第三の例外は、「じ」と「ぢ」および「ず」と「づ」の使ひ分けです。この場合の本則は、一音一字の原則からいつて、「ぢ」「づ」をやめ、すべて「じ」「ず」にするとなつてをります。問題はその「例外」です。やはり「ぢ」「づ」を用ゐなければならぬ場合があるのです。しかも、かなりたくさんある。原則的に槪括すれば、次の二つになります。
一 二語の連合によつて生じた「ぢ」「づ」
二 同音の連呼によつて生じた「ぢ」「づ」
前者に相當するのは、たとへば、「鼻」と「血」、「三日」と「月」、それぞれ二語を連ねて出來てゐる言葉である「鼻血」「三日月」のやうなものです。これらは「はな
ぢ」「みか
づき」と書き、「はな
じ」「みか
ずき」と書いては誤りになります。それに準ずるものとして、國語審議會は次のやうな例を擧げてゐます
(昭和三十一年七月の案)
あいそづかし かたづく ことづて ひとづて たづな けづめ ひづめ こぢんまり こづく こづかい こづつみ こづくり くにづくし こころづくし むしづくし
さらに廣田氏は「いれぢえ」「ちやのみぢやわん」「てぢか」「ばかぢから」「ほおづえ」「かいづか」「いきづかい」等〻數十語を列擧してゐますが、おそらくその種の例は無數にあり、かつ今後もふえてゆくことでせう。それはいいとして、次のやうな場合には、同じ二語連合でも、「ぢ」「づ」を用ゐず「じ」「ず」と書かねばならぬことになつてをります。
うなずく ぬかずく つまずく ひざまずく かしずく かたず みみずく いなずま きずな さかずき おとずれ さしずめ なかんずく あせみずく うでずく かねずく ちからずく きぬずくめ おのずから くちずから しおじ たびじ いえじゆう いちにちじゆう せかいじゆう
では、何を根據にしてその差を識別し書き分けるのか。それはもちろん語源であります。現在一語をなしてゐるそれぞれの語を語源に
遡つて二語の連合であると分析しうる語意識であります。それだけに語意識が今日もなほ生きてゐると認められる場合は、「じ」「ず」か「ぢ」「づ」かを嚴密に書き分けねばならぬといふのです。「小さなつつみ」だから「こ
づつみ」、「小さな造り」だから「こ
づくり」で、さて、「口ずから」は……となると、この「ずから」は一般に語源が解らないから、解らぬ場合は「す」の濁り、すなはち「口
ずから」でいい。かういふふうに書き分けるわけです。早い話が問題の「現代かな
づかい」は「かな」を「つかう」といふ語意識が生きてゐるから、「づ」でなければならない。もちろん、語意識が生きてゐるのは「ぢ」「づ」の場合だけではなく、「じ」「ず」の場合も生きてゐる。「帳尻」は「帳面の尻」といふ意味だから「ちよう
じり」でなければならない。「手漉きの紙」は「手ですいた紙」の意味で、「變な手つき」の「手つき」とは無關係だから、「て
ずきの紙」でなければならない。もつとも「機械的」記憶法からいへば、「じ」「ず」の場合は、たとへ語意識が生きてゐて語源をしかと認めうるときでも、そんなことは無視して、單純に「ぢ」「づ」以外は「じ」「ず」とおおぼえておけばいいといふことになりませう。
それにしても解せないのは、語意識が生きてゐるかゐないかの判定はどこにあるのか、それを誰がくだすのかといふことです。「た
づな(手綱)」には「綱」の語意識があり、「き
ずな(絆・生綱)」にはそれがないといふ。「おお
づめ(大詰)」や「すし
づめ(すし詰め)」では「詰め」が生きてゐて、「さし
ずめ(さし詰め)」では死んでゐるといふ。「むし
づくし(蟲盡し)」では「づ」で、「きぬ
ずくめ」では「ず」になる。しかし「蟲
づくし」と同樣に「絹
づくし」といふ言葉も當然あるわけですが、さうなると「絹
づくし」では「づ」で「絹
ずくめ」では「ず」になるといふ、まことに奇妙づくめな話になります。
そもそも語意識が生きてゐるかゐないかなどといふことは、誰にも判定できることではない。また判定の目やすなどどこにもない。言葉は生き物です。今日、使はれる言葉はすべて生きてゐるのだし、過去に使はれた言葉もすべて生きてゐるのです。したがつて語意識も生きてゐる。人がみづからそれと氣づかぬ場合にも生きてゐる。さういふことに國語改良論者はもつと謙虛にならなければいけません。第一、他人の、この私の語意識を勝手に判定し、
藪醫者ではあるまいし、生きてゐるのゐないのと無責任な診斷を下すなど、もつてのほかの
僭越であります。さうではありませんか、「ひざま
づく」は「膝」と「突く」だと意識してゐるものにたいして「ひざま
ずく」と書けといふのは、その生きてゐる語意識に死を宣吿、あるいは暗示、命令するやうなものです。
