2019年11月9日土曜日

大嘗祭(和田英松)――三、大嘗祭の起原沿革①

三、大嘗祭の起原沿革①


かくの如く新嘗は上下ともに行はれたものでありますが、朝廷にては、大嘗新嘗と昔から区別があつたものでありますか、日本紀に見えて居る所では、区別があつた様にも思はれぬから、もとは一つで、代始めに行はるゝものも、毎年行はるゝものも、其の儀式にかはりはなかつたものでありませう。

それが区別せられたのは、いつの頃でありませうか、何分古いところの国史は簡略でありますから判明して居りませぬ。天武天皇二年十一月に大嘗祭を行はせられ、五年、六年に新嘗祭を行はせられた事が日本紀に見えて、大嘗新嘗と書きわけて居ります。されば、この頃から区別せられたやうでありますが、あるいはこれより以前から分つて居つたものであるかも知れませぬ。

文武天皇の大宝の制では、神祇令に、「天皇即位総祭天神地祇[1]」と見え、「大嘗者、毎世一年国司行事[2]」と規定してあります。其の頃の御儀式は、いかなる有様でありませうか、別に記したものがありませぬから詳に知れませぬ。但し日本紀、続日本紀、日本後紀に記してある、持統天皇より嵯峨天皇まで、十三代の大嘗祭の記事を見まするに、大同小異でありますから、古式のまゝを行はれたやうに思はれます。但し平城天皇の御代には、大嘗祭の散斎あらいみが三ヶ月であつたのを一ヶ月に改め、また大嘗祭に奉仕する、雑楽伎人に唐物をかざりとしたものがあるので、禁断したのを見ますると、時々改正があつたものと見えます。

1 読み下し。「天皇みくらゐに即きたまはゞ、総て天神地祇を祭れ。」
2 読み下し。「大嘗は世ごとに一年、国司行事せよ。」
ところが嵯峨天皇の御代に、宮中に於ける御儀式を御制定になりまして、弘仁儀式十巻を撰ばれました。此書は、前にも述べました如く、今日伝はつて居りませぬけれど、本朝法家文書目録によつて見ますると、十巻の中巻一から三巻までは、大嘗祭の御儀式が書いてあります。それを以ても、大嘗祭の御儀式の、如何に荘厳であり、御鄭重であつたかと云ふ事を、今日から推察することが出来ます。

それから清和天皇の御代に貞観儀式十巻を制定せられました。これは、今日伝はつて居りまして、れを弘仁儀式の目録と対照致しますると、同じ事であります。殊に大嘗祭の御儀式もやはり三巻でありますから、弘仁儀式と大差はあるまいと思はれますので、それに依つて、弘仁の有様を窺ふことが出来るのであります。但し此の時には、即位式を改定して支那風となし、旧来の即位式をば、大嘗祭の中に参酌附加せられたものと見えますから、大嘗祭の儀式は一層重々しくなつたものと考へられます。

然るに弘仁儀式御制定の後は、これによつて始めて大嘗祭を行はれたのは、淳和天皇の御代で、弘仁十四年十一月に行はれました。然るに其の頃は、御代がはりしげく、二十年間に大嘗祭が三度行はれ、且つ国事多端人民疲弊して居るといふことで、御大礼も節約する事になつた。特に設くべき行事所などは官衙を用ひ、金銀の類をば一切用ひぬことにせられた。されば費用も悠紀ゆき主基すきで、各正税十万束に定められたけれど、悠紀主基の両国司の懇請によつて、各五万束を加へられたのであります。

貞観式、延喜式によりますと、大嘗祭の料稲は、国別に正税一万束を課することになつて居まして、総計六十餘万束の豫定であつたのです。此の時は三十万束で、半額にも足らぬので済まされたのであるから、大に節約せられたものと見えます。それ故万事が、省略でありましたから、弘仁儀式のまゝを始めて実施したのは、仁明天皇の御代であつたらうと思ひます。

それから貞観儀式の次には、醍醐天皇の御代延喜儀式を撰ばれ、爾来じらい之れによつて行はれたものであります。さりながら、後には祭儀を行はせらるゝ御場所に支障があつて変更された為に、これ等の儀式のまゝを行ふを得ず、それが為に御儀式の上にも、異同を生ずる様になつて、段々略儀となつたのであります。


