四、大嘗祭の儀式①
次に御儀式に就いてお話致しまするが、
国郡卜定
検校行事定
大祓使 五畿七道 八月上旬
由加物使 河内以下五ヶ国 八月上旬
奉幣使 伊勢神宮以下五畿七道諸社 八月下旬
抜穂使 八月下旬
神服使 九月上旬
荒見河祓 九月下旬
御禊 十月下旬
由奉幣 十一月上旬
習礼、御調度御覧
これをば、一々説明する積りですが、都合によつて合叙致すのもありますから、必ずしも此の順序を追うては居りません。
(1)祭日 大嘗祭を行はせらるゝ月日は、奈良朝以前より、十一月の中の卯の日、若くは下の卯の日に定まつて居たやうでありますが、中には称徳天皇の時は酉の日で、後桜町天皇の時は上の卯の日であつた。いづれも女帝の時であるから、何か止むを得ない御差支があつた故と思はれます。また後土御門天皇の時は、十二月に行はせられたのですから、最も異例であります。これは触穢のために十一月に挙行する事が出来なかつたのである。且つ其の頃両斯波両畠山の葛藤についで、細川山名が兵端を開かんとして、物情
そこで種々評議の上、十二月行うた例は、天武天皇の御代で、最も佳例であるといふ一条
それで、祭日は十一月中下の卯の日に定まつて居るが、践祚のあつた年には必ず行はるゝかといふに、決してさうばかりではない。貞観儀式、延喜式などの規定によると、七月以前に即位式を行はれたならば、其の年の中に行はれる、八月以後ならば、翌年に至つて行ふといふことになつて居ります。奈良朝にても、
(2)国郡卜定 御祭典の趣意は前にも述べました如く、新穀を以て神を御祭りになると云ふことでありますから、兎に角主眼たるものは新穀である。それが為めに斎田 と云ふものが必要でありますが、此の斎田の御決定と云ふ事が、昔と今日とは多少相違がある様でございます。これを国郡 の卜定と云ひまして、大嘗祭の中では最も重要なもので、何よりも最初に執り行ふのであります。卜定の月は別に定まつて居りません。御即位の遅速にもよりますが、四月の例が多く、後には四月下旬以後、殊に廿八日が多いやうであります。また二月三月の例もあり、四月以後の例もあるが、鳥羽、後鳥羽、後伏見、東山、中御門の五代は八月で、後白河天皇の時は九月でありました。九月では、祭日までの間が僅に二ヶ月であります。
卜定とは、神祇官の人が立会で亀卜に依つて定めるのである。波々迦 の木を燃やして亀の甲を灼く。亀は新しいのはいかぬさうです。古い亀の方が膏気 がなくつて宜いと云ふ。それを将棊の駒の形に切つて灼いて、其の裂目に依つて定めるのであります。斯 うして先づ国郡を悠紀 主基 の両 つに分けて定める。これは前申しました天照大神が、狭田 長田 の両つの御田に稲を御作りになつたと云ふことが、其の起源のやうであります。
抑 悠紀主基とは如何なる意でありますか、いろいろ説がございまして一定して居りません。日本紀に悠紀を斎忌 、主基を次 と記してありますので、平安朝頃から、近世までの諸書はこれに従つて悠紀を神斎とし、主基を次と解説致しまして、殆ど異論がなかつたやうです。然るに、独り本居宣長が、次は借字で「すゝぎ」の意であると解釈せられたのであります。此の説は穏当のやうですから、普く用ひられて、私も一時は之れに従うて居りましたが、熟考致しまするに、日本紀の次をば字義によつたのではなく借字とせば、斎忌も亦 、字義によつたのではなく、借字としなければならぬ。日本紀の文字を離れての解釈ならば格別ですが、日本紀によるとせば、いづれも同じやうに見なければ穏当でない。斎忌の借字でない事は明でありますから、主基も亦、旧説の如く、次と解釈しなければならぬ事と思ひます。
されど、悠紀といひ主基と申しましても、別に甲乙のあるのではなく、唯御儀式の順序を示すに止まるのみであらうと思ひます。この悠紀主基の卜定は今日新嘗祭にも矢張りあるさうです。昔も新嘗祭には、特に国郡を卜定したと云ふことであります。併し新嘗祭の方は歴史に詳しいことが載つて居りませぬから、明細なことは分りませぬ。
