三、大嘗祭の儀式③
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卯日祭 それから御儀式の当日のことをお話致します。卯の日が御祭の日で、大嘗宮にて行はれます。辰、巳の両日が悠紀主基の節会で即ち宴会日です。午の日が豊明節会です。いづれも豊楽院で行はせられるのである。新嘗祭の時には、辰の日に豊明節会を行ふ。そこで前にお話致しました、神御の料物、祭祀の調度等を調理致します斎場所の者は、当日まで其処に居りまして
愈当日には、大嘗宮に神饌供物等を運ぶのですが、其の路筋を図にて説明致します。
斎場は宮城の北にありますから、宮城の裏門からなれば、路も近いけれど、さうでなく、態々迂廻して斎場から出て、悠紀主基が左右に分れて、宮城の東西なる大宮の通に出で、南に向ひて七条まで下がるのです。七条から悠紀は右に折れ、主基は左に折れて、朱雀大路に出る。朱雀大路と云ふのは廿八丈あるから非常に広い。其の広い朱雀大路へ出ると北に向いて上つて来る。一方は悠紀一方は主基で、朱雀通を併行して上り、朱雀門に這入るのです。
其の行列には、悠紀主基の行事両国の国郡司以下のものが、悉く加はるので、是れが亦非常な壮観であります。殊に神饌供物と云ふやうなものばかりを運ぶのでなく、悠紀主基の
標の山と云ふものが附くのです。これは悠紀主基の標木をたてゝ、唯其の目じるしとしたものであるが、非常な素晴らしいものとなつたのであります。中には高さ二丈幾尺と云ふやうな高いのがあつて、三丈程もある小屋をかけて其の内で造るのですが、つまり一つの造り物です。山を造つて山の上に標を建てゝ、それに「悠紀近江」とか「主基丹波」とか云ふやうなことを書いて、其の上に又造り物をする。
其の一例を申しますと、仁明天皇の御時ですが、悠紀は、山の上に梧桐を植ゑて鳳凰が二匹留まつて居る。梧桐の木から五色の雲が起こつて、雲の上に「悠紀近江」と云ふ四字を表はした標がある。其の標の上に太陽の形を造り、太陽の上に半月の形を造る。また山の前には
天老及
麟児を描き、其の背ろに
連理の呉竹がある。主基もそれに負けないやうに、或は崑崙を造るとか、蓬萊を造るとか、目出度い尽しの飾物を拵へる。是れはみな画師が意匠を凝らすのです。宰領二人之を曳く、人夫は二十人ですが、後には百人の時もあつたのであります。今で云へば山車です。山車の起原と言つても宜い。さう云ふものを拵へて練歩くのですから、非常な壮観であります。物見車が多く、上皇も御見物になつた時もある。物見車と衝突して車軸が折れ、山を破壊したと云ふやうな話もある。此の標の山に就いては、いろいろな事があります。
大嘗宮に到着致しますと、神饌供物などをば、悠紀主基ともに膳屋に収め、そこで酒造童女が御飯稲を舂き、伴造が火を
鑽り、安曇宿禰が之を吹き、伴造が御飯を炊き、内膳司が御膳を料理する。此の稲を舂く時は歌を謡ふので之れを
稲舂歌と称して、当時の歌仙儒林が詠進するのであります。
次に御祭典の御儀式の次第を申しますと、先づ酉の刻(午後六時)には、浄めた所の火で、庭火なり燈火なりを悠紀主基の御殿の側に点じ、戌の刻(午後八時)から、御祭典が始まるのです。先づ昭訓門から御入りになつて、廻立殿に行幸になる、其処で御湯をお遣ひになる。御湯を御遣ひになるにもいろいろ鄭重な御儀式がある。それから祭服と御召替へになつて、愈々大嘗宮に行幸になるのです。
初には悠紀の御殿に行幸になる。江次第によりますと、主上は御履をもめさず、
徒跣でゐらせられたのであります。其の御行列が餘程古式です。御通路には、