それで御儀式を行はせらるゝ所は、奈良朝にては、淳仁天皇の御代は乾政官、光仁、桓武両帝は朝堂院てうだうゐんで、弘仁儀式以下も朝堂院内の大極殿前に行ふ事に定まつたのであります。大極殿の前庭中に、一つの仕切があつて、南方が一段低くなつて居る。この仕切をば、龍尾道りゆうびだうと申します。龍尾道の両方に階段があつて、昇降するのであります。此の龍尾道の前に大嘗宮を新造して、其処で御親祭の儀を行はせらるゝことになつて居ります。また祭典後の辰巳両日の節会、及び豊明節会は、朝堂院の西にある豊楽院で行はるゝのであります。されど火災のあつた時や、破壊した時には、儀式を行はせらるゝ場所はどうでありませうか。

清和天皇の御代、朝堂院が焼失致しまして、未だ造営がをはらないので、次の陽成天皇は、豊楽院で行はせられたのであります。豊楽院は朝堂院と同じ大きさで、前庭が広いから、翌日の節会に使用せらるゝ前庭の外、差支なき所に、大嘗宮を建てられたものでありませう。ところが、花山天皇の御代には、豊楽院の正殿なる豊楽殿が破壊して、節会を行ふところがない。それで、大極殿にて節会を行はれたのであります。後三条天皇の御代には、大極殿も、豊楽殿も焼失して、閑院殿を皇居とせられたのでありますから、御即位式は太政官庁で行はれたのでありますが、大嘗祭は、どこで行はせられたのでありませうか。

本朝世紀に、大嘗宮は、龍尾道の前に造り、太政官で、節会を行はせられた事が記してあります。この時、大極殿は焼失して居りますのにもかゝはらず、龍尾道を用ひられたのは、どういふ意味でありませうか。元来大嘗祭を行はるゝ大嘗宮は新造せらるゝのであるから、あり来りの宮殿を使用する必用がない。仮令たとひ大極殿はなくとも、龍尾道の前庭さへ、使用に差支なければよいのである。それで、其の旧趾を用ひられたものであらうと思ひます。併しながら、節会は豊楽殿に、御帳台みちやうだい高御座たかみくらを置かれ、殿中で行はせらるゝ例で、それに代はるべき宮殿でなくば行はれぬから、御即位式に使用せられた太政官の正庁を用ひられたのであります。

平安朝の末にも、朝堂院、豊楽院が焼亡致しましたので、安徳天皇の御代には、御即位式を紫宸殿で行はれましたから、大嘗祭の節会をも紫宸殿で行はせられました。祭典の方は明ではありませんが、多分後三条天皇の例によられて、龍尾道前の旧趾を用ひられたものでありませう。後鳥羽天皇の御代も大嘗宮は同じ事でありますが、紫宸殿は佳例でないといふので、後三条天皇の例によりて、即位式を太政官庁にて行はれましたから、大嘗祭の節会をも太政官庁で行はれました。それが、朝堂院、豊楽院とも、遂に再造するに至らなかつたのでありますから、後々までも、後鳥羽天皇の例によられたものであります。後には、閑院殿や土御門殿などの里内裏さとだいりのみが皇居となり、大内裏だいだいりますます荒廃して、内野うちのと申す如く、野原となつたのであります。其の旧趾に大嘗宮を建てるのでありまして、御祭典は夜分でありますが、皇居との距離も餘程ありますから暗夜には、行幸の際、前行の者が道路を踏み迷うて、難儀した事があつたのであります。

此の如く大礼執行に就いて、必要なる宮殿の再造が出来なかつたのは、庄園の濫置によつて、国用缺乏した為であります。されば、大嘗祭の用途も不足致したので、鳥羽天皇の時には、金七十両銀千六百両の豫算でありましたが、尚銀三百両を要すれど、財源がないので、売官ばいくわん成功じやうごうによつて之を補うたのです。此後はますます用途が不足がちで、或は売官成功により、或は荘園に課税し、後には段銭たんせん段米たんまいというて、田地一たんつき幾らと定めて、米なり銭なりを徴収して、調達せられたものであります。

鎌倉時代以後に於ては、御歴代の中、この御儀式を行はせられなかつたこともある。仲恭天皇は、践祚なされてから、七十餘日で承久の乱が起つて、遂に北条氏の為めに廃せられたのでありますから、御即位式も大嘗祭も行はせられずに終はつた。南北朝にも、後村上天皇は吉野に在らせられたので、御即位式と申しても、型ばかりでありましたから、無論大嘗祭は行はせられなかつたものと推測致されます。北朝方にても、崇光院は大嘗祭を行はれなかつたのである。



(和田英松『國史國文之硏究』、雄山閣、大正十五年)

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