2019年2月6日水曜日

「現代かなづかい」の不合理――1「現代かなづかい」の實態②長音の書きかた

第二の例外は、「お列」長音の書きかたであります。「現代かなづかい」では、この「お列」を除いて、「あ・い・う・え」四列の長音は、それぞれ該當音の下に、それと同音の母音の「あ行」文字、すなはち「あ」「い」「う」「え」を附けて表し、「おかさん」「しの木」「つしん」「ねさん」と書くことになつてゐます。この筆法でゆけば、「お列」長音は該當音の下に「お」を附けるべきですが、それがさうはゆかない。「お」の場合と「う」の場合と二つあるのです。しかも、その二つのうち「う」を附ける場合を「本則」としてゐるのです。じつは「本則」も何もあつたものではない。「本則」といふなら、むしろ「お」を附ける場合をさう呼ぶべきですが、そのはうが數が少く、「う」を附ける場合のはうが數が多いので、それを「本則」と呼んでゐるだけです。國語改良論の立場からは、質より量を重視すべしと言ふことでもありませう。

ところで、「う」と「お」の差別はどうなつてゐるか。まづ例をあげませう。「う」を附けるのは「扇(おぎ)」「おとさん」「行こ」の類で、「お」を附けるのは「氷(こり)」「狼(おかみ)」「大きい(おきい)」「通る(とる)」の類です。前者が「本則」なら、なぜ後者の「例外」を設けなければならないのか。廣田氏の說明ではかうなつてゐます。後者は歷史的かなづかひではすべて「ほ」であり、「こり」「おかみ」「おきい」「とる」と書いてきた。その「ほ」が「お」に變つただけで、それを長音とは考へず、母音が二つ重つたものと考へるといふのです。事ごとにいいかげんな理窟づけで、默つて見すごすのは容易なことではありませんが、もう暫く我慢しませう。とにかく右の例は歷史的かなづかひで「ほ」と書かれてゐたものに限るわけですが、かうなると、「現代かなづかい」を正しく書き分けるために歷史的かなづかひの知識を必要とするといふことになります。その弱點は當事者にもさすがにうしろめたいと見えて、廣田氏は「さいわいに実際問題としては、この種のことばは次に掲げるように少ないので、それらを機械的に覚えておけばいい」と辯じてをります。「機械的」におぼえておけとは言ひ得て妙であります。「現代かなづかい」「当用漢字」の制定に現れた國語改良論の精神を一言にして盡してゐるからです。それはさておき、その「機械的」記憶を必要とする「例外」は次の十八語です。
おおやけ(公) こおり(氷) ほのお(炎) おおせ(仰せ) おおきい(大きい) とおい(遠い) おおい(多い) とおる(通る) こおる(凍る) とどこおる(滯る) もよおす(催す) いきどおる(憤る) おおかみ(狼) ほおずき おおよそ おおむね おおう しおおす (以下福田追加、「おおかた」「ほおかぶり」等〻)
右以外の「お列」長音はすべて「う」を附けて書くことを本則とすると申します。したがつて「王子」「往時」は「おじ」で、「都大路」は「都おじ」、「高利」「行李」は「こり」で、「氷」は「こり」となる。さらに「大阪」は舊「おほさか」なるがゆゑに「おおさか」と書き、「逢坂山」は舊「あふさかやま」なるがゆゑに、すなはち「ほ」ではなく「ふ」であり、かつそれに先だつ文字は「あ」でも、「お列」の「オ」であるがゆゑに、本則どほりに「おうさかやま」と書かねばなりません。しかし「逢ふ」「會ふ」だけなら、前出「は行」音の項で申しましたとほり、「現代かなづかい」では「あう」でなければならない。それが發音どほりといふものです。したがつて「逢坂山」は「あうさかやま」でなければならない。さうなると、「逢ふ」を「大」と同じに發音した古人はけしからんといふことになる。なんだか頭が變になつてきました。なんでもいいから「機械的」におぼえておけといふのでせうが、「機械的」記憶もここまで要求されると、もともと「機械的」に出來てゐない頭腦の場合、下手をすると「生理的」變調を來しかねません。
〔引用者註〕テニスの大坂選手は現代假名遣で「おおさか・なおみ」、歷史的假名遣で「おほさか・なほみ」となり、レッツゴー三匹の逢坂じゅんさんの場合は現代假名遣「おうさか・じゅん」、歷史的假名遣「あふさか・じゆん」となるのである。
なほ、以上のほかに「お列」長音の「例外」がもう一つあります。これまた全然別種の「例外」で、「ほ」ではなく「を」の場合です。すなはち「十」は舊「とを」であるから、「現代かなづかい」では「と」ではなく「と」と書かねばならない。「を」はすべて「お」だといふ原則があるからです。これも歷史的かなづかひを知らないと納得できぬ一例です。
〔引用者註〕「申す」は元々「まをす」なのであるが、それが早い時期に「モース」と發音されるやうになつたので歷史的に「まうす」と書かれてきたらしいのである。この時點で旣にこれは表音的なのであるが、今度はその「まうす」を歷史的假名遣と看做して、現代假名遣で「もうす」にしたことで、最初の「まをす」と全く關係が切れてしまつてゐて、どうなのかと思ふのである。

(福田恆存『私の國語敎室』、文春文庫、平成14年)

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