しかも右の「ぢ」「づ」と「じ」「ず」の二表を較べてみれば、それだけでもなんの根據もないことが明らかですが、さらに「じ」「ず」の表のうち「ぬかずく」「きずな」には星印がついてゐて、「*印の語については、語構成の分析的意識において個人差があるので、そこに見解の相違もあろうといっている」さうであります。かういふことを言ふやうでは、國語審議會など一日も早く解散してしまふにしくはありません。なぜ「ぬかずく」「きずな」の二語だけに「個人差」があるのですか。どの言葉にも「個人差」はある。問題は程度でせう。が、この場合、右二語と同程度に、あるいはそれ以上に「個人差」のはげしい言葉がたくさんあるではありませんか。のみならず、この國語審議會案の表は昭和三十一年七月のものです。私が金田一博士と論爭したのはその前年です。そして、そのころは「け
づめ」「こ
ぢんまり」はいづれも「け
ずめ」「こ
じんまり」となつてゐて、その矛盾を私は指摘しておいた。もちろん「ぬかずく」「きずな」も、やはり同表の他の例と一緖に矛盾を指摘しておいたものです。なるほど、たとへ「けづめ」「こぢんまり」の二語だけでもこちらの言ひぶんが通れば、國語審議會にもまだ脈があるといへるかもしれません。が、私はさうは思はない。それは妥協に過ぎず、機構いぢりと同じく整理のための整理でしかありますまい。第一、困るのは、その無定見、無責任です。が、このやうに變ることそのことが、語意識に「個人差」どころか「時期差」があることを、したがつて怱卒に語意識の死など判定できぬことを、審議會みづから證明したものと言へませう。
さらに、それが彼等の妥協にすぎず、したがつてその改正になんの筋も通つてゐないことは、次の事實によつて明らかです。二語連合において生ずる濁音「ぢ」「づ」の扱ひの矛盾として私が指摘した他の例に「心中」「意地」等があります。前者の「中」は「曾根崎心中」では濁つて、「心中を察する」では澄んで發音します。ところが、右の三十一年七月案にも、「世界中」「家中」「一日中」等すべて「――
じゆう」と書けと指定し、御丁寧にも「〈
ぢゆう〉と書く場合はない」と頑固な註を施してある。しかし、「世界中」「心中」の「――
じゆう」が「中心」や「中學校」の「
ちゆう」であるといふ程度の語意識は、「個人差」も何もない、どんな子供でももつてゐるでせう。それをしも「――
じゆう」とせよとは、全く理解に苦しみます。なほ後者の「意地」ですが、「地」はつねに「じ」と書けといふ。なぜなら「地面」「地震」のごとく、語頭においてもなほかつ濁つて發音する場合があり、「意地」「生地」等の「地」を二語連合のための濁音とは考へないことにしたからだと述べてをります。かうなると、
呆れてものもいへない。それなら「田地」を「デン
ジ」とも「デン
チ」とも兩樣に發音してゐる事實についてはなんと說明するのか。
次に、同音の連呼によつて生じる「ぢ」「づ」の場合ですが、これは「ち
ぢむ」「つ
づく」のやうなもので、さらに「つれ
づれ」「つく
づく」などにも適用され、いづれも「ぢ」「づ」をそのまま生して書きます。ただし「いち
じるしい」「いち
じく」では元來、「じ」なので「ぢ」とはしない。また「五人
づつ」などは歷史的かなづかひでは「
づつ」ですが、これは同音の連呼とは言へないといふ理由で「
ずつ」と書かなければいけません。「つ
づ」なら同音連呼で、「
づつ」ならさうではないといふ根據がどこにあるのか疑問ですが、それよりも同音連呼とは何か、ほとんど意味をなさぬ言葉だと思ひます。國語の性格上、これは大事な問題ですから、あとでゆつくり考へてみませう。
ところで、連濁について、もう一つ附則があります。「舞鶴」「沼津」のやうな固有名詞の場合です。これらの地名は漢字とどれだけの關係があるか解らないから、「まい
ずる」「ぬま
ず」と書いてもいいわけだが、ただ漢字と倂記することが多いので、鐵道方面では「ず」とせず「づ」としてをり、それは昭和二十二年に文部省と運輸省・建設省地理調査部との話しあひの結果だといふことです。ここで私たちはもう一度あきれかへらなければならない。「漢字とどれだけの関係があるか解らない」とは何事か。もともと訓よみの漢字はすべて
宛字です。ですから、ここは好意的に解釋して「漢字で表示された意味とどれだけの関係があるか解らない」のつもりと見なします。むしろ「意味とどれだけの関係があるか解らない」といへばよろしい。漢字との倂記が氣になるといふことなら、「
國府津」も「
こくふづ」すくなくとも「
こふづ」と書かねばならなくなるでせう。後者では、歷史的かなづかひと同じになります。しかも、「國府津」の場合は明らかに「意味」と關係があります。昔、この近くに國府があつて、その門戶としての津(港)といふことから、この名が起つたといふ、その種の起源說は總じてあてにはならぬといふ懷疑主義をとつたにしても、後人がそこに「意味」を假託する氣もちは否定しえません。「沼津」の「津」にはもちろん、「舞鶴」の「鶴」にも、ちやんと「意味」があるのです。それが「解らない」とか「無い」とか言ふのは、「さしづめ」や「きぬづくめ」では「づ」の語意識が死んでゐると診斷したのと同じ僭越であります。
〔引用者註〕海上自衞隊の護衞艦「いずも」は、歷史的に本當は「いづも」と書くべきなのである。間違つた表記にしてゐると、出雲大社の御加護を賜はれないのではないかと心配になるのである。
(福田恆存『私の國語敎室』、文春文庫、平成14年)