そこで国郡を卜定せられた事の、ものに見えて居りまするのは、天武天皇の御代からでありますが、之を調べて見ますると、大要京都を中心として、東西に定まつて居る様であります。東の方は、東海道では遠江まで、東山道では美濃あたりまで。西の方は、山陽道では備中まで、山陰道は因幡までの範囲らしい。でありますから、大凡の処は定まつて居るのです。
唯〻変はつて居るのは、北陸道の越前が這入つて居る。さうして必しも悠紀主基と云ふものが一定して居るのではない。或は此の御代には悠紀になり、次の御代には主基になつたものがあります。また文武天皇の如く、悠紀主基とも東方の美濃尾張であつたり、聖武天皇の如く、西方の播磨備前であつた例もありますが、大体に於て、悠紀に択ばれたのは東方が多く、主基に択ばれたのは西方が多いやうであります。
それが後には、大凡悠紀主基が定まつて、平安朝の宇多天皇以来と云ふものは、悠紀は近江と定まつて居つた。主基の方は村上天皇以外には丹波と備中と交替であつたこともあり、丹波が四代もしくは二代続いたこともあり、備中ばかり二三代も続いたこともあつた。然るに後花園天皇以来は、悠紀は近江、主基は丹波と云ふことに定まつたのである。それ故国郡の卜定と申しましても、後には郡だけの卜定になつたのであります。近江なり、丹波なりの国は定まつて居ますから、唯〻郡を択むことになつて居たのであります。なほ古来卜定された国々を列挙すれば、
卜定とは、神祇官の人が立会で亀卜に依つて定めるのである。
されど、悠紀といひ主基と申しましても、別に甲乙のあるのではなく、唯御儀式の順序を示すに止まるのみであらうと思ひます。この悠紀主基の卜定は今日新嘗祭にも矢張りあるさうです。昔も新嘗祭には、特に国郡を卜定したと云ふことであります。併し新嘗祭の方は歴史に詳しいことが載つて居りませぬから、明細なことは分りませぬ。
そこで国郡を卜定せられた事の、ものに見えて居りまするのは、天武天皇の御代からでありますが、之を調べて見ますると、大要京都を中心として、東西に定まつて居る様であります。東の方は、東海道では遠江まで、東山道では美濃あたりまで。西の方は、山陽道では備中まで、山陰道は因幡までの範囲らしい。でありますから、大凡の処は定まつて居るのです。
唯〻変はつて居るのは、北陸道の越前が這入つて居る。さうして必しも悠紀主基と云ふものが一定して居るのではない。或は此の御代には悠紀になり、次の御代には主基になつたものがあります。また文武天皇の如く、悠紀主基とも東方の美濃尾張であつたり、聖武天皇の如く、西方の播磨備前であつた例もありますが、大体に於て、悠紀に択ばれたのは東方が多く、主基に択ばれたのは西方が多いやうであります。
それが後には、大凡悠紀主基が定まつて、平安朝の宇多天皇以来と云ふものは、悠紀は近江と定まつて居つた。主基の方は村上天皇以外には丹波と備中と交替であつたこともあり、丹波が四代もしくは二代続いたこともあり、備中ばかり二三代も続いたこともあつた。然るに後花園天皇以来は、悠紀は近江、主基は丹波と云ふことに定まつたのである。それ故国郡の卜定と申しましても、後には郡だけの卜定になつたのであります。近江なり、丹波なりの国は定まつて居ますから、唯〻郡を択むことになつて居たのであります。なほ古来卜定された国々を列挙すれば、
悠紀 伊勢、尾張、三河、遠江、近江、美濃、越前、丹波、因幡、播磨、甲斐、
主基 美濃、越前、丹波、但馬、因幡、美作、備前、備中、安房、
等であります。