布毯を敷く、前の方に二人、後の方に二人居りまして、陛下の御進みになるに随つて、前の二人が敷いて行き、後の二人が巻いて行く、陛下より外に誰も履まぬやうにする。さうして大臣が一人、中臣、忌部、御巫、
猿女が御供をする。猿女が御供をするのは、餘程古式であります。天照大神が
天石窟に御こもりになつた時に、石窟の前で
鈿女命が作俳優をしたと云ふことゝ、天孫降臨の際に、鈿女命の子孫の猿女が、先導し奉つたと云ふ意味から来て居るのであります。夜分であるから、主殿官人が両方より紙燭を燈して行く、車持朝臣と云ふのが菅笠を取つて差掛けます。其の外には
笠取直と
子部宿禰とが、膝行して笠の綱を持つて行く、斯様にして廻立殿から大嘗宮に行幸になつて、先づ悠紀の正殿に入御になります。
それから小忌大忌の群臣がそれぞれに着席する。伴、佐伯が、大嘗宮の南門を開き、衛門府が朝堂院の南門を開く、吉野
国栖十二人、楢笛工十二人が朝堂院南左掖門で、古風の楽を奏す。次に悠紀国司が歌人を率ゐて国風の歌を奏す。それから、語部が十五人神代の故事を語る。隼人は隼人の風俗の歌を奏す。語部は美濃、丹波、丹後、但馬、因幡、出雲、淡路から廿八人出るのです。昔は文字がないので、口々に語ると云ふ処から起つたものであります。北山抄に、「其声似祝、又渉歌声、
[1]」とありますから、定めて、古雅のもので、且つ上代の事を研究するには、大切なる資料でありませう。これは称光天皇の頃まではありましたが、其の次の後花園天皇の御代には、語部の古詞明ならずして、行はれなかつた事が、康富記に見えて居ります。されば、貞享御再興以来にも、復興されなかつたのであります。国栖の古風を奏する事も、後花園天皇の御代より伝はらない。それから、皇太子が御着席になつて、
八開手を御うちになり、五位以下、六位以下が順次に拍手するのです。
註
1 読み下し。「その声は祝に似る、また歌声に渉る、」
廻立殿に於て、陛下が御湯を御遣ひになつてから、悠紀の御殿に御入りになり、御親祭になるまでには、餘程時間の掛かることであります。愈々御親祭の始まるのは、亥の一刻(午後十時)であります。それが御済みになつて、また、子の一刻から廻立殿に御して、更に御湯を御遣ひになり、今度は主基の御殿に入御になる。斯う云ふ訳ですから、殆ど徹夜です。夕刻から夜明の頃まで、御祭典に御与かりになるのです。
御代々々の中には、御幼帝も居らせられ、女帝も居らせられますが、此の大嘗祭の御儀式は、不思議にも、滞りなく御済ませになると云ふことであります。四条天皇は、まだ五歳の御年であらせられたけれど、
聊も御作法等に御手落もなく、御睡眠の御催しもなく、滞りなく御式を御済ませになつたと云ふ事です。藤原定家は、「実是天之令然歟、
[2]」と日記に記して感歎して居ります。鳥羽天皇も御年が六歳でゐらせられましたが、御親祭のみでなく、連夜の御儀式にも出御なされたので、「我君雖有年少之恐、毎夜出御已及暁更、進退有度、次第不誤、天之授大位、器量相叶給也、群臣皆驚上下歎服、
[3]」と中御門宗忠が日記に書いて居ります。
註
2 読み下し。「実に是れ天の然らしむるか、」
3 読み下し。「我が君、年少の恐あると雖も、毎夜出御すでに暁更に及んで、進退に度あり、次第誤らず、天の授くる大位、器量相叶ひ給ふなり、群臣皆驚き上下歎服す、」
それで、この御親祭の御様子の詳しいことは分りませぬが、新嘗祭の御式と少しも変はりはない。また前に申しました神今食とも変りはない。唯〻神今食は新穀を奉るのではなくして、先づ陛下が火を改めて、新たに炊いた所の御飯を神に御供になり、親らも
聞し
食すのでありますが、其の御式は少しも変はらないのであります。つまり此の大嘗宮には、陛下が御先祖の天照大神を始め天神地祇を御招待になりまして、天祖の御授けになりました斎場の穂にて、新嘗を聞しめすのであります。
