三、大嘗祭の起原沿革②
南北合一以後も、矢張り龍尾道前の旧趾で大嘗祭を行はせられたのであるが、応仁以後は、御承知の通り戦乱打続きまして、殊に京洛の地は、
鬨の声矢さけびの音絶ゆる事なく、修羅の巷となつたのであります。それ故、朝廷の御儀式の中廃絶となつたのが多く、後柏原天皇は、践祚あらせられてから廿餘年も御即位式を行はせられなかつたのであります。其の位であるから、大嘗祭は遂に行はれずして終はつた。
其の次の後奈良天皇、正親町天皇も、皆御即位式も延びて大嘗祭も行はれなかつたのです。それが後陽成天皇の時には、豊太閤秀吉が天下を平定して、政権を取るやうになりましたので、御即位式は一ヶ月経たぬ内に行はせられたけれども、大嘗祭は行ふに至らなかつた。其の次の後水尾天皇が践祚あらせられたのは、丁度徳川家康が上洛して居つた時(慶長十六年)でありますが、此の時も、御即位式は非常に早かつたのです。平安朝にも例のない程早く行はせられたが、大嘗祭は矢張り行はせられなかつたのであります。
斯の如く、秀吉家康が政柄を執つて居た時は、どんな事でも出来る時代でありましたけれども、此の大切なる大嘗祭は、行ふことが出来なかつた。殊に後水尾天皇の次の明正天皇は二代将軍秀忠の
女東福門院の御腹でゐらせられ、御外祖なる秀忠が未だ存生中であつたけれども、大嘗祭を行はせられなかつたのであります。これは再興の議はあつても、女帝でゐらせられたので行はれなかつたのでありませうが、徴すべきものもございませんから、不明であります。さればその後、後光明、後西院、霊元の三代も、御即位式のみでありました。大嘗祭ばかりでない。新嘗祭が既に応仁以前からして廃せられて居ましたけれど、それさへも復興することが出来なかつた。
然るに霊元天皇が、東山天皇に御譲位になる以前に所司代を以て、種々幕府に御交渉があつた。幕府の方では、費用が足らないと云ふ理由を以て、御断りをした。所が霊元天皇と云ふ御方は、非常に英明な御方であり、殊に一旦勅命のあつたことは、決して改めると云ふことのない御方であります。此の御方が、是非此の古式をば復興したいと云ふ思召で、御交渉になりましたが、どうも関東の方では聞かない。公家衆の中にも、反対があつた。と云ふのは、公家衆の方は理由がある。古式の
儘を復興するならば宜いが、なまなかに簡略の御儀式と云ふことはいけないと云ふのであります。
皇族方の中でも
堯恕法親王などは、不賛成の方であつた。其の御意見が御日記に載せてあります。即ち今度の大嘗祭は、大礼を備へて神宮を祭る儀であるが、此の度は諸事省略して十分の一にあたらず、略は非礼で、非礼は神が受けない、神が受けなければ福を致す事なく、禍を致すべきである。且つ衆の心は即ち神慮である。衆の悦でないものは、神も悦ばぬのは明である。此の如き大礼は省略せずして行ふべきで、行ひ難きは行はざるを可とす。強ひて行ふは、衆を労し、神を欺くのである、と云ふ御議論であつた。
それにも構はず、関東からは費用を仰がない、即位式の費用を割いて、大嘗祭を行ふ事に決定せられた。国郡を卜定し、
悠紀主基を定められてから、費用の不足を危んで御中止になると云ふ噂まであつたけれども、それにも関せずして、行はせられた。尤も御即位の費用として、七千二百
石程幕府から支出する訳である。其の中から二千七百石と、銀廿貫とを割いて行はせられた。それ故実際は無理な話であるのを、強ひて御再興になると云ふことは、最も神慮に応じ、
弥〻公武長久の基ともなるといふ叡慮でありました。
さういふ訳でありまして、大嘗祭は、三日に亘る御儀式であるけれども、それを一日に詰めて行はせられた。殊に大嘗宮を建つべき龍尾道前の旧趾は畑になつて居りますから、紫宸殿前に大嘗宮を建てたのです。けれども節会はやはり紫宸殿で行ふのでありますから、夜明の頃御親祭式がすむと、
直に取り
壊ちて、其のあとをば、其の日行はるゝ節会の式場とせられたのであります。兎に角、霊元天皇の御譲位には、大嘗祭の復興と云ふことが、餘程籠つて居るのではないかと思ひます。それから、次の中御門天皇の御代に至つて、一旦起された所の大嘗祭をば中止されました。其の理由は判明致して居りませぬ。其の時は霊元天皇もまだ御在世中でゐらせられましたから、如何ばかりか遺憾に思召したことであらうと拝察するのであります。
それから享保の末(八代将軍吉宗の頃)に至りまして、霊元法皇は八十歳近くで崩御になり、中御門天皇も崩御あらせられて、桜町天皇が践祚あらせられた。其の時に大嘗祭復興の議が起つて、いろいろ宮中で御相談があつた。尤も東山天皇の時にも、関白一条
兼輝と云ふ人が餘程尽力されたらしい。それでありますから、此の人は一方からは非常に恨みを受けて居られたやうでありますが、兼輝の子の
兼香が、桜町天皇の時にも骨を折り、其の外の公卿も悉く同意して、幕府に対して大嘗祭の復興を迫つた。
なかなか朝廷でも幕府に対する一つの政略も考へて居られた様ですが、前の東山天皇の時の事情もありますので、そこで三つの要件を提出された。其の三つの要件と云ふのは、(一)宮中の御儀式の中で、最も大切なる所の大嘗祭、(二)年々行はせられる新嘗祭、(三)六月十一日と十二月十一日に行はせられる月次祭後の神今食、此の三つの復興を要求せられた。神今食と云ふのは前にも述べました如く、新嘗祭、大嘗祭と性質が
