三、大嘗祭の起原沿革①
それが区別せられたのは、いつの頃でありませうか、何分古いところの国史は簡略でありますから判明して居りませぬ。天武天皇二年十一月に大嘗祭を行はせられ、五年、六年に新嘗祭を行はせられた事が日本紀に見えて、大嘗新嘗と書きわけて居ります。されば、この頃から区別せられたやうでありますが、
文武天皇の大宝の制では、神祇令に、「天皇即位総祭天神地祇[1]」と見え、「大嘗者、毎世一年国司行事[2]」と規定してあります。其の頃の御儀式は、いかなる有様でありませうか、別に記したものがありませぬから詳に知れませぬ。但し日本紀、続日本紀、日本後紀に記してある、持統天皇より嵯峨天皇まで、十三代の大嘗祭の記事を見まするに、大同小異でありますから、古式のまゝを行はれたやうに思はれます。但し平城天皇の御代には、大嘗祭の
註ところが嵯峨天皇の御代に、宮中に於ける御儀式を御制定になりまして、弘仁儀式十巻を撰ばれました。此書は、前にも述べました如く、今日伝はつて居りませぬけれど、本朝法家文書目録によつて見ますると、十巻の中巻一から三巻までは、大嘗祭の御儀式が書いてあります。それを以ても、大嘗祭の御儀式の、如何に荘厳であり、御鄭重であつたかと云ふ事を、今日から推察することが出来ます。
1 読み下し。「天皇位 に即きたまはゞ、総て天神地祇を祭れ。」
2 読み下し。「大嘗は世毎 に一年、国司行事せよ。」
それから清和天皇の御代に貞観儀式十巻を制定せられました。これは、今日伝はつて居りまして、
然るに弘仁儀式御制定の後は、これによつて始めて大嘗祭を行はれたのは、淳和天皇の御代で、弘仁十四年十一月に行はれました。然るに其の頃は、御代がはりしげく、二十年間に大嘗祭が三度行はれ、且つ国事多端人民疲弊して居るといふことで、御大礼も節約する事になつた。特に設くべき行事所などは官衙を用ひ、金銀の類をば一切用ひぬことにせられた。されば費用も
貞観式、延喜式によりますと、大嘗祭の料稲は、国別に正税一万束を課することになつて居まして、総計六十餘万束の豫定であつたのです。此の時は三十万束で、半額にも足らぬので済まされたのであるから、大に節約せられたものと見えます。それ故万事が、省略でありましたから、弘仁儀式のまゝを始めて実施したのは、仁明天皇の御代であつたらうと思ひます。
それから貞観儀式の次には、醍醐天皇の御代延喜儀式を撰ばれ、
それで御儀式を行はせらるゝ所は、奈良朝にては、淳仁天皇の御代は乾政官、光仁、桓武両帝は
清和天皇の御代、朝堂院が焼失致しまして、未だ造営が
本朝世紀に、大嘗宮は、龍尾道の前に造り、太政官で、節会を行はせられた事が記してあります。この時、大極殿は焼失して居りますのにも
平安朝の末にも、朝堂院、豊楽院が焼亡致しましたので、安徳天皇の御代には、御即位式を紫宸殿で行はれましたから、大嘗祭の節会をも紫宸殿で行はせられました。祭典の方は明ではありませんが、多分後三条天皇の例によられて、龍尾道前の旧趾を用ひられたものでありませう。後鳥羽天皇の御代も大嘗宮は同じ事でありますが、紫宸殿は佳例でないといふので、後三条天皇の例によりて、即位式を太政官庁にて行はれましたから、大嘗祭の節会をも太政官庁で行はれました。それが、朝堂院、豊楽院とも、遂に再造するに至らなかつたのでありますから、後々までも、後鳥羽天皇の例によられたものであります。後には、閑院殿や土御門殿などの
此の如く大礼執行に就いて、必要なる宮殿の再造が出来なかつたのは、庄園の濫置によつて、国用缺乏した為であります。されば、大嘗祭の用途も不足致したので、鳥羽天皇の時には、金七十両銀千六百両の豫算でありましたが、尚銀三百両を要すれど、財源がないので、
鎌倉時代以後に於ては、御歴代の中、この御儀式を行はせられなかつたこともある。仲恭天皇は、践祚なされてから、七十餘日で承久の乱が起つて、遂に北条氏の為めに廃せられたのでありますから、御即位式も大嘗祭も行はせられずに終はつた。南北朝にも、後村上天皇は吉野に在らせられたので、御即位式と申しても、型ばかりでありましたから、無論大嘗祭は行はせられなかつたものと推測致されます。北朝方にても、崇光院は大嘗祭を行はれなかつたのである。
(和田英松『國史國文之硏究』、雄山閣、大正十五年)
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