それから斎田の選定は、抜穂使 と云ふのを派遣されて定まるのである。但し種おろしの前に決定するのではなく、穂の出るまで待つのです。蓋 し最も出来のよいのを選ばれたもので、これが大に農業の奨励となつたものと考へられます。抜穂使 と云ふのは、稲の穂を取りに行くのでありまして、八月の下旬、若くは九月十月頃に神祇官の官吏を抜穂使に卜定して、其の地方に派遣する。是 れは悠紀と主基と別々に行つたのです。明治天皇の時には一人で両国へ行つたのです。さうして稲穂を持つて帰るのですから、兎に角一ヶ月ばかりは、其の地方に滞在しなければならない。
まづ抜穂使が斎郡に到着すると、国司郡司などが立会つて大祓をなし、御饌、及び斎院の土地などを卜定するのであります。其の土地には、榊に木綿をかけ之を四隅に建てゝ、其の中に八神殿 稲実殿 以下の屋舎を造るのである。八神殿には、御膳の事などに預り給ふ神八座を奉祀するのであります。稲実殿には御料の稲穂を置くのです。其の外新穀を穂から籾にし、それを舂 いて神饌にする迄のことをするものゝ宿泊する処や、また白酒 黒酒 と云ふ二種の酒を造る者とか、いろいろ雑役人の宿泊する処や、其の外の屋舎を幾つも建てるのであります。其の神饌の事を奉仕するものや、酒を造る者は勿論、其の他の雑役人なども、凡て其の地方の人を択ぶのですが、殊に白酒黒酒を造る者は、郡司の女を択んだので、之れを酒造児 と申します。
さう云ふ風に、いろいろの建物が出来ます。其建物や雑役其の外にもいろいろの名称がありますが、名称は略しまして、兎に角それ等の人々が其の処に宿泊して決して外に出ない。清浄潔白にして、御用を勤めるのであります。それで斎田は六反程でありまして、之れを大田 と称し、其の稲穂を撰子稲 と申します。田の四隅に矢張り木綿をかけた榊を立てゝ、清浄にして人夫四人に守らせて置きます。
斯様 に致して一ヶ月程経ちまして稲穂が成熟致しますと、抜穂使が国郡司其の他の人々を率ゐて、先づ水辺で祓を行ひ、それから斎田に至り稲を抜き取つて、斎院といふ建物で乾かす、最初に抜き取つた四束をば、供御飯に擬して別に置き、其の他を黒白酒の料とするのであります。九月下旬に其れをば持つて京都へ上ぼる。其の時は、国司を初め、前に述べました酒を造る者まで、皆同列で上京して、斎場所に運ぶのです。
(3)由加物 及び神服 使 此の如く神饌、神酒の料稲は、斎田よりとられるのですが、それにつぐべき供物、祭器類は、由加物 と申して、河内、和泉、尾張、三河、備前、紀伊、淡路、阿波等に調達を命ぜられ、監造の為に発遣せらるゝ官吏を由加物使 と申します。また神服の料糸の調達、及び服長 、織女 等召喚の為に、三河国に発遣せらるゝのを、神服使 と申します。神服を織る服長、織女等は、神服部の祖神を祭れる、同国神服社(赤日子 神社)の神戸から卜定するのであります。
(4)職員 次に大嘗祭執行に就いては、即位の礼と同じく、今日で申す大礼使の如き、職員を臨時に置かれるので、之をば、それから斎田の選定は、
まづ抜穂使が斎郡に到着すると、国司郡司などが立会つて大祓をなし、御饌、及び斎院の土地などを卜定するのであります。其の土地には、榊に木綿をかけ之を四隅に建てゝ、其の中に
さう云ふ風に、いろいろの建物が出来ます。其建物や雑役其の外にもいろいろの名称がありますが、名称は略しまして、兎に角それ等の人々が其の処に宿泊して決して外に出ない。清浄潔白にして、御用を勤めるのであります。それで斎田は六反程でありまして、之れを
この中の斎場所は抜穂、神服、由加物以下神御の料物、祭祀の調度等を運んで、調理する所で、宮城の北野を卜定して、設けるのです。其内に、内院、外院、服院、其他の屋舎があります。内院は悠紀主基に別かれて、各中に八神を祀る神座殿、稲実殿、白酒殿、黒酒殿などがある。この斎場で神供の料物及び祭祀に関する調度等を調理設備するのです。室町時代には、幕府からも、評定衆一人を
(和田英松『國史國文之硏究』、雄山閣、大正十五年)
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