2019年2月1日金曜日

表音的假名遣は假名遣にあらず③

  三


然るに鎌倉時代に入ると、はじめて假名遣といふことが問題になつたのである。假名文字遣の最初にある行阿(源知行。吉野時代の人)の序によれば、假名遣の濫觴は行阿の祖父源親行が書いて藤原定家の合意を得たものであるといつてをり、藤原定家の作らしく思はれる下官集の中にも假名遣に關する個條があつて、先達の間にも沙汰するものが無かつたのを、私見によつて之を定めた由が見えてゐるのであつて、鎌倉初期に定家などがはじめて之を問題として取り上げて、假名遣を定めたものと考へられる

この假名遣は、「を」と「お」、「ゐ」と「い」と「ひ」、「え」と「ゑ」と「へ」の如き同音の假名の用ゐ方に關するものであつて、それらの假名をいかなる語に於て用ゐるかを示してをり、今日いふ所の假名遣と全然同じ性質のものである

この時代になつてどうして假名遣の問題が起つたかといふに、それは平安中期以後の國語の音の變化によつて、もと互に異る音を表はしてゐたこれらの假名が同音に歸した爲である事は言ふまでもない。しかし、以前の如く、同音の假名は區別なく用ゐるといふ主義が守られてゐたならば、これ等の假名が同音に歸した以上は、「を」でも「お」でも、又「い」でも「ゐ」でも「ひ」でも同じやうに用ゐた筈であつて、之を違つた假名として、區別して用ゐるといふ考が起るべき理由はないのである。もつとも、「を」と「お」、「い」と「ゐ」と「ひ」はそれぞれ違つた文字であるけれども、當時、一般にどんな假名にも同音の假名としていろいろの違つた文字(異體の假名)があつて、區別なく用ゐられてゐたのである故、これらの假名も同音になつた以上は同音の假名として用ゐて差支なかつた筈である。然るにこれらの假名に限つて、同音になつた後も假名としては互に違つたものと考へられたのは、特別の理由がなければならない。私は、この理由を當時一般に行はれてゐた「伊呂波歌」に求むべきだと考へる。卽ち、これらは、伊呂波歌に於て別の假名として敎へられてゐた爲に、最初から別の假名だと考へられ、それが同音になつた後もさうした考はかはらなかつたので、同音に對して二つ以上の違つた假名がある事となり、それ等の假名を如何なる場合に用ゐるかが問題となつて、こゝに假名遣といふ事が生じたものと思はれる
〔引用者註〕《「ハ行転呼音現象」が起こったのと同じ西暦一〇〇〇年頃、ア行の「オ」とワ行の「ヲ」とが一つになった。また、一一〇〇年頃にはア行の「イ」とワ行の「ヰ」とが一つになり、同じ頃、さらにア行の「エ」とワ行の「ヱ」とが一つになったと考えられている。こうして、日本語で使っている音は四十七から三つ減って、四十四になった。
この時に、「お・を」「い・ゐ」「え・ゑ」のどちらかの仮名を使うことをやめて、「お・い・え」のみを使うとか、「を・ゐ・ゑ」のみを使うということにすれば、音韻と仮名との一対一の対応は保たれる。そうすることもできなくはなかったが、そうはしなかった。「できなくはなかった」「そうはしなかった」と表現すると、意思をもった人間が関与しているように感じられてしまうかもしれないが、そういうことではなくて、日本語の表記システムがそういう選択をしなかったということである。》(今野真二『かなづかいの歴史 日本語を書くということ』、中公新書、平成26年)
今野氏の言はれる「日本語の表記システムがそういう選択をしなかった」ではやはり說明としては充分ではないのである。
《「ワラハ」と発音する語を「わらは」と書く場合は、仮名の使い方に迷うことはない。自分が発音しているとおりに仮名を使えばよい。仮名は日本語を書く文字としてうまれてきた。だから、「ア」と発音する音節(母音を中心とした発音のひとまとまり)があって、それにあてる仮名「あ・ア」がある。「カ」と発音する音節があって、それにあたる仮名「か・カ」があるというように、日本語で使っている音=音韻と一対一の対応を形成していた。仮名の使い方に迷わないのだから、「かなづかい」ということそのものがなかった。……それで、「かなづかい」という現象がなかった時期、つまり十世紀以前の仮名の使い方を「古典かなづかい」と呼ぶことにしたい。「古典かなづかい」とは、音韻と仮名とが一対一の対応を保っていた時期における仮名の使い方のことを指す。》(今野真二『かなづかいの歴史 日本語を書くということ』、中公新書、平成26年)
この今野氏の指摘する「古典かなづかい」の時代、卽ち假名遣が問題にならなかつた時代には、自分が話す音をそのまま假名で寫せばよかつた、といふのはその通りであらう。つまり表音主義の時代だつたと謂へなくもないのであるが、但しその表音主義とは、音と文字とが一對一の關係ではなく、橋本博士が何度も觸れられてゐる如く、萬葉假名の時代から變らず一對多の關係なのである。だからこそ前章で見たやうに、ア行とヤ行の[エ]が合流して一つになつた時には、ア行の[エ]を表す假名グループに「𛀁」を包攝することで、一對多の關係のまま表音主義も崩れることなく自然に矛盾が解消されたのである。ところが、オとヲ、イとヰ、エとヱがそれぞれ一つの音になつた時には、我々の祖先はこれらの區別をどうするかと惱んだのである。平安朝初期の時とでは、對應の仕方が異なるのである。そこで橋本博士は、何かそれまでになかつた特別な原因がないと之は說明がつかないといふことで「伊呂波歌」の存在を指摘せられたのである。

(『國語國字敎育史料總覽』、國語敎育硏究會、昭和44年)

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