はつきり申しませう。今までに擧げてきた「現代かなづかい」の矛盾は、ほとんどすべて「表記法は音にではなく、語に隨ふべし」といふ全く異種の原則を導入したために起つたことで、その實情を實際の音聲にあらざる音韻などといふものによつて說明しようとするのはごまかしに過ぎません。例の百五十四人中の百三十一人を代表者とする國民の大多數が考へてゐるやうに、內容の細部には「檢討の餘地」があつても「趣旨」には贊成するなどといふことは言へないのです。それは原則と內容との矛盾ではなく、原則に內在する矛盾で、それは一つの原則が他のもう一つの原則と同居させられたために起つたことなのです。それを、あくまで原則は首尾一貫してゐて、現實への適用においてのみ、種〻の例外が起るかのやうに見せかけてゐることが問題ではないでせうか。
廣田氏はさすがに音韻といふ言葉は用ゐず、表音主義を表立ててはゐるものの、それでも同じごまかしを試みてをります。そこにはかうあります。「現代かなづかい」は表音主義を原則とするが、それはあくまで正書法であるから表音主義と相容れぬ例外が出てくる、と。これは奇妙です。そんなことでは表音主義は正書法の原則には出來ぬといふことになるではありませんか。さらに、さうして例外が出てくるとしても、それがどうして「これまでの書記習慣と妥協して、旧かなづかいの一部が残存している」やうなものとなるのか、その點がごまかしになつてゐるのです。「これまでの書記習慣と妥協して」とは言ひも言つたりです。「習慣と妥協して」と言へば、受けとる側はなんとなく「習慣だから妥協して」と讀んでしまふ。非は習慣にあり、もしその非なる習慣さへなければ、思ひ切つて傳家の寶刀たる表音主義の原則をもつて暴れられるのだがといふ感じです。だが、實情はさうではない。それは「これまでの書記習慣と妥協して」ではなく、歷史的かなづかひの原則に抗しえず、その一部を殘存せしめたのに過ぎません。
中身は
竹光なのに、拔けば拔けるのを拔かずにゐるのは、世間の「習慣」を尊重するから、あるいはそれとの要らざる摩擦を避けたいからと、その理由は專ら世間の「無知」にかづけるのは、まことに男らしくない卑劣な態度といふほかはありますまい。金田一博士の說明にも、終りのはうにその種のお爲ごかしが出てきます。それはどんな立派な理想案も性急に施したのでは、かへつて實現しにくいのが常で、理想は現實をあやしなだめながら徐〻に自己實現を計らねばならぬといふ、親心、大御心そのままの甚だ大人らしい情理かねそなへた考へ方です。しかし、理想は現實をではなく、自己をあやしなだめ、ごまかさねばならないのではないか。たださういふ己れの姿を知りたくないために、理想どほりにいかぬのは現實が惡いため、世間が「無知」であるためと思ひなしたいのではないか。意地わるく勘ぐれば、非は表音主義といふ原則の側にあり、それを明るみに出さぬために必要な「妥協」であつて、そこを見破られずにすんでゐるのは世間の「無知」といふ恩惠あればこその話、さらにそれを利用して、その「無知」と「妥協」してゐるかのごとく見せかける忘恩行爲といふことになります。が、私はさうまで惡質だとは考へない。やはり現在の「妥協」は表音主義といふ理想に到達するまでの暫定的處置と、當事者みづから思ひこんでゐるのでせう。ただ結果としては、時枝博士の指摘のやうに、國民の「無知」で大助りしてゐるといへます。
同時に、「現代かなづかい」の「趣旨」に贊意を表し、一日も早くその「趣旨」に沿つて、細部の矛盾を解決するやうに迫る同調者は、「親の心、子知らず」といふのに似たものがあります。それら幾多の矛盾は暫定的・過渡的なものではありません。歷史的かなづかひにおける單なる「書記習慣」が殘存してゐるのではなく、その原則が殘存してゐるところから生じるものであつて、それは言ひかへれば、國民の心理がではなく、
國語の生理が表音主義に謀叛してゐるからであります。表音主義であらうと、ローマ字であらうと、この國語の生理といふことには勝てません。それを出來うるかぎり生すやうに努めること、それが歷史的かなづかひの原則にほかなりません。
(福田恆存『私の國語敎室』、文春文庫、平成14年)
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