方紀伊を回つて紀州の荒坂津あらさかのつに御上陸遊ばしたが、この途中、海上で五瀬命は薨去こうきよなされた。

八咫烏やたがらす

皇軍が上陸すると其の地方に勢力を張つてゐた女酋長の丹敷戸畔にしきとべが反抗したので、磐令彦命は全軍を指揮してこれを討ちほろぼし、暫時この地に留まつて、紀伊の南岸から伊勢の海岸地方一帯を平定遊ばした。

それから愈々いよいよ降服した土族をも味方に加へて、大軍を組み、日に従ひ東から大和へ攻め入ることとなつたが、国境の山々深くみちは無く、全軍はたと当惑した時、八咫烏やたがらすが現はれて、皇軍の先頭に立ち、導きをして山を越えた。

だが八咫烏は鳥ではなく、このあたりの地理に通じてゐる軍隊の名称で、黒の装束に八咫烏の形を模したかむり物を着けてゐた所から、う呼ぶのだ。そしてその軍長は鴨建津身命かもたてつみのみことであつたとも云ふが、恐らくさうであらふと思はれる。

仕掛の押機おしはた

山を越えて御到着になつた宇陀には、兄宇迦斯えうかし弟宇迦斯をとうかしと云ふ兄弟の豪族が居て、皇軍を奉迎したが、兄宇迦斯は表面うはべだけの帰順で、実はみことを害したてまつらふと考へ、新たに宮を造つて、中に仕掛しかけの有る押機おしはたと云ふ武器を置き、これへみことをお招き申した。

弟宇迦斯はさいはひにも兄の謀叛を早く覚つて大いに驚き、早速みことにおらせ申した。其処で道臣命みちのみのみこと大久米命おほくめのみことの二将軍が、兄宇迦斯に逢つてその罪を責めなぢると、兄宇迦斯は辯解にきゆうして自らそのはたを踏み、自殺してしまつた。

それから皇軍は大和に進入したが、国見山くにみやま八十梟師やそたけると呼ぶ種族が居て、反抗の態度を示したので、磐令彦命はの八咫烏を遣はして、帰順を勧めた。

すると八十梟師の主領弟磯城をとしきは、喜んで従がつたに関らず、その兄の兄磯城えしきはどうしても承知しない。其処で弟磯城はやむを得ず皇軍に力を合はせ、兄を挟み撃つてこれを斬つた。

金色こんじきとび

やがて目的の長髄彦と戦ふ時が来た。饒速日命は長髄彦の妹登美夜姫とみやひめを娶つて、可美真手命うましまでのみことと云ふ御子を生んでゐたが、大八洲国を賜はつた天孫の御子孫が、鎮定に来られたことを知ると、よくその順逆を御考へになり、長髄彦に帰順を勧めたが、長髄彦はかしらを左右に振つて承知をしない。其処で両軍は衝突して激戦が開かれた。

この時は前と違つて、皇軍は日をにして敵に向つたので、万事に大変都合よく、それに加へて蒼空の彼方から飛んで来た一羽のとびは、磐令彦命の弓弭ゆはずにとまり、燦爛たる光を放つて、賊徒の眼を射たので、賊軍はまなこ眩み恐れおのゝいて退却を始めた。それ今よ、と道臣命は先鉾せんぽうとなつて追撃する。

時も時敵の酋長長髄彦が、饒速日命の御手おんてに、生命いのちを絶たれたとの報が有つた。

みことは正義の為に長髄彦を刺し、自ら残る兵を従へて、皇軍に降り給ふたので、皇軍長年の宿望であつた大和平定は、ほゞ形づけられたわけです。

橿原かしはらの都

併しながら当時の大和には、大国主命おほくにぬしのみことの御子孫で三輪氏と名乗られる一族が住まつてゐた。神のすゑであるから智恵も進み、勇気も有つて一大勢力を持つてゐたから、若しこの三輪氏と皇軍とが衝突するやうなことにでもなれば、実に一大事であつたであらふが、三輪氏はよく時勢を知り、又神命を知つて皇軍と握手をしたので事なく済んだ、そればかりか磐令彦命は、三輪氏のむすめ五十鈴媛命いすゞひめのみこととして迎へ給ふたので、三輪氏の一族は命の御為おんために骨身おしまず力を尽し、お援け申し上げるやうになつたのは、真に喜ばしいことであつた。

こゝに於てみこと畝傍山うねびやまの東南のふもと橿原の地を都と定め、壮大な宮を造つて御即位の大典を挙げ給ふた。

これこそ人皇じんわう第一代神武天皇にわたらせられ、その年を我が国の紀元元年と定められた。又その日を太陽暦に換算いたすと、二月十一日に相当するので、この日を紀元節として、きはまり無き後の世への紀念といたしてゐる。

天皇の政事まつりごと

天皇は三種の神器を皇居の内にいつまつり、朝夕これを拝し給ひては、外に仁政をき給ふたので、これを祭政一致と申し上げる。皇居と神宮との区別な無かつたのです。

そして天皇の御政事おまつりごとの様を拝するに、先づ国土を分けていさほしの有つた御家来達や、三輪氏その他帰順いたされた諸氏へ与へて領地を定め天種子命あまのたねのみこと天富命あめのとみのみこととを祭政の役に任じ、道臣命と可美真手命うましまでのみことは皇居守護の役を仰せつかつた。

又国々には国造くにのみやつこあがたには県主あがたぬしを置かれた。県とは天皇御自身の御領地で、以上は共に子々孫々に伝はる世襲職となつた。

かくて天皇は御即位以来七十六年間、世をすべ給ふて、その年の三月十一日崩御遊ばされました。三月十一日、それは太陽暦の四月三日に相当するので、この日を神武天皇祭と定めて世々御祭り申し上げるのです。

(畑米吉『美しくやさしい国史物語』、弘文社、昭和4年)

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