能く似て居る御儀式であります。そこで、この三つを要求されたので、幕府の方でも、いろいろ心配した。殊に所司代の
土岐丹後守
頼藝と云ふ人が、なかなか骨を折つたらしい。丁度八代将軍吉宗の時でありますが、頼藝が関東に下つて、いろいろ復興の相談を持出した。さうして幕府では、三つの復興は誠に困ると云ふことであつて、大嘗祭だけの復興を承知した。
尤も新嘗祭は、東山天皇の御代大嘗祭を行はせられる時に、型ばかりに中興されたのであります。
是れは京都の吉田家に、神祇官の八神殿がありますから、吉田家に御委託になつて、吉田家で御祭をすると云ふことであつた。それをば尚ほ今度は大きくしよう、宮中へ移して昔の通りにしようと云ふことでありましたのです。けれども、幕府では悉く三つを復興する事は困ると云つて、大嘗祭だけを承知した。さうして幕府で費用を出すことになつた。但し新嘗祭は、其翌年からといふ約束でありましたが、一年延期して元文五年から再興したのである。徳川氏の最も盛である八代将軍の時であるにかゝはらず、速に事の運んだのは皇室の紀綱が段々復興する機運に向つた時であらうと思ひます。尚一方から考へますと、幕府の方にも、此の古式を復興したいと云ふ考を
有つてゐた人があつたものだらうと思ひます。
それは
外ではありませぬが、八代将軍吉宗は、
固より聡明な人である上に、吉宗の子に
田安宗武と云ふ人があつて、此の人が、非常に国典の研究に趣味を有つて居りまして、
荷田春満の子の
在満を召抱へて、国史国文の研究をしたのである。在満は後に歌の論に就いて、意見が合はないで引込みましたが、其の次には
賀茂真淵が出た。さう云ふ訳でありましたから、宗武の国典の研究には非常に趣味を有つて居つた。随つて大嘗祭の如何なるものであるかと云ふことは、無論知つて居つたでありませうし、殊に在満が附いて居る時分のことであるから、之れによつて考へて見ますると、在満が裏面から宗武に勧め、宗武が親の吉宗に勧めたと云ふやうな事があつたもので、思ひの
外に復興の議が
容易く成立つたものであらうと想像せられます。
是れは別に其の証拠はありませぬが、考へて見ると、さう云ふやうに思はれるのです。そこで、東山天皇の時には、節会が一日であつたのを復興して、三日としたのであります。さうして幕府からは、在満と画師の
住吉広行と云ふ人が上洛して、御儀式を拝観する。それですから、餘程細かい処までも立入つて拝観もし、調べもしたのであります。在満が其の時分に書いた「大嘗会具釈」と云ふ書物が九巻ほどありますが、なかなか能く調べて書いてある。又其の時の御儀式の模様を広行が画いて幕府に出した。
所で在満の門人が沢山ありまして、其れ等が御儀式のことを拝聴したいと云ふ希望でありますから、在満が門人に御儀式の講話をしたのであります。すると門人が是非これを出版したいと云ふので、そこで在満が大要を書いて、中に画などを挿んで出版した。之れを「大嘗会便蒙」と申します。所が当時の公卿衆が其の書物を見て、いろいろ評議があつた。どうも宮中の神祕に属することを遠慮なく書いて出版すると云ふことは、甚だ宜しくないと、まあ今日で言へば、出版条例に触れると云ふやうな事で、非常に事が面倒になつて、幕府に掛合はれました。そこで幕府でも申訳がないと云ふので、在満に閉居を命じた。
在満は門人の懇請がもだし難いのと、唯々御儀式の尊いことを一般に知らせようと云ふので、出版したのでありませうが、時勢が今とは違ひますから、其れが罪になつた。是れは朝廷のことばかりではない。幕府の内部の餘り差支ないことを書いても、それが遠島とか、又は重い罪に処せられる。然るに朝廷のことであるから、閉居で事がす
むだのです。
此の如く、桜町天皇の時に再び復興になりまして以来、孝明天皇まで、其の御儀式に多少の相違はございませうが、先づ古式に復されたのでございます。明治天皇の大嘗祭は、明治四年十一月に行はせられたので、
已に東京に遷都の後でありましたから、宮城内吹上御苑にて、御挙行になつたのであります。
さても此の御儀式には、世職世業であつた古式のまゝの役名の人々が、奉仕する事となつて居たのでありますが、後には其の子孫が断絶して居ますから、代理の者が出る事になつて居たのである。明治天皇の時には、御即位式の方もいろいろ改訂されましたが、大嘗祭の方も、古い職名で今日伝はつてゐないのはいかぬからと云ふので、一切改められたのであります。それで明治の大嘗祭を行はせられたのでありますが、併し御式は矢張り昔の御式に拠られたのであります。
大正の大嘗祭の御儀式も、矢張り古式に拠られるのでありますが、唯〻昔は御親式は天皇陛下だけで、皇太子を始め、皇族方、以下臣僚が拝礼したので、皇后陛下は御加はりにならなかつた。それが登極令に依りますと、皇后陛下も御参列になる。其処が古今の異同であります。是れが大嘗祭に関する沿革の大要でございます。
(和田英松『國史國文之硏究』、雄山閣、大正十五年)
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