悠紀主基ともに内院と外院とありまして、北の方が内院で、南の方が外院でありますが、其の内院に賓座を設ける。賓座には一丈二尺の畳を敷いて、其の上に又九尺の畳を四枚敷いて、其の上に
八重畳と云ふのを敷く、其の畳の上に
坂枕と云ふ枕をする。つまり神様の御寝床です。さうして、南の方の側には、神様の御召物を置き、其の足の方には御靴を置く。其の外御帯、御髪なども皆取揃へてある。全く神様を御迎へ申す訳です。其の側に陛下の御座があつて少し斜めになつて居る。其処で親ら御祭りになり、陛下も
聞食すと云ふ次第であります。是れは大嘗祭、新嘗祭、神今食、皆同じであらうと拝察するのであります。
(12)
辰日節会 それで卯の日の御祭典が済みますと、この大嘗宮をば、
直様悉く
取こはしてしまふ。北野の斎場も間もなく
取こはしになるのであります。その翌日、辰の日には、豊楽殿で宴会がある。御膳及び白黒酒を聞食し、臣下にも饗饌を賜はる儀で、之れを辰日節会とも申します。豊楽殿は斯う云ふ風になつて居ります。
中央に高御座がありまして、両方に悠紀の帳主基の帳と云ふ御帳台がある。此処へ陛下が出御になります。出御の時刻は、辰二刻とありますから、今の午前八時三十分で、先づ清暑堂に御して、次に悠紀御帳に着御あらせられるのであります。皇太子、親王以下、五位以上参入して前庭に着席す。六位以下も相次いで参入する。そこで神祇官の中臣が
賢木を捧げて参入し、跪いて
天神の寿詞を奏す。この時は群臣共に跪く。次に忌部が神璽の鏡剣を奉る。天神の寿詞は即ち中臣寿詞で、全文が台記に載せてあります。この神璽の鏡剣を奉る事は、即位礼の時に述べました如く、もとは、御即位式の中にあつたものでありますが、嵯峨天皇の弘仁儀式には、即位式は別に制定して、この儀を大嘗祭に入れられたものであります。ところが後には、神璽鏡剣を奉る事もなくなつて、寿詞を奏する事のみが伝はつたのであります。
それから悠紀主基両国の
多米都物(両国の献上物)の目録を奏聞する。巳一刻(今の十時)御膳を供し、五位以上にも酒饌を賜ふ。酒は即ち白黒酒でありまして、黒酒は
久佐木灰を入れて造るのであります。次に多米都物を諸司に御分ちになる。それから悠紀が当時の鮮味を献じ、国司が
風俗歌舞を奏し、御挿頭花、和琴等を献ずるのです。挿頭花と云ふのは造花です。天皇は桜其の他は梅とか云ふやうに、いろいろあります。また天皇の冠の左に御挿しになり、臣下は右に挿す。つまり皆楽しく遊ぶと云ふ意味です。悠紀御帳の儀がすむと、一応清暑堂に渡御あらせられて、更に主基御帳に入らせられるのであるが、其の儀は前と同じ様であります。此の日は例の標の山を舞台の前に立てるのであります。
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巳日節会 巳の日は主基の節会で悠紀の節会と大体同じでありますが、寿詞奏、黒酒白酒儀はないけれども、舞楽は違つて居ります。悠紀御帳に御す時は、
大和舞風俗舞を奏しますが、主基の方では、田舞を奏します。大和舞も和歌に合せて舞ふもので、神代の風俗であります。
田舞は田植にかたどつた舞である。歌が主で多治比氏の
内舎人を舞人とす。後には大和舞田舞は略したものであります。其の後
清暑堂の神楽と云うて、清暑堂で、いろいろ音楽の遊びがあつたり、
催馬楽などを謡うて遊ぶのであります。後世、豊楽院が荒廃して、清暑堂の建物がなくなつて、他の殿舎で神楽をする時も、やはり清暑堂神楽と称したのであります。
