神武天皇は、御歳四十五歳に至るまでは日本民族の
君長として、日向国高千穂宮に
坐したが、「天下をもつとも平らかに治めるにはどこがよからうか」と、皇兄の
五瀬ノ命などと御相談になつた結果、いよいよこゝに御東征を御敢行あそばされることになつたのであります。しかし、この御東征は、久しき年月に亘つて、幾多の困難とたゝかひ給ひ、その間には、唯一の御力と頼み給うた皇兄五瀬
ノ命が重傷を負ふて、かくれさせたまふなどの御悲しみの出来ごとのあつたにも拘らず、さらに御元気をうしなひ給ふことなく、
天ツ神の御子としての強い御信仰心と、皇祖からだんだんにうけつぎたまへる大事業を大いに弘めやうといふ固い御精神によつて、遂にはその困難なる大事業をもみごとに達成したまうたのであります。
神代における言ひ伝へや、それ以後における我が国の歴史を見てもよくわかるやうに、御歴代の 天皇は、みなこれと同じやうな、限りなきところの御努力によつて、あらゆる困難をもよく御征服あそばされ、御先祖からうけつぎたまへる大事業を大いにひろめ、ますます立派なる国家がつくられて、万国に比類のないところの我が國體のかゞやきは、いよいよその光りを増しつゝあるのであります。
神武天皇が大和地方を悉く御平定あそばされ、その
橿原の地に都をさだめたまふに当つて下したまへる御詔勅の中に、
夫れ大人の制に立つる、義必ず時に随ふ。苟も民に利あらば、何ぞ聖造に妨はむ。且当に山林を披払ひ、宮室を経営りて、恭みて宝位に臨み、以て、元元を鎮むべし。上は即ち乾霊の国を授けたまふ徳に答へ、下は則ち皇孫の正を養ひたまひし心を弘めむ。然して後に六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩ひて宇と為むこと、亦可からずや。
と仰せられてゐます。
こゝに謹んで全文を解釈すれば、「英明なる君が民を治める
掟をつくられる時には、必ずその道理がよくその時勢に適応せるやうに考へられる。今もし民の福利をすゝめることになるならば、それは、
聖君の御政治の御精神とすこしも
違はない。そこで、山林を伐り払ひ、宮殿を造営し、恭しく皇位について、天下の万民を統治しようと思ふ。そして、上は、天祖のこの国を授けたまうた御徳に報い、下は、皇孫がこの国に降り、純朴な民の天真な心を養ひ発展せしめやうとしたまうた御精神をひろめて行くであらう。そして、全国を統一する都を開き、天下を家としようと思つてゐる。よいことではなからうか」との御意であります。
この神武天皇御即位の
詔は、その一節は、すでに「御聖徳」の中にも引用せられてゐたのでありますが、
乾霊授国、皇孫養正、即ち、天祖が国を授けたまへること、そして、皇孫が正しきを養ひたまへることの御精神を明かにしたまうたものであります。
かくの如き大御心は、すでに述べました皇祖天照大御神が国を
肇め給うた事実の中にも、また、皇孫
瓊瓊杵ノ尊の御降臨に際して下し給へる御神勅の中にも、あきらかにあらはれてゐるのでありまして、大御神の御子孫が純朴な風俗に従つて民の正しく直き心を養ひ長ぜしめたまふことは、神武天皇以後の御歴代の 天皇の御政治の上にも明白に見られるのであります。これを以つてみるに、我が皇祖皇宗が国を肇め給うたことは、まことにひろく大きく、その御徳をたて給うたことは、まことに深く厚いわけであります。
神武天皇は、かゝる深き大御心と、全国をつらね、世界をひつくるめ、天下を掩ひつくすといふやうな大精神をもつて、天皇の御位に即かせたまうたのであります。
又、天皇の四年春には、詔して、
我が皇祖の霊や、天より降鑒りて、朕が躬を光助けたまへり。今諸の虜已に平ぎ、海内無事なり。以て天ツ神を郊祀りて用て大孝を申べたまふ可し。
と
宣ひたまひました。
この詔の御意を拝するに、「祖先の神々の加護によつて、多くの乱民どもは悉く平らぎ、天下が静かになつたから、天ツ神のおまつりをして、孝行をしたいと思ふ」と仰せ
出されたものであります。
かくて、天皇は、祭祀を営むための立派な場所を
鳥見の山中に設けて、皇祖天照大御神を始め奉り、諸々の天ツ神をおまつりになつて、物の由つて来る根本にたちかへつてそれに報いるといふ、
報本反始の御誠心を示したまうたのであります。これ、天皇が大和地方の賊徒を悉く平定して、皇祖からうけつぎたまうた大事業を大いに弘めるといふ、その目的を達成し給うたのは、
偏に皇祖の御加護によるとの
御思召から、それに報い給はんとせられたものであると共に、皇祖以来の我が國體の本質であるところの
敬神崇祖、すなはち、神を敬ひ、先祖を
崇ぶといふことを実例に御示しになつたものであると申されます。
神武天皇の御事業は、その御即位の詔において示された八紘一宇の御精神のあらはれでありまして、皇威を四海に
轟かし、皇化を
宇内に及ぼすものでありますが、今や世界に宣揚されつゝある皇道精神もこゝに遺憾なく発揮されてゐるのであります。
荒木貞夫大将は、この点に就て次の如く述べてゐられます。
「皇祖天照大御神は、三種の神器をもつて、経国の大方針を示され、これをわが皇道の神護とし給ふた。いふ迄もなく、鏡は公明正大を、勾玉は仁慈博愛を、剣は勇武断行を表明し意味する。神武天皇は、この神慮を継承し給ひ、天業を恢弘さるべく、皇師を起して、普ねくまつろはぬものどもを親征あらせられた。この皇師の勲業こそ、公明正大、仁愛の限りなき皇徳を、武勇によつて実現せられたもので、わが皇軍の淵源こゝに存するのである。
かくて神武天皇は、肇国の鴻業を果させられ、大和の橿原に皇都を奠められ、天神を祀られ、敬神崇祖の大孝を申べさせられ、六合を兼ね、八紘を掩ふといふ詔を渙発せられたのであるが、この六合を兼ね、八紘を掩ふといふ大理想は、神武天皇が天照大神以来の天業の大精神を祖述せられたもので、実にわが建国の一大宣言と拝察する。」
(小島徳彌『解説國體の本義』、創造社、昭和15年)
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