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豊明節会 次の日午の日が、いよいよ豊明節会であります。豊明とは宴会の事で、古くは宴会、豊楽の字を直ちに「トヨノアカリ」とよんだので、大嘗新嘗の後には、必ず此の宴会があつたのです。但し辰巳両日にも宴会があるけれども、これは大嘗祭の中であるから、更に此の宴会を行はせらるゝのであります。此の節会は、一層華やかで、悠紀主基の国司、及び群臣を会して宴を賜ひ、兼ねて両国司、其の他の叙位式を行ふ儀であります。
此の日は悠紀主基の御帳を徹し、殿前に舞台を構へるのである。先づ清暑堂より高御座に渡御あらせられて、叙位を行はる。次に吉野国栖が歌笛を奏して御贄を献じ、伴佐伯両氏の人が、久米舞を奏する。久米舞は神武天皇が中州を平定せられた時に、大和の宇陀と云ふ処で、
兄猾を征伐なされた。其の時に陛下は非常に御満悦で、長篇の歌を御詠みになつた。其御製に依つて舞が出来て居る。それを久米舞といふ。二十人二列になつて御製を奏するのです。
次が
吉志舞である。神功皇后が三韓征伐をなされて、凱旋せられた時が、丁度新嘗祭に当る。そこで、安部氏の先祖が吉例に依つて舞楽を奏した。それを
吉志舞と云ふ。是れは舞人二十人、楽人二十人で行ふのです。次に両国司が舞人、舞女を率ゐて
風俗舞を奏す。それから
五節の舞があるのです。五節の舞は、年々行はせられる新嘗祭の時にもあります。五節とは、左伝に見えて居る語で、遅速本末中声の五つであります。これをば天武天皇が、吉野で琴を弾じてゐらせられた時、神女が曲に応じて舞ひ、袖を挙ぐる事が五変であつたから五節といふとの説があります。五人の舞姫が、五たび袖を翻して舞ふだけのことでありますが、其の支度が華美である。華美であるばかりでなく、舞姫に附いて居る者が非常にやかましいのです。
舞姫は、親王大臣以下国司などからも出すのでありまして、其れに介添がある。舞姫一人に
傅人が八人、童女が二人、それから
下仕が四人、
樋洗一人、
上雑仕二人、其の
外まだいろいろ附きます。それであるから非常に華美を競ひます。是れは卯の日の御祭りの前から、ちやんと仕度が出来て、前々日丑の日に、宮中に御召になつて、豫め其の舞を御覧になるのです。其の次の日には、殿上の
淵酔というて、殿上人などが酒を飲んで、乱舞して愉快に楽しむのである。さうして御祭の当日、即ち卯の日の昼の中に童女下仕を清涼殿に召して、其の服装を御覧になる。これを
童御覧と申します。
此五節の舞が済みまして後は、
治部雅楽の楽人が楽を奏するとか、或は神服女四人が大和舞を奏するといふ風で、此の日には勅語があります。大嘗祭の勅語は此の時だけです。つまり御祭のあとで御下がりを頂戴する。それを
直会と云ふ。楽しく聞召したと云ふことの勅語であつて、公卿以上にそれぞれ賜はり物がある。それから十一月の晦に更に又朱雀門で
解斎の
大祓をする。是れで大嘗祭の大体が完結するのであります。
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明治の大嘗祭 それで明治天皇の即位礼は、従前のとかはつて居りますから、大嘗祭の方はどうであるかといふに、あまり大なる相違はないのであります。其の要点をあげて見ますと、先刻も御話した役員も、名前などが違ふだけであつて、たゞ大嘗祭は従来京都で行はせられたのであるのを、明治には、特に東京で行はせられたのであります。されば悠紀主基が従前と違つて京都附近でない。悠紀は安房の国、主基は甲斐国である。又東京で行はせらるゝに就いては、孝明天皇の月輪陵に特に御奉告なされたのであります。氷川神社、八神殿皇霊殿にも御奉告になり、官国弊社にも奉幣せられたのである。さう云ふ点が少し違つて居る
丈であります。
それで外国の公使に宴を賜はつたので、それは白酒黒酒の日本流の御馳走であります。尤も奏楽もあつたのだが、これは日本風でなく洋風の楽でありました。其の時には、副島外務卿が大嘗祭の御趣意を外国人に向つて演説した。
伊太利から特に派遣された公使が祝辞を述べた。日本に来て居る各国の公使では、
和蘭の公使が祝辞を述べる。または元の開成学校、即ち大学に於いて、雇教師となつて居る外国人にも宴を賜はつたのであります。兎に角、明治天皇の大嘗祭は、さう云ふ点が餘程違つて居ります。
此の大嘗祭の意義に就いては、前にも述べました如く、天孫降臨の際、天照大神が、天孫に供饌の料とし、国民の食料として、御授けになりました斎場の稲穂の成熟した初穂を以て、吉例により御代始に当りて、天照大神、及び天神地祇を御招請になつて、御親ら御饗応になり、御自分にも御相伴なさるのであります。即ち御先祖から賜はつた稲を播種して得た初穂で、先祖を饗するといふ意でありますから、
報本反始で、祖先を敬する意であります。これは、朝廷の上ばかりではない。国民の食料としても賜はつたものですから、前にも述べた如く、古代にては、民間にても各自新嘗をしたものであります。それが後には民間の新嘗はすたつて、朝廷の新嘗のみとなり、殊に御代の始に盛大なる大嘗祭を御執行になるのは、国民に代はりて、御親らなさるのであらうかと考へられます。
それ程の目出度い御儀式でありますから、新穀を作つて、御供物を献上した所の国司を初め、一同面白く楽しむと云ふやうな訳で、費用も構はずに、所謂御祭騒ぎをしたのでございます。それであるから朝廷でも、悠紀主基の国に対しては、餘程御手厚いことでありまして、殊に斎田にあてられました土地に対しては、つまり新穀に対する料として、其時分の租税を以て代償を御支辨になるのみならず、所謂庸調を御免じになる。元明天皇の御代にては、悠紀主基の郡司以下国人男女千八百五十二人に対して、位階を賜はつたと云ふ事もありますし、兎に角卜定になつた所の郡は、非常な名誉としたのであります。又奈良朝にては、特に明経、明法、文章、音、算、医、針、陰陽、天文、暦等の博士及び精勤のもの、殖産家、工藝家、武人等あらゆる方面の優れた人々に、
夫々恩賜のあつた事が、続日本紀にも見えて居ります。
実に上下一致の御祭であつて、たゞ宮中のみの御祭でないと云ふことは、歴史を見ても分ります。又是れはたゞ新穀を神に供すると云ふばかりでなくして、一方では、産業の奨励と云ふ意味も多少含んで居ると思はれますが、これは、先刻も御話致しました様に、種卸しから定めるのではないのです。群と云ふものは定めるけれども、何処の田と云ふことは、初から定めるのではないから、卜定された郡の者は、競争で稲を作らなければならないのであります。つまり出来の良い所を択ぶと云ふことであるから、自然と競争になるのです。それが即ち産業奨励といふ意味に自然となることであらうと思ひます。
御即位礼大嘗祭の沿革は、これで終りまするが、何分太古以来、御代毎に必ず行はせらるゝ大礼でありますから、なかなか数時間の講演では尽くされない。これは其の大体に留まるのであります。要するに御即位の礼は、御登極あらせられた事を親しく天神地祇に御奉告になり、且つ親しく臣民に御告になる大礼で、仁政を施して天下を治めるといふ叡旨を御示しになるので、大嘗祭は、報本反始で、御祖先を崇敬なさる御主旨でありますが、一は産業奨励の意味もこもつて居るのであらうと思ひます。(大正三年三月講演同四年九月国学院雑誌廿一巻九号所載)
(和田英松『國史國文之硏究』、雄山閣、大正十五年)